プラダを着た悪魔 (監督:デヴィッド・フランケル 2006年 アメリカ映画)

一人暮らしも長くなるが、男やもめにウジが沸くでは情けなかろうと取り合えず着るものは毎年ちょくちょく買い換えるほうだ。80年代バブルの頃にセーシュンだった者にとっては、取り合えずDCブランドの服を着なければならないという妙な強迫観念があって、似合いもしないのにしょっちゅう買って着ていたせいもあるだろう。ただ歳も歳だけにワカモノのような格好はまるでそぐわず、かといって歳相応の洋服を着るとひたすら爺むさくなるし、ちょっと高級な洋服を着ると単におのぼりさんのように見えてしまう。だいたい洋服なんざ金さえ出せば買える物だけれども、それが似合うかどうかはまた別の話である。生活スタイルというのは顔つきや行動や体型に如実に現れるもので、それは洋服ごときでは隠せないものだからだ。全体的にいろんなものが緩んでいるオレはスマートでエレガントな洋服を着てもどうにもちぐはぐになってしまうのである。だから何を着ても売れないお笑いのように見えてしまう。嗚呼。


この映画『プラダを着た悪魔 』は鬼のようなカリスマ編集長が君臨する雑誌社に勤めた新米編集者の奮闘記ということになっている。映画のキモはメリル・ストリープ演じる編集長の悪魔の如き我侭と無理難題に翻弄される主人公の悪戦苦闘の様子なのだろう。しかしオレは”鬼”と呼ばれるこの編集長のその仕事に求めるクオリティの高さと徹底したプロフェッショナル意識は、映画的な誇張はあるにせよ、至極当然のもののように思えた。職種にもよるのだろうが、常にNO.1でい続ける仕事をしなければならない者というのは、このような厳しさや緊張があって当たり前なんではないのか?さらに服飾雑誌というビジュアルを扱うものはデザイナーと同じアーチスト的なセンスを求められるのだろうし、アーチスト全てが我侭だとは言わないけれども、己のセンスを完璧に表出させる為に強烈な我の強さを押し出すというのは頷ける事だからだ。


対してアン・ハサウェイ演じる新米編集者アンディは、ファッション誌編集部に雇用されたのにも関わらずファッションには何も興味が無いと最初から堂々と宣言し、さらにはジャーナリストになる為の足がかりでしかない、と打算的な理由でこの雑誌社に入社するのだ。彼女は結局持ち前の頭のよさでファッションの着こなしを覚えカリスマ編集長の右腕へとのし上がって行くが、つまりはファッションへの情熱というよりは処世術に長けもともとオールラウンドな才能を持っていたからこその抜擢であり出世なのではないかとオレなんかは思う。これは最初彼女を見下していた同じアシスタントのエミリーが、パリコレへ行くのを夢のように楽しみにしていたことから伺わせるように、ファッション業界で仕事をしていく事に喜びや誇りを持っていただろうけれども、才覚の面で結局はアンディに及ばなかったことから考えると、面白い対比なのではないかと思う。


つまり物凄く意地の悪い見方をすると、アンディはなるべくして編集長の片腕になったのであり、平凡な女の子が努力に努力を重ねてやっとスポットライトの当たる桧舞台に立てた!というお話とはちょっと違うんではないだろうか。だからラストは主人公が人間性だの愛だのに目覚めなんだか丸く収まってしまうけれど、本当は第2の編集長として鬼のような無慈悲な采配を振るうキャラへと変身し、「キャリアを積むということで得るものも在る、しかし捨てなければならないものもある」というシビアさを持った物語であったほうが本当はリアルなのかもしれない。だがそうしなかったのは、やはり主軸はこれが”女の子のサクセスストーリー”であり、つまりはファンタジーであるからなんだろう。例え女であっても男社会で男のように仕事が出来る事が幸福なのだ、というのは夢が無いもんな。


なんだか批判的に書いたが実はこの映画は結構好きだ。ファッション業界というせいで登場人物たちが艶やかである事こと、物語的誇張はあるにせよファッション雑誌編集という仕事の世界を覗けること、打算的とは書いたが主人公の性格は屈託がなく、判りやすく共感しやすいキャラクターであること、そしてなによりメリル・ストリープの圧倒的な演技の素晴らしさである。笑い所、泣かせ所のツボをうまくついた演出もメリハリがあり映画をとても巧く盛り上げている。そしてファッションを扱った映画にも拘らず、スノビズムに走らず、テーマは大衆的であり、誰もが見て楽しめるものに出来上がっているところがいい。勿論ファッションに興味のある方は観て損のない映画だと思う。アン・ハサウェイの彼氏役はあんまり魅力無かったけどな。あれは捨てられてもしょうがないような気がしたがな。


■The Devil Wears Pradaトレイラー