エターナル・サンシャイン (監督/ミシェル・ゴンドリー 2004年 アメリカ映画)

失恋は死病の宣告に似ている。最初は否定し混乱し絶望に苛まれる。しかし最後は受け入れるしかない事を悟るのだ。
死に至る病ではないとは言え、辛い恋愛の思い出に処方箋などない。乗り越えるか、あとは忘れ去るだけだ。しかし辛い記憶とセットで存在する、幸福だった記憶まで忘れなければならないのだろうか。幸福だった事を、思い出す事が、惨めで、不幸な思いにさせられるから。
映画「エターナル・サンシャイン」は失恋の痛みを忘れる為に《記憶除去療法》で恋人の思い出を消す事を選んだ男女の物語だ。
主人公(ジム・キャリー)は恋人だと思っていた彼女(ケイト・ウィンスレット)が自分の記憶をすっかり消し去っていた事を知り、絶望のあまり自分も彼女の記憶を消す事にする。しかし、除去療法の最中、醒めない眠りの中で彼は気付く。「素敵だった、楽しかった、愛しかった思い出を、全て棄て去る事なんて出来ない」。そして、彼は、自らの脳の中で、ひとつまたひとつと消え去って行く彼女の思い出を守る為、獅子奮迅の奮闘をするのだ。果たして彼女の思い出は守る事が出来るのか?
まず、俳優達がいい。ジム・キャリーはいつもの躁的なキャラを棄て、地味で無口で詰まらないキャラクターを演じている。劇中では始終無精ひげの冴えない男。しかし一見木偶の坊の彼が、逆に内面に情熱的な想いを抱いているいじらしい男である事がとてもよく伝わってくる。逆にヒロインのケイト・ウィンスレットは、「タイタニック」の時代がかった美人のイメージとは180度異なる、衝動的で楽天的でビッチなパンク娘を演じていて、これがまた惚れちゃいたくなるぐらい愛らしい。さらに脇にはLOTRのイメージが未だ付きまとうイライジャ・ウッドが「彼女のパンティをこっそり頂戴しちゃう」ような軽薄でサイテーな男の役で、「スパイダーマン」のキルスティン・ダンストが男に色目を使うのが大好きなドロドロ不倫女の役、と、癖のあるキャラクターをそれぞれ演じている。
脚本のチャーリー・カウフマンは「マルコビッチの穴」で話題をさらった脚本家だが、オレにはあの映画は捻りすぎていて嫌味に思ったものだが、今回は捻くれ具合が逆に凡百のラブストーリーを一蹴する斬新なストーリーに仕上げられていてさすがだと思った。
そして何より監督のミシェル・ゴンドリー。フランス出身のミュージックビデオ出身のこの監督は、劇場映画監督第1作「ヒューマンネイチャア」が、弄くりすぎたシチュエーションでオレは映画を観る気が失せていたのだが、今回の映画ではカウフマン同様捻った感性が功を奏し映画を秀作に仕上げている。(手前味噌ですがミシェル・ゴンドリーのPV作品のオレのレビューはこちらで読んで頂けると嬉しいです。)
映画では、まず恋はあらかじめ終わってしまったものとして描かれ、しかし、映画が進むにつれ、その恋がいかに愛しく楽しい思い出に満ちていたのかがフラッシュバックされてゆく。この映画内時間が進行するにつれ記憶がどんどん逆行してゆくというコンセプトが面白い。そして、最後に、主人公は、初めて彼女と出会った浜辺の記憶の中で、記憶の中の彼女にサヨナラを告げるのだ。「あの時、こうしていれば、ああ言っていれば、こんな風にならなかったのに」。いや、しかし、映画はここで終わらず、更に二転三転し、そして胸に迫るラストを観客の前に呈示する。こんな風に終り、そしてこんな風に始まるラブ・ストーリーはかつてなかったのではないだろうか。
それにしても終わった恋の記憶とはいえ、それを全てリセットしてしまったら、又同じ理由で恋を失敗させてしまうものかもしれない。いや、学習能力の無い人間は(=オレかよ)、何回も同じ理由で恋愛を失敗させているけどな。何回も失敗して学習するのも消耗する。そして次第に縮こまって生きてしまうようになる。少なくとも、理性的であればあるほど成立しない。よしんばパートナーが出来たとしても最初のパッションがいつまでも続くものではない。愛情はいつも陳腐化する運命にある。そして恋愛も、愛という感情も、理不尽で理屈の通らないものなのだと思う。イカン、語ってしまった。