ランド・オブ・ザ・デッド

ひゃっほう。観てきました、ロメロの新作ゾンビ映画ランド・オブ・ザ・デッド』。
ゾンビの出現により崩壊した近未来の社会。人々は川で挟まれ半要塞化した小都市に住み、ゾンビの脅威を逃れていた。しかしその小都市は超高層ビルに住む富裕層とその下のスラムに住む貧民層に別れていた。人々はゾンビに覆いつくされたかつての町々から物資を奪うことで辛うじて生をしのいでいたが、次第に知性を持ち始めたゾンビ達はこの小都市を目指し最後の人肉さえも食らおうとバリケードを超え襲い掛かってきた…というお話。
高層ビルに住む支配層とそれを奪取しようとするスラムの貧民の反乱、そしてゾンビの侵略というところから「911」の影響下にある映画のように取られているようですが、オレとしては前作『死霊のえじき』のデラックス版のように感じました。これは『死霊のえじき《完全版》』DVD収録のドキュメンタリー『The Many Days of DAY OF THE DEAD』の中のロメロ自身のインタビューからも伺えますが、当初『死霊のえじき』のシナリオではフェンスに囲まれた野営地が舞台で、ここでゾンビと兵士たちの戦いを描くはずだったらしいのですが、予算の関係で現行の作品へと仕上がったと言うことなんですね。例えば『死霊のえじき』での狂った軍人指導者はそのまま『ランド・オブ・ザ・デッド』の高層ビルの支配者に通じるし、また、支配者、中間で不満を抱える集団、ゾンビ、の三つ巴の図式は両作に共通したものです。確かに「911」も含めた現代的なアプローチはあるにせよ、そのオリジナルは以前からロメロの構想の中にあったものだったのではないでしょうか。すなわち、今回の『ランド・オブ・ザ・デッド』で、ロメロはやっと完全版の『死霊のえじき』を撮ることが出来たっていうことなんじゃないかな?
この作品で注目されているのは《次第に知能を持ってゆくゾンビ》なんですが、これによりゾンビたちがなにか人間臭さを感じさせる存在になってるんですね。このゾンビの質的転換により、この新作ゾンビ映画はこれまでのゾンビ映画と違う方向へ物語が語られていくんです。
ロメロを含むこれまでのゾンビ映画で《ゾンビ》を象徴するものとは文字通り《死》なんです。《死》が肉体を持って歩き始めたのが《ゾンビ》なのであり、《死》という抽象性は《ゾンビ》全体を包括する概念だから、《ゾンビ》は個体ではなく全体なんです。かつての肉親であろうが恋人であろうが、ゾンビに襲われたものは、人間性、という個性を剥奪された段階で、《ゾンビ》という全体の中に組み込まれてしまう、というところに注目してください。
しかし今回の『ランド・オブ・ザ・デッド』ではゾンビたちに個性と目的性が兼ね備えられており、それはこれまでの抽象的な《死》の化身と言うにはあまりに具体的な存在です。
かつて、ゾンビ映画の描くもの、それは、《世界の終わり》でした。それは映画を作る者が現実の社会から受け取った終末観やペシミズムを映像化した物に他なりません。坑道のカナリアのように、この世界に漂う滅びの予感を、死の臭いを、彼らはホラーのモンスター、またはゾンビと云う形にして訴えていたのだと思います。
にも拘らず、今回の『ランド・オブ・ザ・デッド』では、終末観が希薄なのです。そしてゾンビたちからは《死》の臭いがしないのです。さらに云ってしまえば、《愛するものがゾンビになる悲劇》というゾンビ映画のお定まりのドラマが、今作ではあっさり放棄されています。
つまり、この映画ではもはやゾンビはかつてのゾンビではなく、そして描かれるものは終末論ではないのです。世界は終わったのかもしれない、しかし、価値観が新たに再編成されたもう一つの世界が、新たに始まろうとしている。富裕層をはじめとする権力者、その中間の貧困層、そして、さらにその下に存在する、声さえ出すことも出来ない死人たちの群れ、というヒエラルキー。ここでは、ゾンビたちは《死》と云う名の最終勝利者でさえないのです。つまり、この映画で語られるのは、新たな階級闘争について物語なのです。そういった意味で、現代アメリカの貧富層の乖離と反逆というテーマで観るなら、この映画はまた違った評価で語ることが出来るのではないかと思います。これが、ロメロの語り始めた、新しい形のゾンビ映画なのです。