『天の声』(天の声・枯草熱 / スタニスワフ・レム より)

スタニスワフ・レムはSF界の中でもやはり別格でしょうね。東欧SFのみならず、世界的なレベルでも重要なSF作家であると思います。最も有名な『ソラリス』をはじめとする3部作、『砂漠の惑星』『エデン』は、別世界で進化した知性同士が相互理解することは”絶対に”有り得ない、というコミュニケーションの絶望を描いた壮絶な物語でした。そこでは知性と認められる「現象」はあっても「解釈」と「推測」しかできず、最後まで知的レベルで接触することは決して”無い”のです。これはまた「なにをもって認識とし」「なにをもって理解と呼ぶのか」という認識論の物語であり、そしてまた「知性とは何か」という物語でもあるのだと思います。スタニスワフ・レムは、SFという世界を借りて我々にそれを問いかけます。


さて今回は『天の声・枯草熱』の『天の声』を取り上げます。


パロマ天文台ニュートリノ転化装置は正確な周期で反復するニュートリノ放射線を観測する。これはどことも知れぬ外宇宙からのメッセージなのか?これを解明するために『マスターズ・ヴォイス』プロジェクトが発足され、数学者ピョートル・E・ホガースは委員会のメンバーとして参加することになる。そしてそのデータから、軍事利用も可能である驚異的な物理学的特性を持つ物質が発見されるに及び、それが新たなマンハッタン計画へと発展しない理由が何処にも無いことを悟った主人公の苦悩が始まる。


これはいわゆる”ファースト・コンタクト”の物語であるのですが、異星からの通信を研究・解明し、その文明や知識、知性を明らかにしようという行為はある意味”コミュニケーション”であると思うんです。しかしその為に結成された国家プロジェクトでは政治的な思惑や研究者同士の権力闘争が反目と造反、隠蔽と諜報行為を生み出し、それは”コミュニケーション不全”とでも言うような状況へと至っているんです。外宇宙の知性とのコンタクトを目指しながら、ドメスティックな部分では離反しあうという皮肉。そこには当時の冷戦構造という疑心暗鬼も影をさしています。異星のプロトコルの解明以上に複雑で陰鬱な国家・人間間のプロトコルがここにはあります。ここでもまた「理解とは何であるのか」という問題が顔を覗かせていると思います。


そして物語で語られるのは普通のSFによくあるような驚異の発見とそれに伴うドラマティックな展開、といったものではありません。地道に研究と実験、仮定と検証を繰り返すリアルな科学者像があるだけです。この辺の描写は実際に研究者である方などは身につまされるかも知れません。そしてその実験過程を通じて、主人公が自らの哲学、思想、世界観、倫理観を語ってゆく、という所に殆どの紙頁が費やされています。これは物語の中で”発見”されたある特殊な物理学的特性をSF的アイディアとしてメインにすることが趣旨である物語ではないからでしょう。ここでテーマになるのはテクノロジ−と人間との係わりなのでしょう。そして”科学”というどこか整然とした数値で成り立って見えるような世界にさえ、それと対峙する人間的要素は不可分なものであり、そこでは科学的論理よりも人間的な倫理がまず取り沙汰されるべきだとレムは言いたかったのだと思います。


早くからサイバネティクス理論に注目していたレムは、テクノロジ−と人間との未来の在り様が、なにを寄る辺として存在すべきかをここで描きたかったのではないか。そして異星の文明を考察する過程を通じ、逆に人類の文明を省みる視点をここで提唱していたのではないか。そういった意味ではダイナミックで大衆的なSF小説ではなく多分に生真面目で思弁的な文学小説として成立しているように思います。勿論、そこがまたレムらしいのですが。ただし、ラストにはSFらしい仮説が提出され、ファースト・コンタクト・テーマのSFとしてその想像力の深淵を覗くことが出来るでしょう。


では次回『枯草熱』で再びレムを取り上げたいと思います。