スペシャリストの帽子 / ケリー・リンク

スペシャリストの帽子 (ハヤカワ文庫FT)

スペシャリストの帽子 (ハヤカワ文庫FT)

アメリカの女性短編小説家による幻想小説集。世界幻想文学大賞、ネヴュラ賞、ティプトリー賞受賞。
ケリー・リンクはいわゆる「ファンタジィ作家」という紹介になっているが、ハリーポッターのお陰でファンタジィというと魔法小説のことを差すような風潮になってしまった。この作家の描く世界は確かに非現実ではあるが、《現実ではないもう一つの異世界》というよりは《現実に似ているが何かが違う、夢の出来事のような世界》である。解説にあるように「子供の妄想を膨らませたような」世界なのだ。
ケリー・リンクの描く世界は軟らかく崩れている。この世界では時間の流れは一定ではなく、物体の形は決まっておらず、物同士の距離はその都度違う。ここでは人も物もぶわぶわとした風船細工のようで、それは伸び縮みしながらゆっくりと流れ出している。世界を構築する法則がこの現実と比べるなら3つも4つも足りないのだ。それは夢の中の出来事。オレのあまり多くない読書体験で言うと、例えばボリス・ヴィアン*1ジョナサン・キャロル幻想小説を彷彿とさせる。ケリー・リンクと同じく、彼らの小説の面白さはなんとも表現が難しく、またあらすじを説明する事が殆ど無意味な小説を生み出している。ストーリーが、というより作品全体の異様で不気味な感触を味わう、といった、どこか皮膚感覚に近い読後感。何かが肌にべたっとくっついている様な薄気味悪さ。ある意味女性的な感覚なのかもしれない。
映画監督で言うとデビッド・リンチが近いのではないか。マンガ家で言うと、不思議かもしれないが吉田戦車。(この発見はオレではなくid:rinjiさん。)いわゆる精神病理学で言う所の「境界例」の症例のある人たちが観る現実の光景か。精神病レベルと神経症レベルの境界線上の世界。不安定な世界。
作品を幾つか紹介しよう。「スペシャリストの帽子」「少女探偵」「人間消滅」は子供の《みとり遊び》に似ている。《○○ごっこ》といえば判りやすいか。《○○ごっこ》では現実の何かを何か別のものに例えて、そう”みとる”ことによって成立する。そして”ごっこ”の最中は、仲良しの友人は人食い鬼になってしまうし、白墨で書かれた単なる白い線は地獄の踏み切りと化してしまうのだ。この時、「仲良しの友人」も「白墨で描かれた線」も一切描写を省いて文章で描くとどうなるか。そこには現実に唐突に人食い鬼が現われ、地獄の踏切が表出する。でも現実の事ではないので、描写される物事の輪郭は曖昧だ。そこがケリー・リンクの小説の真骨頂だと思う。
「飛行訓練」は好きな作品。「地獄への行き方、その説明と注意点」という1章から物語は始まる。しかし語られるのは現実に退屈しきった蓮っ葉な少女の日常。これのどこが地獄へと結びつくのか?…と思ってると、最後にちゃんと結びついて、日常が神話世界に染み出した物語世界に驚愕する、という仕組み。
雪の女王と旅して」はメタ・童話。ありがちな童話世界をパッチワークしたような世界を童話世界のツアーコンダクターがテーマパークでも紹介するように案内していく。奇妙に醒め切った童話の世界。
「靴と結婚」は作品集の中で一番軽いか。しかし「ガラスの靴」はあの物語を擦り切れたレコードのように疲弊したお話として描き、「ミス・カンザス最後の審判の日」は黒い笑いに満ちたミスコンの話であり、「独裁者の妻」は靴博物館に住まう、かつての独裁者の妻の数奇な運命が描かれる。
「私の友人はたいてい三分の二が水でできている」は多分作者自身の日常を描いた作品。しかし幻想小説家の日常はやはり奇妙なのだった。P・K・ディックの小説の一節からタイトルを取った、という言及があり、ファンとしてはニヤリとさせられる。
ネビュラ賞受賞の「ルイーズのゴースト」は恐ろしく奇妙で楽しい物語。ルイーズともうひとり、チェリストだったら誰とでも寝る別のルイーズ。緑色を偏愛し、「子供の頃は犬だった」と言い張る幼女。部屋の中に現われ、その辺に寝そべってたり、クローゼットに隠れてたり、時々毛や刺の生える「ゴースト」。しかしこの奇妙な物語は最後に喪失についての物語として胸を締め付けられるような終焉を迎える。作品集の中でもっともバランスがよく、感情移入度も高い傑作だ。でもid:rinjiさんが「ゴースト」のことを「吉田戦車のキャラみたい」と言ったので、オレはこの物語を全部吉田戦車の描線で描かれた物語として読んでしまった。もちろん「ゴースト」は「かわうそ」のかたちだ!本当に吉田戦車が漫画化しても雰囲気が合ってるんじゃないかと思う。

*1:オレにしては珍しく全集で読破した愛するフランス人幻想小説作家。長編「うたかたの日々」は岡崎京子によって漫画化されている。