華氏911 (監督・マイケル・ムーア 2004年アメリカ作品)

9月11日である。というわけでマイケル・ムーアの「華氏911」を観に行くことにする。場所は銀座シネスイッチ。観客層を見ると年配のおっさんが結構多い。休みの日にひとりで銀座で「華氏911」を観るおっさん。カッコいいじゃないっすか。…ってオレもおっさんだった…。
■「ボーリング・フォー・コロンバイン」。
前作「ボーリング・フォー・コロンバイン」は実に面白かった。特に、例えばカナダでは同じ様に市民全体に銃が行き渡ってるのに、アメリカのような銃犯罪は少ない、という事実。つまり、銃による犯罪は銃の数ではなく、銃を扱うアメリカ人の心がおこした、ということ。それでは、何故、何にアメリカ人は怯えているのか。そしてそこから、それを裸にしてゆく畳み掛けるようなマイケル・ムーアの映像に興奮しました。
ただ、この映画で一つ思ったのは、この映画は、ドキュメンタリーとしては日本人には関係ない映画だということだよ。服部剛丈君射殺事件のような、邦人の巻き込まれた痛ましい事件はあるにせよ、“アメリカ銃社会の恐怖”なんて、日本に住んでいる日本人に何の関係がある?そして、そういった事実を描いたドキュメンタリーを見せられれば、確かに興味深く見るかもしれないが、そのドキュメンタリーを、劇場まで観に行くかい?
それではなぜ「ボウリング〜」がここまでセンセーショナルに扱われ、日本でも大ヒットしたか?それは、当たり前の話だが、映画作品としてよく出来ていたからだよ。つまり、ドキュメンタリーの題材は問題じゃないんだよ。エンターティメントの質の高さが評価されたんだよ。それはつまり、みんな、マイケル・ムーアの映画作りの巧さに感動したって事なんだよ。
ドキュメンタリーは、現実の、事実の記録を作品にしたものだけれど、待ってよ、オレは何度も言ってるけど、客観的な事実や現実なんて無いんだよ。つまり、ドキュメンタリーは、それを作った者が切り取った、現実の切り口の一つだし、もしもそれを論じるのであれば、扱われた現実そのものではなく、切り口と切り取り方を論じるべきだと思うけど。
■「華氏911」。
知ってる人は知ってると思うけど、「華氏911」のタイトルの本家はレイ・ブラッドベリのSF/ディストピア小説、「華氏451」から取られている。これは全体主義国家を描いたディストピア小説なんだが、つまりマイケル・ムーアはタイトルから既にアメリカを「ディストピア」と定義してるんだね。
<ネタバレ有り注意>
実は映画は911の事件そのものについては大きく扱わない。更に言うと、世界貿易センタービルが倒壊するあのショッキングな映像を、たった一つも使ってないんだ。それより凄かったのは、あの事件のあったときの轟音と絶叫と悲嘆の声とパトカーのサイレン、車のクラクションなど街のあらゆる音が流される“場面”だよ。なんと、画面は1分ほど暗黒のまま、何の映像も流されないんだよ。何が起ってるのかわからないだろ。そうだよ、この時誰も、「何が起ってるのか」、なんて判らなかったんだよ!オレはこのシーンの巧さだけでもこの映画は評価するべきだと思うよ。
さらに、このあと挿入される、訪問していた小学校で、「アメリカが攻撃を受けてます」と聴かされ、7分間にわたって硬直するブッシュ大統領の表情。これも見もの。何も説明されなくても、この人ちょっと無能かも、とか思わせちゃう映像だな。
映画はこの後、ブッシュ政権サウジアラビアの癒着について暴露してゆくけど、そんな事実より、ムーアが上院議員たちに対して「あんたらのガキも海兵隊にさせてバグダット行かせちゃどうよ?う〜ん?う〜ん?」ってやるパフォーマンスのほうが面白かった。アメリカの政治の裏のダークサイドだったらケネディ大統領暗殺の真相を追った「ダラスの暑い日」のほうがドキュメンタリーとして衝撃的だ。ムーアはああいうシリアスさをずっと続けられるようなキャラじゃない。逆に、そういったメインストリームじゃない所がムーアの面白さなのかな。
アメリカの貧民層が真っ先に戦場に送られる、というのは今始まった事じゃない。ベトナム戦争もそうだった。あの頃は徴兵制だったけど、逃げ道のある白人はさっさとカナダへ逃げ出した。そして逃げ道の無い貧しい黒人達が戦場へ送られた。
それよりもオレが薄気味悪かったのは、アメリカ人の、メディアに対する、純真と言いたくなるほどの信じ込みやすさ、疑いの無さ。確かにブッシュによる薄汚い情報統制は行われているにしろ、どうしてこうも現実に対して無批判でいられるんだ?という気持ちの悪さだ。いや、判らない。オレもアメリカに住んでいれば、何処かで偏向した情報を鵜呑みにしてるのかもしれない。え?オレは逆にこの映画を鵜呑みにしている?ヤバイヤバイ。
終盤の、我が子に「アメリカの誇りになれ」と海兵隊を薦めて入隊させ、その子が戦死してやっと自分の過ちに気付き泣き崩れる母親の映像は、この映画がブッシュ政権を糾弾するクライマックスに持ってこられるけど、オレ自身は感心しなかった。ちょっとイメージとして狙いすぎだもの。そして、“母の涙”や、感情論で、政治なんて動かないよ。ただ、ムーアはここで、あえて“けれん味”を持ち出すことによって、アメリカの大衆に判りやすくメッセージを送りたかったのかもしれない。
そしてラストではジョージ・オーウェルの書いた、「1984年」という小説の一説が朗読されるんだ。
「戦争は終結させることに意味があるのではない。継続していくことに意味があるのだ。」
これも全体主義国家を描いたディストピア小説だ。タイトルは「華氏451」の本家取り、ラストは「1984年」。構成が面白い。この小説はSF小説の形を取ってスターリニズム批判したものだ。そしてこれが、反共を掲げ共産主義を打破し、資本主義を謳歌する世界で最も豊かな国アメリカ合衆国の現実だ、というのならなんと皮肉なことなんでしょう。
ところでやはり政治がらみだと論じにくいもんですね。どこで無知を露呈するかわかんないし。でも映画自体は、オレのような判ってない奴に作られたもんだろうからいいんだと勝手に思ってるんだけど。