デス博士の島その他の物語 / ジーン・ウルフ

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

現在SF界の寵児として人気を集めているジーン・ウルフの中短編集。最初の3作は”島”をキーワードに綴られる連作であるが、序文に収められている逸話が既に”島”についての物語で、これが実にキュート。本編もこういう雰囲気なのかな、と思って読み進めると一筋縄ではいかない歯ごたえのある作品が並び、良い意味で裏切られた。


1作目『デス博士の島その他の物語』では孤独な少年の夢想が現実を侵食する。しかし、この夢想こそが少年の孤独を癒しもう一度現実へ立ち返る力となる。フィクションを読むということはどういうことなのか、という物語であり、ラストのメタフィクション的なオチも含め名作と言えるだろう。


2作目『アイランド博士の死』では舞台はいきなり木星衛星軌道上へと飛び、そこに漂うバーチャルな人工島で精神療養を受ける少年少女の姿が描かれる。ここでは”世界”が登場人物の意識の中へと流入してゆく。脳梁を切断された少年が登場するが、それにより現実とそれを認識するものとの乖離がほのめかされる。そして精神的な『冷たい方程式』とでも呼べるような冷え冷えとしたラストが胸を刺す。


『死の島の博士』では冷凍睡眠治療を受けた無期懲役受刑者の現実とも幻想とも付かない、薄暮のように曖昧な世界が描かれる。コンピュータウィルスのようにディケンズの文章が物語世界の現実を侵食するが、この物語世界の中の登場人物がさらにディケンズのフィクションに取り込まれて行くようにも見える。主人公が作り出したのは時限式のコンピュータウィルスであったが、この物語自体もウィルスに犯された”本”の物語るお話である、という入れ子構造なのだろうか。


『アメリカの七夜』はまたもやトリッキーなお話だ。七つの菓子に一つだけ幻覚剤を沁み込ませ、それがどれか判らないようにして毎日1つづつ食べながら崩壊したアメリカの町を歩く男。男はとある女を愛するが、そこに事件が。物語はおぞましく哀切に満ちた終焉を迎えるが、さて、彼が幻覚剤の入った菓子を食べた日は何時なのか?物語の中ではそれが明かされないまま終わってしまう。つまり、どの日かの記述が現実に起こったことではないのだ。ラストまで読んでから真相を確認するためにもう一度読み返さねばならなくなる仕掛けが面白い。


『眼閃の奇蹟』は目の見えない少年が仲間を見つけながらアメリカを放浪する物語。世界は目に見えなくとも少年の見る夢想はあまりにも鮮やかだ。そして『デス博士〜』の変奏曲の如くその夢想が少年に現実を生きる道標を示す。ここでもまた描かれるのは世界とそれを認識する意識との相克である。ブリキ男、ライオン、藁男…と有名ファンタジーノベルのイコンが登場し、最後にあの人が現れた時にはなぜか胸が熱くなった。そして奇蹟はその夢想の中から立ち上がるのだ。これは物語を読むということもまたひとつの奇蹟を体現することでもありうると言う暗喩なのだろうか。


ジーン・ウルフの描くこれらの中短編は、どれも現実と意識の境界線が曖昧になり、境目が判らなくなってしまった世界の物語である。どの作品でもハードなSF的シチュエーションを持ちながら、それは背後に後退し、現実の描写の中に意識の流れが流出し、それが前置きなく渾然となっている様が描かれている。だから”描かれた事”=”(物語世界内では)事実”という《物語というもの》の”暗黙の了解”が溶解し、読者はその中で自ら読むものの世界を再構築しなければならなくなるのだ。だからこそジーン・ウルフは「解釈の仕方が様々な作家」と呼ばれるのだろう。その為一般的な小説を期待すると多少読み辛いかもしれない。しかしこの描写の在り方が現在ジーン・ウルフがSFというジャンルに囚われない思弁性に満ちたポストモダン作家として注目を集めている理由なのだろう。


…そして、となると、あのキュートな序文の逸話でさえ、なにか深い意味が籠められているのか…?