シン・シティ (監督:ロバート・ロドリゲス他 2005年 アメリカ映画)

男のアナクロニズムナルシシズム。一言で言ってしまえばそれだけの映画ではあるが、オレはこれからは男権復古の時代ではないのか?などと睨んでいるので、決して否定的なニュアンスでもないのである。
映画の中では原作の3つのストーリーが交錯している。
・仮出所中のマーヴが殺された娼婦の敵を取るためにありとあらゆる物に立ち向かい破壊し殺戮し血で血を洗う復讐劇を繰り広げる。『THE HARD GOODBYE』
・娼婦達の自治区”オールドタウン"の均衡が崩れ警官達がこの街を支配しようとしていた。ドワイトと娼婦達は手に銃を持ち、自らの存亡を掛けた抗戦を行う。『THE BIG FAT KILL』
・幼児性愛殺人者を追い詰めたハーディガンは仲間の裏切りに合い服役する。出所後、再び助けた少女を守るため彼は命を掛けた戦い始める。『THAT WELLOW BASTARD』
どのエピソードにも共通しているのは、自らの命も顧みず、愛する者の為に戦いを繰り広げる男達の物語であると言うことである。そして、この時、敵は普通に考えれば歯向かう事さえ難しい巨大な体制側なのだ。さらに、そのたったひとつの戦いの手段と言うのは、徹底的な暴力のみなのである。
この物語で男達は何一つ逡巡しない。何一つ策を立てる事もなく、思考することなく、己の肉体を武器に、一点突破で敵を粉砕してゆく。これは、男の自らの肉体への絶対的な信頼感に他ならない。そして、女達は、力強く殺人さえ厭わないタフさを兼ね備えているが、最終的には男に守られ助けられる存在なのだ。しかし実はこの女達の本質も成熟した性的な肉体性のみであり、やはり男達のように思考もなければ内面もないのである。つまりはこの映画は圧倒的な肉体性についての映画であるのだ。
強大な肉体は性的絶倫の暗喩であり、それは体制さえも破壊するほどの強力さを持っているのだから、これは男の性的願望のまさに絶頂ともいえるだろう。しかしこれはマチズモというより単にファンタジーであり、それは映画の中で延々と語られる男達の大量のモノローグの存在から伺われるのではないだろうか。
男達は語る。自分の愛を。自分の生を。自分の死を。語ることでしか自らが存在しないかのように。男達は理由を必要としている、自分の存在のきっかけを、自分の存在を肯定するものを、自分を自分たらしめているものが何か、を。マチズモの対極にあるようなこの奇妙な内省。それが即ち、この物語での男達のナルシシズムなのである。男達はこの自らのナルシシズムに殉教するかのように戦いそして死を選ぶ。それは冷めた目で見てしまえば単なる思い込みであり、勘違いしたヒロイズムであり、滑稽なアナクロニズムに他ならない。男達が愛し守ろうとする女達というのは男達の願望がでっち上げた男達に都合の良い妄想のファム・ファタルでしかないのだから。
しかしだ。なぜかオレはこんな男達を愛してしまう。無口で不器用で一本調子で、批評も反省も出来ない男達を。思えばフェミ男だのユニセックスだの、20世紀末の相対主義が生み出した男の在り方にはいい加減うんざりしている。男が男であるだけで偉かったり尊重された時代は確かに終わった。しかしそれでも男は男なのだと思う。そして男には何か理由が必要で、男の肉体と言うのは女の肉体ではない何かなのである。観念性の果てに肉体の存在を忘れた男達がもう一度己の肉体を取り戻すこと。シン・シティはその新しい何かを提示する映画では決してないが、その端緒でも気付かせてくれる映画ではあると思う。