DOLL=オニンッギョもあれですね、やはり手を加えたり着せ替えたりがやはり本望、というか弄ってナンボのものなんですね。オレは以前はSPAWNなどモンスター系のフィギュアを多く集めてましたが、これは箱から出さないのが一般的で、オレもそんな風にしてましたね。メーカー側も、ブリスターのままでディスプレイしても楽しめるようにフィギュアをポージングさせてパッケージしてますからね。
その点DOLLは箱から出して、というのが基本で、パッケージの状態では基本スペックしか表してないんですね。その辺が同じ”人形”でも全然違うと思った。
フィギュア→男のもの、DOLL→女のもの、と雑に分けて考えると、これは男性と女性が人形=”ひとかた”に何を見出すかの違いが如実に表れているような気がして面白かった。
フィギュアは造形なんですよ。アーキテクトでありスカルプチャーなんですね。ポーズも表情もほぼあらかじめ決まってるし、着ている物は一体化しているし、ヘアスタイル自体も造形しているんですよ。
でもDOLLはそれ自体ではデク人形みたいなもんなんですね。これはケアを必然的に必要としているのですよ。オレは「人形の髪の毛梳いてますう」とかおどけて書いたことがありましたが、それはDOLLというものがそもそもそれを必要とするプロダクトであるからだということを玩具好きとして直感的に感じたのだと思う。着せ替えるにしてもそう。DOLLというものがそういう遊びを要求されるものだということがやはり判るんですよ。
フィギュアって基本的に”置いておく”ことで完結できるんですね。でもDOLLは係わりを持つことが必要なんですよ。
置いておく、というのは、それは「外なるもの」という認識なんではないかと思う。つまり、「モノ」であるということなんですね。
係わりを持つ、というのは「内なるもの」なんではないか。つまりそれは「モノ」ではなく、どこかで自らの延長を、「自分の一部」、即ち日常や現実をそこに見出すものなのではないか。などと想像したわけです。
これは”DOLL”というものをプロダクトとして購入した時に、女性が”お迎えする”と表現したり、DOLLをあくまでも「1個2個」ではなく「一人二人」として捉えようとする部分に感じました。
この辺のモノの捉え方の構造に男女の違いをなんとなく感じたので面白いかも、と思い、「論」というわけでもないですが「ジェンダー論」という言葉をタイトルに冠してみました。
あとこの文章は全部酔っ払って書いてるので、あまり突っ込んだりしないように。こういう面倒くさい文章は素面じゃ書けねえ。