この町はこの世に存在しないほうがいいわ/映画ドッグヴィル

ネタバレありまくりなので注意。
ラース・フォン・トリアーは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で懲りていたし、かなり陰惨な映画だと訊いていたので敬遠していたが知り合いの強いプッシュがあり観賞。
一人の女がドッグヴィルという町に逃げてくる。彼女をかくまうかどうか合議した町民は、女の気持ちを確かめる為に労働奉仕をして町に尽くせという。そして働く彼女に心を許してゆく町民。しかし、彼女の逃亡の理由を知り町民の態度は一転、彼女に対しサディステックな暴虐と陵辱を繰り返す。そして衝撃的なラスト。
まあ、要するに変態映画ですね。このシナリオはそのままポルノにもホラーにも使えるし、ラストはこのまま犯罪映画になだれ込んでもいいわけだし、しかもそうしたほうがもっと面白かったんじゃない?と思いましたよ。文芸映画ってカッタルイですね。刺激の少ない人生送ってるんだろうなあ。
そして、田舎もんの無知蒙昧と狭量さと御仕着せがましさと劣等感の強さは、これはもうサイテーサイアクだからみんなくたばっちまえ!って云う映画なんですね。映画では最初、田舎もんたちは心の広い所を見せようとして見栄張って彼女を受け入れようとするんですね。寛大な自分たちはなんて心の温かい存在なんだろう、と優越感を得るためにね。
でも彼女に疑問を持ち始めたら化けの皮はすぐ剥がれるんですね。町民たちが主人公の女性に行う暴力と陵辱は、優越感の裏返し、即ち、都会から来た美しく魅力的で経済的にも恵まれていそうな彼女、それに対しちっぽけな貧しい町に押し込められここで一生を過ごすしかないであろう町民達のあからさまな劣等感を剥き出しにしたものなんですよ。まあ、本性を現したって事ですね。
映画の中で一番クセモノだと思ったのは、彼女を町に置こうと町民を説得し、最後まで彼女の理解者であろうとした作家先生ですね。もう最初見たときから、「こういう奴が一番危ない」って思いましたよ。町は政治的に合議制を取りますが、議長役の作家先生は民主主義の名の下に生ぬるく付和雷同な決議しか取らないんですね。それがリベラルだと思い込んでいるところが田舎の知識人の限界であり、この男の頭の悪さなんですよ。この「田舎の中途半端な知識人」の奇麗事に満ちた分別ぶった態度が最後に悲劇を生むわけなんです。現実の世の中でもああいう分別と民主主義をひけらかす奴が一番タチ悪いんですよ。
しかしですよ。田舎もんがバカだって事をこれほど粘着で描く監督も監督ですよね。「ダンサー〜」の時も思いましたが、この監督、遣り過ぎちゃうんかなあ。そしてこの遣り過ぎを「人間の本質をえぐる」だのと勘違いしてねーかなー。かったりー奴だな。そもそも本質なんてどーでもいーよ。田舎もんはバカだ、なんて、ホラー映画なら最初の5分で説明するよ。そういう意味じゃ「テキサス・チェーンソー」のほうがまだましな映画だと思うな。
というわけで“衝撃のラスト”ですが、あれはああなって当たり前だろ。ずーーーっっと「かったりー映画」と思ってたからあのラストはサイコーでしたね。オレもうゲラゲラ笑って観てましたよ。そもそもあんなもんで“衝撃”受けちゃ駄目です。あそこは拍手喝采する部分です。ああ痛快だったなあ。
そしてタイトルロールに流れる曲はデビッド・ボウイ、『ヤング・アメリカン』。そうか!監督は「アメリカ人はカッペだらけ」って言いたかったのか!そういう映画なのね、ふ〜ん。まあニコール・キッドマンがひたすら美しかったので許す。
なお文中の“田舎もん”は決して現実の地方出身の方の事を指すものではない。劇中のドッグヴィルの住人達の抽象化されたステレオタイプの属性の事を指している。だからこそ劇中の全ての建物は舞台の書割のように省略され、御伽噺のようなナレーションがしつこく挿入されるのである。全ては寓意なのだ。そして、“田舎もん”とは、住む場所の事ではなく、そもそも心根の問題なのだ。