大失敗 / スタニスワフ・レム (その2)

FIASKO‐大失敗 (スタニスワフ・レムコレクション)

FIASKO‐大失敗 (スタニスワフ・レムコレクション)

前回からの続きです。

■断絶
これまでのレム小説で描かれてきた異星知性体との”絶対的ディスコミュニケーション”は、科学的推論からいえば至極真っ当な結論なのかもしれない。その観念の基盤となるものの原型が完膚無きまでに違う”文明”が相互理解することなど”有り得ない”。宇宙を支配する物理法則はひとつであり、そこから導き出される理論の結果は同じものであるとしても、異なった環境を持つ惑星から進化する生物が人類と同等の形を持った知性の鋳型に当てはめられる物であると言うのは単なる楽観主義でしかない。言ってみればこの楽観主義的なSFを生み出したのがアメリカSFなのだとすれば、東欧のSFはどこか悲観的な観点に立つ作品が多いのではないか。これは、社会学的なコミュニケーションの立場が自由主義国と共産主義国というそれぞれの社会背景によって異なるからだということが出来るのではないかと思う。”絶対的ディスコミュニケーション”、それは、科学的推論であると同時に、共産主義国家に生まれたレムの個人と社会との断絶を表徴したものであるとはいえないか。

■予兆
レムがそのヨーロッパ知識人としての知性からこの断絶に絶望していたのだと仮定することは想像に固い。そしてその絶望は”個人と社会との断絶”に対する徹底した無力感を導き出したのではないか。これがレムの描いた”絶対的ディスコミュニケーション”だったのだろう。しかし、事態は急変する。先に挙げた東欧社会の激変、これが今回の『大失敗』の執筆時期とどう重なるのかは記録が無い為に不明であるが、”変革の予兆”は既にレムの身にもひしひしと感じられていたはずだ。そして”徹底した無力感”の蓋が割られ、そのような無力感を強いてきた体制と構造への怒りと侮蔑に似た感情がレムの中で頭をもたげたのではないか。無益で無意味な対立を惑星規模で展開する惑星クウィンタ。これは当時の米ソ両国の冷戦構造を揶揄したものであったろうことは明らかだ。しかしそこに赴き、コミュニケーションを行う筈だったにも拘らず遂にはこの惑星を破滅に導かんとする人類の宇宙船「エウリディケ号」とはなんなのか。

■モラルと良心
物語後半、この惑星規模の大破壊行為を実行するかどうかについて二つの対話がなされる。一つはコンピューターとの対話、もう一つは神学者との対話である。無神論的である日本ではこの部分はあまり重要視されていないようだが、キリスト者の多いヨーロッパ社会においてはこの宗教的対話こそが物語の核心に触れるものだという事が出来るのではないか。これは光速で宇宙を駆ける未来に神は存在するのかという論議ではない。破滅的対立のある世界で良心とは何かという問題なのだ。そしてこのクウィンタ星=東西両陣営の対立、という図式の中に持ち込まれた人類の宇宙船「エウリディケ号」とは作家であり知識人であるレム自身の視点なのではないか。
コンピューターとの対話は冷徹なる事実であり現実の問題を指し示す。(しかもこのコンピューターの名前がGOD。)
そして神学者との対話はモラルと良心の存在について行われる。
冷徹なる事実に良心はどう応えるべきであるか。
即ち、我々は歴然と存在する陰鬱なる現実にどう人間として対処してゆくのか。
不信と猜疑心に対する良心の存在とその有効性。
そのような問い掛けの中、レムの物語で選ばれた行為はジェノサイドとも呼べるような、世界の全き破滅である。

■終わる世界
これまで、レムはそのファースト・コンタクト3部作の中で”絶対的なディスコミュニケーション”を描いてきた。これはある意味知識人であるレムらしい絶望のあり方であり、そしてまた知識人の持つ限界であったのかもしれない。それは明白に”全ては無効である”と知ってしまったヨーロッパ的知性の絶望であるからだ。だが『大失敗』におけるレムの視点は、”変革の予兆”をその身に体験する事により遂に突き抜けてしまう。レムはここで、不信と猜疑に満ちたクウィンタ星人を全て滅ぼしてしまう。ではレムは世界は破滅に相応しいものと考えていたのか。いや、そうではない。レムが本当に破壊したかったもの、それはこの世界を覆う”不信と猜疑そのもの”だったのである。レムは物語の中で”大破壊”を行うという形で、膠着し停滞したこの世界の状況に能動的な”否”を突きつけたのだ。新たに胎動しつつあった世界の自由と開放を幻視しながら。『大失敗』は、これまで絶望の中に押し込められてきたレムの怒りの表出であり、決意の書だったのである。