シガテラ / 古谷実

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

10代なんてそんな明るく楽しいもんじゃねえ。青春なんて青くも春でもなく黒くて冬みたいなもんだ。空回りし不発に終わり逡巡し後悔し恥辱に満ち救いは無い。地獄の六道巡り。女の子が10代の頃に何を感じているのかオレは知らないし興味も無いが、少なくとも男のオレには10代とはうな垂れて生きているにも拘らず、ひたすら負のエントロピーだけは増大してゆくという悪意に満ちた年代だった。
確かにあの時期が無ければ今の自分は無かったのだろう。でも今の自分もたいした事無いのを考えると、あの残酷な季節は全て無意味な悪夢のようなものだったのだという事になる。
ああ。たいした思いでもない。あの年代の男の子はスケベの事ばかり考える。しょうがねえ。成長期でホルモン分泌が盛んになるわけだからな。だがあの時期に女の子とスケベな事が出来る確率は皆無だ。欲望だけは漲るが女の子をどう扱っていいのかなんてわかりゃあしない。
そして思春期の成長ホルモンは脳の構造も変える。今まで見えていなかったものが見えてくる。そして、見たくも無いものも見えてくる。社会や世界の何かをどうにかできると思い、何もできない事に気付き、無力感と焦燥感が鈍痛のように体と頭を苛む。
リビドーとルサンチマン。常に不発に終わる夢。そしてあるものは暴発を選ぶ。ロックンロールのけたたましいギターの音も、珍走団のバイクの騒音も、不発で終わる想いに痺れを切らした連中の暴発する音。そしてそのまま沈んでいくものもあれば、何かを学ぶものもいる。オレは沈んでいくだけのクチだった。空回りし不発に終わり逡巡し後悔し恥辱に満ち救いは無い。
考えれば考えるほどひどい時期だった。そしてそれは20代30代まで尾を引いた。
古谷実はナンセンス漫画「行け!稲中卓球部 」で大ヒットをものした漫画家だが、その後の新作は発表するたびにどんどんリアルで暗いパートが増大していった。しかし、実はそこに描かれている事は「稲中」のリアル・バージョンでしかないのだと思う。笑いの裏側は実は悲惨さなのだし、笑いを取り去った「稲中」は畢竟「シガテラ」になるというだけの事だ。つまり古谷実という漫画家は「10代の悲惨」という同一のモチーフを作を重ねるごとによりリアルで微に入り細に入り描いているということができるだろう。そこまでこだわる理由はオレには判らない。作者には落とし前をつけたいよっぽどひどい思い出でもあるということなのだろうか。でも、できるなら、嘘でもいいから最後には夢や希望が成就する物語を一発打ち上げてもらえないだろうか。そうじゃないと、作家としての幅が狭いままになってしまうような気がする。
オレがもしも救われたのだとしたら、それはオレがどこにでもいる馬鹿野郎だということに気付いたからだった。馬鹿なんだから、あとは明るく生きるだけだ。古谷実の漫画にも、そんな、突き抜けるような、青い空のようにすみきった、確信に満ちた馬鹿を、もう一度、描いてもらいたいんだ。
“カリフォルニアの青い馬鹿”――みうらじゅん