オレとホラー② エクソシストの描く「現代に生きる不安」

ホラー映画として最も有名な映画は「エクソシスト」なのではないかと思う。
中東で見つかったパズスの像の悪霊がアメリカ・シアトルに住む少女に憑依する。これを二人のキリスト教神父が悪魔落とし=エクソシストする、という映画だ。劇中のショッキングでグロテスクな映像が社会現象になるほど話題になり、一大ブームにまでなった映画だった。
しかしこの映画は本当に怖いんだろうか?そもそもキリスト教の神と悪魔の対決、なんて、日本人にはどうでもいい話じゃないんだろうか。神父がいくら聖水を振った所で、日本人は「なにそれ?」としか反応できないでしょ。
この映画が本当に怖いのはむしろ前半にあると思う。
劇中の少女は俳優の母と母子家庭の2人暮らし。そして母は映画の撮影で殆ど家にはおらず、少女の世話は多分家政婦がやっていたんだと思う。裕福だがどこか淋しさが付きまとう広い家。たまに帰る母に甘える少女。年齢的には思春期,大人へと体の形や物の考え方の変わる時期だった。
異変はここで起こる。異音、物体移動、人格の転移。母親は娘の精神的な変調であるのではないか、と考えありとあらゆる先端医学の検査に娘を委ねる。しかし何も出ない、何が起こっているのか、最新の科学でさえわからない。異変だけが、不安だけが確固たる事実だ。そして、――母は神にすがるのである。
ねえ、こう書くと実は前半のほうが異様な話だと思いませんか。取り合えず、悪魔も神も、霊とかも忘れてこの話だけを読むと、この異様さの原因はまさに少女が孤独である、ということはすぐにわかるでしょう。異変は、思春期の少女の不安定な精神状態のメタファーだと思ってもいいわけでしょ。
そして、母は何も理解できない。
ありとあらゆる資本の恩恵に浴しながら、そして、最先端のテクノロジーをいくらでも利用できる時代に住みながら。なにもかも詳(つまび)らかにされているはずの現代で、「何もわからない」ということに直面する恐怖。目の前で起こっていることが、科学的に説明されない、という不安。そして、最後にすがるものが神だけ、という絶望感。
実は、この映画の重要な部分はこの前半の、「現代に生きるということの不安、不確定感」だったわけなんですよ。後半のお化け屋敷は、客寄せのオマケな訳だったんです。
そうなんです、この映画で、少女を救えるのは、母親であったにも拘らず、彼女は無知のために神に全権委任してしまうんです。本当にやるべきことは、自分の子供を抱きしめること、同じ部屋で、娘と語り合うことだったんじゃないですか。それさえも気付かない、この圧倒的な不信と不幸。これがホラーでなくて、何がホラーでしょう。
そもそも、ホラーと言うのは、「不安」と「不快」を表現する文学なんです。この始原的な感情を代弁し表現するジャンルが他にないからこそ、ホラーは死と恐怖を撒き散らしながら、不安と不快の狭間の人間の生の輪郭を探索するのですよ。どうですか?ホラーに対する考え方が変わりませんか?

エクソシスト ディレクターズカット版 [DVD]

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