総論:楳図かずおとは何だったのか?

私生活における楳図の子供っぽさはよく言われている事である。しかしどうしてあのようなおどろおどろしいものを描く人間があのように稚気に溢れた人間であるのだろう。
楳図は恐怖や怪奇、グロテスクな情念を描くけれども、それに対比するように子供達の無垢さ、純真さをも描いている。この対比の明確さは傑作《漂流教室》を読むと一目瞭然だろう。異常な事態に自滅し、あるいは自己中心的な暴力の世界に君臨しようとする大人と必死に生きようとする子供たち。彼は自らの嫌悪するものを執拗に描くことによって子供=彼自身の潔癖な魂を逆説的に浮き彫りにし、それを救済しようとしているのではないか。そして成熟することへの徹底的なNO!が問題作《まことちゃん》の、やんちゃだが無垢なる者でもあるまことちゃんの成熟した社会へのゲリラ的なサボタージュなのだ。さらにこの《まことちゃん》ストーリーの前身が、成熟後に老人となって社会から棄てられた男がもう一度少年に戻って社会を破壊と混乱の笑いに巻き込む長編《アゲイン》だというのが実に痛烈である。
つまり、全ての露悪的な描写は作者自身の子供のような無垢さ、純粋であろうとする願望の裏返しなのである。幼生で在り続けたいにも拘らず無理矢理にでも成熟させれられることへの嫌悪。「大人」として汚れる事への恐怖。そして楳図の嫌悪と忌避が強ければ強いほど、その描かれるものの醜悪さと恐怖はモンスターとして、あるいは怪異として君臨して暴虐の限りをつくし、その負の想念は輝くばかりにひと際際立つのであろうと思う。