『枯草熱』(天の声・枯草熱 / スタニスワフ・レム より)

今日は『天の声・枯草熱 』の『枯草熱』を紹介します。ちなみにこれ、「こそうねつ」と読むらしいんですが、実は「花粉症」のことでもあるらしい。


元宇宙飛行士の「わたし」はある密命を帯びてヨーロッパを訪れる。ナポリで起こっている中年男の連続怪死事件を解明するためだ。男たちは誰もが急に狂ったようになり、最後は自ら死を選んでしまうのだ。これは何かの犯罪か、陰謀なのか?死んだ男たちの共通点を洗っていく主人公だが、それらが死に結びつく決定的な要因を見出せず、捜査は不確定要素という名の五里霧中へと漂ってゆく。


一応はミステリの体裁をとっている為、内容には触れ辛いです。そしてミステリのように事件の謎を明快に解明したラストは訪れるのですが、ミステリというにはどうにも奇妙な結末です。例えばこれがロアルド・ダールの作品だと言われてもそうだと思って読んでしまうでしょう。この作品をSF作家のレムはどうして書いたのでしょう?帯にある「確率論的ミステリ」というところにその謎が隠されているのですが、例えば蓋然性、カオス、複雑系、といったタームで読み解けば頷けるにしろ、オレはこの辺の語句をうまく説明出来るというわけでもないので、キーワードとして提示するに留めておきます。


しかしこの物語の奇妙さは、舞台となるヨーロッパの町並みです。レムの描くヨーロッパは、あたかも鏡の国のような、なにか現実の影を持たない、書割めいた非現実感があります。そして、冒頭、主人公の行動の理由も、主人公の周りで起こる事件も、なぜ主人公が宇宙飛行士であるかということも、何も説明もないまま物語が進んでいきます。怪死事件について触れられるのはページを費やした三章目からやっとで、そこまではイタリアの町で憔悴する主人公や、突然気絶する女や、空港での爆弾テロが描かれるのですが、これらは本筋とは殆ど関係が無いんです。逆にこれらの要素が、物語に非現実的な雰囲気を醸し出しますが、それでは何故このような奇妙さが物語にはあるのでしょう?


当時社会主義国だったポーランド出身のレムが見たヨーロッパは、このように非現実的だったのでしょうか。いや逆に、鏡の国のヨーロッパを描くことにより、社会主義国ポーランドの映しえを描こうとしていたのではないでしょうか。


「枯草熱」が出版されたのは1976年、デタントと呼ばれる東西緊張緩和が推し進められていたときです。この後、ポーランドは1980年代末に社会主義から資本主義への移行を成しますが、この時、社会体制の変移が価値観の変容を生み出したはずです。それが、この物語の「何が正解なのか定かではない」という”五里霧中”の様相を描かせたのではないか。さらに言ってしまえば以前触れたレムSFのテーマの主軸である「知性体同士の絶対的ディスコミニュケーション」は、「ソラリス」を始めとする作品の執筆当時の対話不能な東西陣営の冷戦構造がその根底にあったのではないかとも思うんです。


物語の結末は、複雑に絡み合った要素が成し得る確率論的なものであるにせよ、その変数がどのようなものであっても要因になりえたのではないか?「怪死事件」という関数に代入される正しい数値がたまさか物語りになっただけで、この物語をもう一度解体して、例えば冒頭の爆弾テロの物語でも、無意味に扱われその後物語と何の関連性も持たない「気絶する女」が気絶する理由にも、いかほどにでも命題と解法は成り立たせることが出来るのではないのか?なぜならこれは「枯草熱」という標本空間の中の「変死事件」という数学的事象を抽出した物語でしかないからです。


「どのようなことも有り得」そして「どのようなことが起こるのか判らない」、”確率的な予言しか出来ない偶然現象*1”、この「枯草熱」でレムは、その不確定さを、世界と自らの社会に投影していたのではないでしょうか。