『あの人は弱虫でいいの』〜映画《ハウルの動く城》 (2004年 宮崎駿 監督 日本)

今頃見てきました。やっぱ正月はアニメでしょ。正月になるまで見ないで取っておいたんだよ。
面白かったですよ。これの何処を賛否両論なの?っていうぐらいきちんと作られエンターティメントとして優れたアニメーション映画だったと思いますよ。これまでのジブリの流れからすれば世界観がそれほど重くないですが、今まで通りじゃないものを作りたいというのは作り手の健全な創作意欲の現われでしょう。画面の色彩構成も随分ディズニー風で、「もののけ」の時の重圧な色彩のグラデーションはここにはありませんが、テーマが若い男女のラブロマンスだっていうんだからこの原色が結構平気に使われているクリーンで軽めな色彩設計は、物語の世界観と合っていてこれはこれで正しいと思う。
…え、オレ今「テーマが若い男女のラブロマンス」って言いましたか?
っていうか、ところで、この映画のテーマって、本当に《ロマンス》なの?《90歳の元気なおばあちゃん》なの?…という訳でここからこの映画を解体します。
この映画は主張するテーマやキーワードがあっちこっちに散らばせてあって、見る人それぞれの見方で感想が変わると思うんですが、そもそもなんで主人公の少女は「老人」にならなければならないんでしょう?*1これ、最初から可愛い少女だと、ストレートに若い男女の話になってしまうからなんではないでしょうか。ストレートに若い男女だと、どうしても性的なことが絡んでくるので、それを回避したかったんじゃないのかなあ。性的なことを回避して、それより先に男女それぞれの尊厳について語ってみようと。じゃあなぜ男女それぞれの尊厳について語らなければならないんでしょう。
あと、これを普通に少年少女のラブロマンスと考えると、少しギクシャクしている事に気付きますね。いったい少女は魔法使いハウルをいつ愛するようになって「愛しています!」とまで叫ばせるようになったんでしょう。出会いや共同生活での細かなエピソードはあるにせよ、いきなり「愛」ってのも唐突なんですよ。そして魔法が使えて無敵状態のハウルは何故地味な人間の小娘なんぞを愛さなければならないんでしょう。少女のやった事は身の回りの掃除や食事の世話ではあっても、「愛」に結びつくエピソードは殆どないように感じるんですよ。
ここで、「はは〜ん、これは愛って言っておかないと物語が成り立たないから愛って事になってるんだな」と気付きます。
そもそもハウルとは何者なんでしょう?魔法学校生え抜きの魔法使い。でも魔法が使えて万能のはずの彼は「自由が欲しい」とかいうダダをこねてる以外積極的な生き方をしているようには見えません。国王に頼まれて戦争もしていますが、「汚らわしい」とか言いながら自分から止める気配が見えません。それに、見ました?あの小汚いハウルの《動く城》とか言うヤツ?あれ、グロテスクじゃないですか?鉄やガラクタの塊で、その中の部屋部屋は掃除もされてなくて、あまつさえ自分の部屋は荒野の魔女の魔女除けで埋め尽くされている。なんなんだコイツ?
実はハウルって、現実世界で言うオタク野郎なんじゃないですか。ないしは知能も知識も矢鱈高いが現実的なこと、特に女性に対しては全く駄目なテクノクラート、エンジニア。彼の高い知識と技術は人も羨むほどですが、世間一般の《まともな暮らし》からは少しズレた生活をしている逸脱者。
だから彼のもとにやって来て掃除や洗濯や料理までする老婆に《メイド萌え》するのも判りますよ。ええ、オタクなんですから、メイド萌えですよ。そして、メイドって何かというとセックスも出来る自分の母親って事ですね。つまりマザコンですね。これは老婆になった少女を『自分の母親』ってことにして王宮に行かせた事に結びついてきますね。
そんな彼はしかし、仕事はとんでもなくできるんですね。頭いいから。有能なんですよ、自分が化け物みたいな体になってもなんとも思わないほど仕事に忠実なんですよ。戦争は嫌だ、とか言いながら戦いを繰り返す彼は、眉間に皺を寄せながら競争原理の中でしのぎを削る企業戦士そのものですよ。だいたい、物語では《戦争》なんていってますが、何の戦争なのか具体的な説明がないでしょ?これ、抽象化された戦争なんですよ。『男が行う最も汚く非生産的な行為』という事のメタファーなんですよ。
男って、突っ走るのが好きなんですね。物を作るけれど、壊すのも好きなんですね。この世界に歴史があったとしても、それは男の作った歴史なんですね。そして、戦争というのも、大概は、男が勝手に起こしてるんですね。
ソウルの神様ジェームズ・ブラウンに「イッツ・マンズ・マンズ・ワールド」という曲があります。「男だけの世界」。『男は自動車を作り、列車を作り、電飾を作り、ボートを作った。そして男は経済原理を作り、そのせいで男は荒地で彷徨い続ける。女の介在しない世界で、男は最後に苦々しく敗北する。』バランスの悪い世界。男性的なだけでもいけないし、女性的なだけでもいけないけれど、取りあえず、今、ハウルは自らの生んだ『男』の荒野にいるわけなんですよ。
だからこそ、その男を救うのは、女、だった、というのがこの物語なんですよ!!
宮崎アニメには少女が世界を救うっていうモチーフが多いですが、この映画も同工異音です。男は、女の、優しさや、暖かさや、思いやりに触れて、やっと、自分が人間なんだって事に気付くんです。だから、主人公の少女はハウルを救う為に東奔西走、悪戦苦闘するんです。ハウルといういびつな男の世界を救えるのは少女しかいないのだから。戦争なんかするほど自分をギリギリと弓矢のように振り絞って、そして最後にその弦さえ切れてしまう事さえ気付かない男に、「あのひとは弱虫でいいの」って言ってあげられるのが女なんです。男は、実は、頑張らないほうがいい事もあるんです。戦争が人々を不幸にするように、経済原理は結局は不幸を生む事もあるんです。しかし「仕事」といいながら男は経済原理に奉仕するんです。そもそも戦争だって一つの経済行為なんです。
というわけでハウルは彼を愛する少女によって救われます。ハッピーエンド!めでたしめでたし!…いや、ホントか?オレの長話はまだ続きます。
ちょっと考えてみてください。男はそうして女によって救われる。しかしだ。そんな女を救うのは誰だ?
…ここにロリコン宮崎駿のアニメの限界があります。男の幻想する理想の少女。その女という性は男にとって都合のいい性でしかありません。そもそもオタクでマザコンの小汚いエンジニアをあてがわれて女は幸福なんでしょうか?物語のハウルは美形ですが、これは美形じゃなければ救い様のない話だからです。逆に言えば、「美形でもあてがっとけば女も満足だろ」ってな話にだって取れるわけで、これはこれで女を馬鹿にしてませんか?この映画のようにメイド並みに家事ができれば女として尊重されるんでしょうか。最後に美形と結婚できれば女は幸福なんでしょうか。
男が女を求める理由があるように、女にも男を求める理由があるのでしょう。ただ、これを書いているオレは、いい歳こいてウブなので、女子のことを何もかも把握しているわけではありません。はっきり言って謎だらけです。しかしそれは、きちんと女の性と付き合っていくことによってしか知る術はないんだと思います。この映画『ハウルの動く城』で欠けていたのは、そういった「女の男を愛する動機」なんではないかな、とちょっと思いました。

*1:この映画の変な見方の一つとしてわざと時系列を引っ繰り返す、という見方があります。主人公の少女は帽子屋のお針子。快活な妹とは対照的に妙に老成している彼女は綺麗な顔立ちなのに表情がありません。彼女は妹に訊かれます、「ずっと帽子屋のままでいいの?」と。その後少女は魔法を掛けられて老人になり、「もうここにはいられない」と家を飛び出し荒野を目指しますが、ここで、ハウルの動く城と遭遇、そして様々な《ドラマ》が起こるんですね。しかし、実はこの《ドラマ》、というのは、『ずっと帽子屋のまま歳を取ってしまった少女=老人が振り返ったファンタジイの味付けがされた自分の青春のストーリー』という見方は出来ないでしょうか。素敵な男性との出会いや戦争体験、家族との団欒。ただし魔法も魔法使いも彼女の幻想。そういうものを経て老人になった彼女は、人生の最後に荒野を目指しながら自らの半生を振り返ったのだと。でもこれだと淋しいお話になっちゃいますね。これは試案の一つですから取りあえず脇に措いておきましょう。