ドラッグ・カルチャーの終焉を描くP・K・ディック原作のアニメーション映画『スキャナー・ダークリー 』

スキャナー・ダークリー (監督:リチャード・リンクレイター 2006年アメリカ映画)

ドラッグ・カルチャー

日本にはドラッグ・カルチャーというものは存在しない。だからこの映画はドラッグ・カルチャーという背景を理解しないと多少判り難いかも知れない。ドラッグ・カルチャーというと単にイリーガルな薬物を摂取する痴れ者達が乱痴気騒ぎをしている様を連想するかもしれないが、実際は薬物による意識拡大と自己発見、そして神秘主義にまで踏み込んだアメリカの60年代カウンターカルチャーのことだと思っていい。ヒッピー・ムーブメントと切っても切れない存在であるこのドラッグ・カルチャーはアナーキーなコミュニティと新たな人間存在の獲得を目指したものだった。

詩人のアレン・ギンズバーグ、作家のウィリアム ・バロウズ神秘主義研究のオルダス・ハクスリー、元ハーバード大教授のドラッグ教祖ティモシー・リアリーによる意識革命など、人文学の分野におけるドラッグ・カルチャーの先達者の名前は聞いた事がある方も多いだろう。ロック・ミュージックの世界でも数多のミュージシャンがドラッグ・カルチャーの中で様々な音楽を生み出しているが、これも名前を挙げていけばきりが無いほどだ。ドラッグ・カルチャーはただ個人が快楽を得るためのみにあったのではなく、旧弊で硬直した世界と社会へのアンチテーゼであったのであり、ひとつのユートピアニズムであったのだ。

しかしこのヒッピーたちの文化は70年代に入り崩壊する運命にあった。言ってしまえば、ユースカルチャーの観念性は現実を凌駕する事など決して出来ないということなんだろう。(安保闘争における学生運動が何かを変えただろうか?天安門事件は何故悲劇のうちに終わったのだろうか?)幻想は終わり、そして彼らは自滅してゆく。この映画の原作「スキャナー・ダークリー」は、ドラッグによるユートピアを目指しながら自滅していった若者達と、そして友人達への、原作者フィリップ・K・ディックの鎮魂歌である。

暗闇のスキャナー

この作品「スキャナー・ダークリー」ではスクランブル・スーツのようなディックお得意のSFガジェットさえ現れるものの、作品の感触は非SFであり、実際の所フィクションの形を借りたディックの私小説だと思っていい。そして作品的には「ブレードランナー」として映画化された「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」と奇妙な相似形をなしている事に気付くだろう。異分子を狩る捜査官、アイデンティティ・テスト、本物(主体)と偽者(客体)の逆転。しかし「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」がテクノロジーを介してしか自己存在を発見できない人々の救済についての物語だとすると、この「スキャナー・ダークリー」はそのテクノロジーでさえ自己存在を見失わせ、そしてそこには暗闇しか映し出さないというもはや絶望しか存在しない状況を描き出している。

映画作品自体は原作の忠実な映画化として完成されている。ロトスコープを使ったデジタル・アニメーションも分裂した世界観を表現する上でイマジネーションを広げる手助けとなっている。なによりサイケデリックで美しい。しかし物語それ自体はディック小説にありがちな視点の定まらなさと集中力の無さをそのまま引き継いでしまい、前半と後半のトーンが微妙に違うので戸惑われる方もおられるかもしれない。前半における主人公と友人達の狂騒的な会話や行動はコミカルでさえあるが、その背景にドラッグによる興奮と酩酊があることを考えるとやはり居心地が悪く、笑うことが出来ない。

これが後半、次第に疑心暗鬼と被害妄想に彩られた病的でパラノイアックな物語へと変容して行き、観客は登場人物の視点に入ったまま異様に狂い始めた世界を体験する事となる。何より圧巻だったのは、自殺に失敗した登場人物の前にモンスターの幻覚が現れ、これまでの人生で犯した罪をとうとうと読み上げるシーンだ。この罪状が読み終わるのに確か数億年掛かると言っていなかったか。そして救いの無い寒々としたラストが心に重くのしかかってくる。

楽園の終焉

オレはこの映画を単なるアンチドラッグ作品だと言ってしまうと作品を矮小化してしまうのではないかと思う。何故ならこれはディック達の世代が体験した60年代ユートピア幻想が終焉し敗北した事への哀悼だからだ。70年代はアメリカの体制が再建され新保守主義ネオコンの胚芽が生まれた時代であり、それは現在のアメリカ覇権追求型のブッシュ政権へと繋がってゆく。楽園を目指した若者達は結局巨大資本に絡め取られるしかなかったのだ。それはこの物語のクライマックスで描かれることが象徴していたのではないか。

映画のスタッフロールの終わった後に、原作で最も心痛極まりなかったあの追悼文が画面に映し出される。これはディックが現実世界で実際にドラッグで失った友人達への追悼文だ。映画「スキャナー・ダークリー」は決して完成された作品だとは思わないが、心の隅に奇妙な痛痒感を残す佳作であることは間違いないと思う。

エンディング・テーマはなんとトム・ヨークレディオヘッドのリーダーである彼のソロ作の音楽がこれほどこの映画にマッチするとは思わなかった。出演のキアヌ・リーブスウィノナ・ライダーも、アニメーション画像と化してるとはいえやはり存在感のある素晴らしい演者であった。ちなみに、ウィノナ・ライダーの名付け親は、先に名前の出ているドラッグ教祖ティモシー・リアリーである。

参考:20世紀のアメリカ文化−「60年代」