ドミノ (トニー・スコット監督 2005年 アメリカ)

凶悪逃亡犯を捕獲するバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)を自らの仕事に選んだ実在の女性、ドミノ・ハーヴェイの波乱に満ちた半生を描いたハイパー・バイオレンス・ムービー。このドミノ・ハーヴェイは映画公開を前後した今年春、35歳の若さで亡くなっている。
ひたすら下衆な映画だ。暴力、権力、金、騙し。そして、下衆に生きるしか自分の存在を感じられないドミノの乾ききった心象が逆に観るものに鮮烈に迫ってくる。セレブの家庭に生まれモデルの仕事までこなし何不自由ない生活を営めるはずの彼女が選んだのは明日の命さえ判らないバウンティ・ハンター。
ドミノは叫ぶ、『クソ食らえ!』と。冷たい家庭にも反吐を吐きそうな学校にも馬鹿しかいないモデル業界にも。社会も世界もまわりの人間達も退屈で下らない。自分はこんなところで生きていたくない、そして、自分は今生きていない。彼女は硬い石の床から弾き飛ばされた鉄の玉であり、その大きく外れた軌跡のその先にあったのが汚らしく暴力と死に満ちた賞金稼ぎ稼業だったのか。
分析的に言うならば『愛情に恵まれない家庭に育った子供が成人してから社会と自分自身に謀反を起こした』と結論付けてしまえるのかもしれないが、むしろ現代アメリカの貧困・階級格差・銃社会・痴呆的なメディアといった荒涼とした社会背景と、そこで暮らす者たちのひりひりとした飢餓感を浮彫にした映画のような気がした。
痙攣的なカットアップに次ぐカットアップ、毒々しい色彩と映像処理、破壊的に鳴り響くダビーなヒップホップとロック・ミュージック。監督のトニー・スコットはここでも『マイ・ボディーガード』を更に超える神経症的な映画手法で徹底的に観るものの神経を甚振り麻痺させ、破壊も死もももはや日常であり洟をかむ程度のことでしかなくなってしまった人間達の病理と恍惚をあたかもミュージック・ビデオの1シーンのように描き出す。そう、この死と隣り合わせの生は逆に言えば甘美と恍惚に満ちてもいるのだ。
ここに登場する人間達は誰もが今しか時間が存在しないかのように興奮し昂ぶり、糸が切れたまま帰ってくる事のない高揚を求め右往左往する。ドミノ達バウンティ・ハンター、TV会社の社長とスタッフ、貧困から抜け出そうとして犯罪を画策する黒人達、マフィア、FBI、そして世界の救済を唱える謎の牧師。スズメバチの巣に自ら頭を突っ込むような彼等の生き方は、シナプスの燃えるような痛痒感を味わうことでしか生を確認出来ないような社会病理者のものなのかもしれないが、その片鱗はこれを観る者にも多かれ少なかれ存在するのではないか。情報もテクノロジーも過剰にこの社会に生きる者を覆い、どこかで生の意味が希薄になり、そしてそこで狂騒的で破壊的な揺り戻しが何かの形で噴出する。それが現代なんだと思う。オレなどはデビッド・フィンチャーやこのトニー・スコットはそんな極めて21世紀的なサイバーパンク性とフリークス感覚を持った新しい世代の映画監督なのではないかと思っている。
それにしても配役が素晴らしいな。主役のキーラ・ナイトレイのカワイ子ちゃん女優を脱したクール・ビューティーぶりは言わずもがな、ミッキー・ロークの『シン・シティ』の亡霊を背負ったような汚れぶりも格別だし脇を固めるジャクリーン・ビゼットのセレブぶりやルーシー・リュウのインテリジェンス、クリストファー・ウォーケンのコミカルさ、ラティーシャのビッチぶり、トム・ウェイツの怪しげな救世主面など、どれも名演技を見せている。個人的には社長秘書役のミーナ・スヴァーリのドジっ子演技が萌え〜。
そしてラストには生前の実際のドミノがホンの少し姿を見せる。この彼女の弱弱しくはかなげな立ち姿が、なぜかひどく愛おしかった。この清々とした表情が世界に向かって『クソくらえ!』と言った女のものなのだとしたら、オレも多分一緒になって世界に向かって『クソくらえ!』と言えるのだと思った。