オレ的音楽史 PART4 もうやめろや編

歌は世につれ。世は人につれ。ダラダラと4回目に突入しましたが、本人ももう飽きてます。でも終わらせとかないと気持ち悪いんで「もうやめろや編」ということで最後サクッとまとめようかと。

サブスタンス。CDプレイヤー導入。
1987年、ニュー・オーダーのベスト・アルバム、「サブスタンス」発売。ニュー・オーダーがこれまで12インチシングルで発表していた曲のコンピレーションです。ニュー・オーダーの優れた曲って、全てシングルで発表されたもので、アルバムはオマケみたいな曲ばかり、というところが変わったグループです。ちなみにこのアルバムは電グルピエール瀧をして「自分が最も影響を受けた」なんて言ってるアルバムです。
このとき初めてCDプレイヤーを買う。ニュー・オーダーのデジタル・ビートをデジタルで聴きたかったんである。
この日記を読んでいる若者の皆さん。実はオレが今まで書いていたアーチストのアルバムは、全部ビニール盤のレコードで聴いていたものなんですよ。CD自体は1982年に規格化され一般に発売されていたけど、まだ手が出なかった。この頃はレコード店に行ってもまだビニール盤とCDが半々ぐらいで置いてあったと思う。

日本のおんがく。
ところで日本の音楽って聴かないのか?というとほとんど聴かないのである。坂本龍一あたりは例外で、彼のサウンド・トラックだけは好きだった。「戦場のメリークリスマ
ス」「ラスト・エンペラー」「シェルタリング・スカイ」「リトル・ブッダ」、もとサントラ小僧だったオレはその美しい調べにと陶酔しました。でもYMOは実は大嫌いだった。もともと音楽的スキルの異様に高い人たちばかりだったけど、なんだかあの余裕かましてるところが嫌だったんだね。基本的にガツガツしてる連中のほうが好きなんだ。坂本のは最近のではMORELENBAUM2/SAKAMOTOでの活躍がとても好きだった。これは坂本と、ボサノヴァ創始者、故・アントニオ・カルロス・ジョビンが率いたバンドのメンバーだったモレレンバウム夫妻とのコラボレーションなんですが、もちろん、楽曲はボサノヴァです。ボサノヴァも一時はまり、名盤のコレクションなんかをしたもんです。
話はそれましたが、80年代、日本のアーチストで好きだったのはミュート・ビートというジャパニーズ・ダブ・レゲエ・バンド(89年解散)、そしてJAGATARA。この2バンドがよくライブをやっていた「芝浦インクスティック」というライブハウスが、オレのクラブ体験の原点でしたね。JAGATARAは凄まじいパワーのバンド演奏とボーカル・江戸アケミの無垢でそして錯綜した歌声でカオティックな音楽世界を構築したファンク・アフロ・ロック・バンド。あの頃、あんなに客が踊り狂ってたライブが出来たのはJAGATARAだけでしょう。もう、みんなダンゴになってグジャグジャになって踊ってたもんなあ。もうダンスじゃないんだよ。みんなヘロヘロになって、前の奴の肩につかまりながら、それでも飛び跳ねてたもん。スプリントの走りで長距離走をしているような凄まじいライブだった。しかし1990年、江戸アケミの変死によりバンドは解体。
オレはJAGATARAの「君と踊り明かそう日の出を見るまで」という歌詞の一節がとても好きだ。君と踊り明かす夜は楽しくて素敵なものだろう。でもいやがおうにも朝はやってきて、夢は終わる。そして砂を噛む様な現実にまたしても放り込まれるのだろう。でも、だからこそ、今のこの刹那を忘れたくない。オレにはそんな意味に聴こえる。
もう一人、忘れられないのは原マスミというアーティストだ。吉本ばななの小説の表紙を描いてる人、と言ったほうが判りやすいかもしれない。この人はCMのヴォイス・キャラクターなんかもやっている人だが、ユニークとしか言いようのない音楽作品を幾つか残している。何しろ歌詞が凄い。
「部屋へ帰ると君が死んでいた ねずみ色の首筋 まるでさかなのように仰向けだった 君のその 肉と骨と髪の毛を使って 楽器を作って 窓のそばで奏でてみよう ああ海で暮らしたい ここから海を眺めるんじゃなくて 海の中から首を出して 暮れてゆく 街や山脈を眺めてみたい 七つの海よ 六つの大陸よ 七対六で今夜も海の勝ちだね」(海で暮らす)
非常に幻想味の強い、それでいてちょっととぼけた様な歌詞。インタビューで確か「物事をストレートに表現するのは恥ずかしい。だからこんな歌詞になるんです」とか言ってた。しかしそれでもこのねじれ方は凄い。現在でも様々な方面で活躍されているようです。

ハウスミュージック出現。
1988年、遂にハウス・ミュージックと遭遇する。トッド・テリー、コールドカット、ボム・ザ・ベースが最初だった。今から考えるとハウスではなくブレイク・ビーツになるんだろうが、この当時はこのテの反復ビートは全部ハウスで一括りにしていた。ただただビートが気持ちがよい、という機能のみを追った音楽。この辺の事は最近のことなんで全部はしょるね。
この日以来、オレはありとあらゆるクラブ・ミュージックを聴いた。ヒップホップも、ドラムンベースも聴いた。レゲエもダブも。アンビエントトリップホップも。アシッドもトランスも。リズムと電子音の反復を聞いているだけで楽しかった。で、楽しい、だけで、いいじゃないか。
そこには余計な観念性も人間らしさも存在しない。脳と身体に直接訴えかける音の振動と音圧、質感。心は無にしていればよい。というか、そもそも、音楽は、心を無にするものであるはずではなかったか。
クラブ・ミュージックは進化した音楽ではなく、西欧文明が構築した平均率の支配から音楽を開放し、よりプリミティブなものへと還元する音楽なんだと思う。メロディーやハーモニーではなくひたすら音の大きさ、リズム、質感にこだわるのは、感情にではなく身体に訴えるためのものだ。そして人が踊るのは、人間であると云うことの観念性の底に埋没した自分の身体性をサルベージし、再認識する為の行為なんじゃないだろうか。ようするに、「人間もけだものであることを思い出せ」って事なんだが。
踊ろう、そして、人間である憂いを忘れ、けだものである喜びに打ち震えよう。そもそも、犬や猫には幸福も不幸もねえ。なぜなら、ただただ、生きている、という状態そのものが、喜びであるのだから。

(終わった!)