マリー・アントワネット (監督:ソフィア・コッポラ 2006年 アメリカ映画)

世界一有名なビッチなセレブ、マリー・アントワネットの半生を描いた映画である。まあなにしろ粗筋など書く必要も無いぐらい鉄板で”あの”マリー・アントワネットの物語である。しかしかなりハズシまくったマリー・アントワネットであることも確かだ。映画の冒頭では豪奢なヴェルサイユ宮殿の佇まいをバックに伝説のポストパンク・バンド、ギャング・オブ・フォーの曲が鳴り響き、その後現れるタイトルはセックス・ピストルズの1STアルバムジャケットを思わせるタイポグラフィ。要するに”パンクなマリー・アントワネット”ということらしい。つまり監督であるソフィア・コッポラは、重厚な史劇を作ろうなんてハナから思ってませんよ、と宣言しているわけだ。まあパンクだったのはそこまでではあったが。そして14歳で国を離れ結婚したマリー・アントワネットの喜びや悲しみは一応描かれるけれども、彼女の人物像を掘り下げることなど殆どしていないと思っていい。じゃあ何を撮りたかったのか?どう料理したかったのか?というところがこの映画の見所となるのだろう。

で、結論から言うと、これはガールズムービーということだ。つまり、”お姫様みたいな暮らししてみたい!でも、本当のお姫様ってどういう暮らしだったの?”という大量消費の物質経済を謳歌するマテリアル・ガール達の、その元祖の蕩尽ぶりを描いて見せたというわけなんである。この21世紀にあれと全く同じ生活をしてみたいと思う方はいないとは思うが、ゴージャスな生活への下世話な興味というのは誰にでも在るのは確かだろう。そして、「ぶっちゃけ、いい暮らしってこういう事を言うのよ」と描いて嫌味にならないのは、マリー・アントワネットという偶像が大きすぎてどこか現実味が無いからだというのがあるだろう。子供に恵まれないマリー・アントワネットへの精神的重圧にフェミニズムを持ち出すわけではないし、浪費が重税を生み圧政となったことに現在でも通じるような政治的視線を投げかけるわけでもない。なぜならそれは主題とはカンケーないからである。この辺の切り捨て方はある意味潔いほどである。

だからこの映画には殆どドラマらしいドラマが存在しない。史実にあったことはなぞってはいるのだろうが、ドラマ的に盛り上げる訳でもなく、ある意味フィクショナブルな脚色さえされていないような気がする。あるのは綺麗可愛い素敵がただただ垂れ流されるだけである。しかし、それが目的の映画で在る以上、綺麗可愛い素敵を好きな人が観ればそれでいいのかもしれない。そして描かれる貴族達の豪華で気だるくどこまでも満ち足りた生活は観るからに退屈そうだが、なんだか映画それ自体も退屈な仕上がりになってしまっている。退屈なものを描いて退屈に感じさせるというのも随分だが、意図されたものにブレはなかったというのも皮肉だが確かでは在るだろう。

もともとソフィア・コッポラは”雰囲気”をメインにした映画の撮り方をする人で、前作の「ロスト・イン・トランスレーション」も、異邦人の孤独を描いたものではあるが孤独そのものを掘り下げたというよりは”ちょっとおセンチな海外旅行日記”の範疇を超えてはいなかった。これも要するに”雰囲気”の映画だったのだ。ただ逆にその軽さがいい具合に心地よく、「ロスト・イン・トランスレーション」自体は心に残る映画になっていたと思う。今作でもそのスタンスを外してはいなかったとはいえ、オレのようにビッチとセレブに眉を顰めてしまう類の貧乏人の小市民にはあまり向かない映画として仕上がってしまったようだ。「ゴージャスのどこが悪いのよ!」と言い切れる大量消費の申し子のような生活をされている・憧れている方にこそ観るにふさわしい映画だろう。

サウンドトラックには先に挙げたギャング・オブ・フォーの他、ニュー・オーダー、キュア、スージー&ザ・バンシーズ、エフェックス・ツインなどブリティッシュニューウェーブの申し子達の音楽が使用されている。フランス王制時代を描いた映画に英国産パンクニューウェーブミュージック、というのも深読みすればいろいろと言えるのかもしれないが、相手はソフィア・コッポラ、そこは「まあ雰囲気よ、雰囲気」と軽く受け流されそうな気もする。ただ、ニュー・オーダーの『セレモニー』が流れる誕生日のパーティで踊り騒ぐマリー・アントワネットと貴族達の姿は、どこか夜の喧騒の中で漂泊する現代の若者たちの儚さや心の拠り所の無さとだぶっと見え、ひょっとしてソフィア・コッポラの描きたかったのはこれだったのかな、とふと思わせたものがあった。

マリー・アントワネット トレーラー(New Order "Age of Consent"Ver.)

マリー・アントワネット トレーラー(Gang Of Four "Natural's Not In It"Ver.)