エイリアンVSプレデター

観て来ました。やっぱ正月は特撮映画だよな。…あ、今時特撮って言わないですかそうですか…。
面白かったよ。て言うかさ。オレこの手の特撮映画(開き直ってる)って、観てる時全然頭使ってないんだよな。いつも書いてるけど、遊園地のアトラクションと一緒だから。アトラクションを細部まで解析してもしょうがねえだろ。あとはウンチク述べるとかしかないんだけど、ええと、ウンチク、ねえなあ。…これじゃあ文章が終わっちゃうのでなんか書くか。
監督のP・アンダースン(似た名前のSF作家あり)ってのは実の所たいした事のない御用聞き監督でさ。最初に見た映画は「モータル・コンバット」か。これ、アメリカ製の対戦格闘ゲームの映画化なんだよね。ゲーム自体はアメリカでは大うけしたんだけど、やってみると大味でキャラデザインも使いまわしで何の芸もないゲームでさ。映画自体はゲームの馬鹿馬鹿しさ大仰さをきちんとフォローして見た目派手目だしそれなりに面白かったけど、この頃から映画の世界の時空の在り方がアバウトでしたね。イベントイベントで繋ぐから場所場所の距離感や時間経過の具合は完璧に無視してるのよ。
次の作品は「イベント・ホライゾン」か。タイトルが《事象の地平線》という、SFファンならちょっと身を乗り出して仕舞いそうなタイトルで、スチールとか見たらエイリアン風のサイバーゴシックなデザインのSF舞台で、「おおこれは」とか思ったのが大間違い。要するに《宇宙の果てには地獄があった》って話なんだけど、かーっ、地獄っすか、宇宙の果てにキリスト教史観代入しますか、それ終わってませんか、というガッカリ感でしたね。
続く「ソルジャー」。カート・ラッセル主演で外宇宙の惑星を舞台にしたスペオペみたいでこれも期待したんだけど、またこれが、今度はSFである必然性が何にもないストーリーで。呆れ返って死ぬかと思った。この映画、要するに、リストラされた社員が会社に復讐するって言う映画なんだよ。舞台が宇宙なだけで。頭悪いんだよ、オレ泣いちゃうよ…。
そして話題になった「バイオハザード」。これは嫌いじゃなかった。ただ、もうこれ、映画じゃないのね。判り易い背景を一つ作っておいて、それにド派手なイメージショットを並べて行くだけなの。前も書いたけど、映画としては光線の使い方がサイテーで、逆に、映画的光線の使い方を拒否した結果だと思ったのよ。ゾンビもモンスターもあからさまに明るい照明の下でディテールくっきり見せて写してんだもん。これ、「お代の分はキッチリ見せます!出し惜しみしません!」ということなんだろうね。つまり、そういう商売をしたい、と言ってる訳で、観る方も、それに乗ればいいだけなんだよね。この映画に人間的深みだとか意味だとかを求めないでくれって言ってるのね。ただ、ビックリドッキリしてドキドキしてああよかった、って言って帰ってくれって。ただ、それってルーカスでもスピルバーグの映画でもそう言ってるんだけどさ。じゃあ何が違うのか、って言ったら、映画に対する愛情の度合いの違いだろうな。ここが御用聞き監督と映画作家の違いさ。オレ、P・アンダースンの映画はほどほど楽しめるけど、愛せる映画かって言うとそれはないもんね。同じB級監督にジョン・カーペンターって云う人がいるけど、こいつの映画、しょーもねー、つまんねー、とか言いながら、何か憎めないというか、また次ぎ撮ったら必ず見るからな!って思うけど、それ何かって言うとやっぱりこの監督なりの映画愛が画面に見えるからだよ。
これは映画だろうが音楽だろうが絵だろうが言えるんだけど、自分の作ったもののディテールをコントロールできないヤツは駄目だと思うよ。そしてこのディテールってのが自分の作ったものへの「愛」ってことなんじゃないかな。
あ、この映画「エイリアンVSプレデター」ですか。いい線行ってるんじゃないかな。退屈しなかったし。でも時空間の在り方がいい加減なのは相変らずですね。あといちオタクとして一言言うなら、プレデターのデザインが微妙にマイナーチェンジされていて、この辺の気配りはナイスですね。マスクや甲冑が違う奴がいるんですよ。さらにラストのエルダープレデターも、よく見ると他のプレデターと違うのね。その点エイリアンのほうはデザインが完成されてていじる所がない、っていうのもある意味凄いよね。でもマザーエイリアンの不恰好なデザインはエイリアン2のJ・キャメロンのSF美術センスが(キャメロンがこのデザインにOKすること自体のセンスが)もともとたいした事無いので、いい加減変更してもらいたかった。それ言うと、スター・ウォーズジョージ・ルーカスの美術センスは異常なぐらい凄いよね。造形やデザインはそれ専門のチームがいるのは判るさ。しかしそれをコントロールし、最良のものをチョイスするセンス。それ以前に、最良のものを作れるチームを作れるセンス。どんな有能な演奏者ばかりいてもオーケストラは成り立たない、それを統合する指揮者のセンスがあって初めて映画は成り立つんだろうね。
あと、ちょっと思ったのは、例えばファンの間ではエイリアン3とか4って、見所はあるけどイマイチな作品じゃないですか。この、本当のエイリアンはこうじゃない、惜しい!って気持ちがそう思わせると思うんですが、考えてみれば3はデビッド・フィンチャーだし、4はジャン=ピエール・ジュネなんですね。それぞれ映画美術には一級のセンスを持ってる監督だけど、エイリアンがイマイチだったのは、取り巻きが煩かった、つまり製作サイドが余計な茶々入れすぎて監督の自由奔放な感性を封じ込めてしまったからだと思うんだよな。これ、ティム・バートンの「バットマン」でも思った。いい所まで行ってるけど、なんか抜けが悪いって言うの?え、この監督で何で?と思ったけど、やっぱり窮屈な環境で映画撮ったんだろうな。アーティステックな感性を持った監督には窮屈な事させちゃいけないんだよ。でさ、何が言いたいかというと、…例えば、エイリアン3,4と比べて、この「エイリアンVSプレデター」はどう思う?エイリアン3,4は、イマイチなりに語りたくなる映画でしょ。でもAVPって…面白かったけど、語りたくないもん。この辺が、監督の、「格の違い」なんだろうなあ。