大失敗 / スタニスワフ・レム (その1)

FIASKO‐大失敗 (スタニスワフ・レムコレクション)

FIASKO‐大失敗 (スタニスワフ・レムコレクション)

■球体戦域
レム最後の長編、待望の翻訳。物語は土星の衛星タイタンにおける遭難者探索から始まる。このタイタンでの何処か築年齢を経た鉄鋼所のような前進基地の様子と重機めいた作業用ロボットの重々しく古めかしい描写に驚かされる。奇妙にレトロな雰囲気なのだ。しかし舞台は一転、22世紀へと飛び、近隣恒星における知的生命体の存在を確認した人類が、恒星間宇宙船によりこの星とのファースト・コンタクトに赴くところから物語の真のテーマは語られ始める。人類が亜光速の宇宙船を駆り到達した始めての知的宇宙種族の惑星クウィンタ、そこは惑星を中心とした《球体戦域》を宇宙空間に展開する、同族同士が敵対し冷戦状態にある一触即発の世界であった。

■レム的思弁
ここでレムは物語を進める事よりも物語の世界観を形作る様々な科学、政治学、思想、歴史、倫理と宗教を片っ端から語りつくす事で、フィクションというよりも「レム的思弁の流れ」を読者は読まされる事になる。これがまた膨大緻密であり、これほど瑣末な事まで書かねばならなかったのか、と思わせるほどだ。しかしだからこそ、レムならではの恐るべき思考と知識の深さを読者は覗き見ることが出来る。その為だろうか、この作品は「非SF」と評されることさえあるようだ。ただ逆に、レムを読み慣れない読者は彼の理屈っぽさを晦渋なものと受け取るかもしれないし、その奔放に展開される理論で若干停滞気味のストーリーの流れ方にじれったさを覚えるかもしれない。レム本を読むということはこの作者の知識との格闘ともなる訳で、気軽に読める本だと思って取り掛かると痛い目に合うから気をつけたほうが良いかも知れない。

■絶対的ディスコミュニケーション
これまでレムは人類と異星の知性との”絶対的ディスコミュニケーション”を描いてきた。それはもはや絶望とさえ言えるほどのものであった。『ソラリス』のコロイド状の海しかり、『砂漠の惑星』の機械知性しかり、そして最近新訳された『天の声』の超古代銀河文明しかりである。言ってみればアカアリとシェパード犬にコミュニケーションは可能か?と問うているかのような恐るべき断絶と不可能がそこにはあった。しかしこの『大失敗』では、少なくとも人類が訪れたクウィンタ星の知的生命体には、人類が理解可能な社会と科学と文明が存在し、それを成り立たせる”動機”すらも容易に推測できる存在として描かれる。だがしかしここでもレムは絶望的な陥穽を用意する。歩み寄りさえすればコミニュケーション可能とまで思われる両者は、クウィンタ星人の”絶対的なコミニュケーション拒否”によって、遂には破滅的な終局を迎えてしまうのだ。この”絶対的なコミニュケーション拒否”とは、不信でありそこから生まれる得体の知れない憎悪である。そしてこの不信と憎悪からは、単なるディスコミニュケーションを超えたさらに深い絶望を感じてしまう。だからこそこの作品はこれまでのレムのファースト・コンタクト・テーマをより深化させたものとして捉える事ができるわけであり、さらにレム自身の世界への苦悩がより一層明確になった作品だと言えるのではないか。

■東欧の大変革
当然、フィクションにはその背景となる社会事情があるはずだ。東欧の作家レムの作品からは執筆当時の東西冷戦の有様を読み解く事は簡単だろう。この『大失敗』が出版されたのは1987年、実はこの前後の年は東欧にとって激動の年であった。1985年、ソビエト連邦書記長に就任したゴルバチョフ一党独裁による腐敗を正す為ペレストロイカグラスノスチを推進する。続く1986年、アメリカ・レーガン大統領とゴルバチョフ戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力の全廃について基本的な合意を成立させ、それは1987年に成立する中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)へと繋がり、核の脅威が東西陣営から次第に払拭されていった。そして1989年、ソ連共産主義体制は遂に崩壊し、ベルリンの壁は破壊され、東西緊張はなし崩しに消滅する。レムの母国ポーランドでは1988年から民主化運動が顕著化し、これと同時に1989年、ソ連衛星国の東欧諸国において共産主義政権が次々に崩壊するという東欧革命が起こる。ポーランドでは1990年、「連帯」のワレサが政権を握る事により完全な民主化政権へと移行する。そう、レムの『大失敗』は、このような大変革の時期に出版された作品だったのである。

次回に続きます。