まぼろしの市街戦 / 監督: フィリップ・ド・ブロカ (1967年 フランス・イタリア) 

まぼろしの市街戦 [DVD]

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これ、30年以上前に作られた映画なんですね。
第一次大戦下、フランスのある町にドイツ軍が時限爆弾仕掛けて、住民が皆逃げ出して、町が空っぽになるんですよ。ところが、町の精神病院の患者だけが取り残されていて、彼らが何も知らずに町へと戻るんですね。そして、誰もいない町の中、精神病院の患者達が自分の妄想の中だけで演じていたキャラクターを、現実世界で演じ始めるんです。その中へ爆弾探査の任を帯びた一人の兵士が紛れ込み、患者達に何の間違いか「王が戻ってきた!」とはやし立てられ…。というストーリー。
なんだか夢を見ているようなシュールなお話でしたよ。
この映画はえてして「正気と狂気」のような単純な二元論で評論されているようですが、オレはむしろ、「美しい妄想はしょーもない現実を凌駕する事が出来るんだろうか」「そして凌駕することが出来るのなら、その時妄想は現実なのではないだろうか」という映画なのではないかと思った。
映画の狂人たちが演じるのは彼等自身までも騙している妄想なわけですね。だからこそ彼等は狂人なわけですが、全てが狂人だけの世界なのなら、対比させるべき“非”狂人が居ないという意味で、その世界の住人は誰も狂人ではないのと一緒なんですよ。死と殺戮の覆う日常世界のただ中にぽっかりと空いた妄想の王国。その王国では誰もが微笑み、ただしそれは狂人であるという注釈はつくけれども、真実だと信じる自分の人生を生き生きと過ごしている。そして、それでは、どちらの世界が、生き方が、正しいのでしょう。
それに気付いたからこそ、一種の狂言回しである主人公の正気の兵士でさえ、戦争そのものが当たり前の日常になってしまった敵や味方の部隊よりも、夢の世界に生きる狂人たちに次第に強い親和力を感じ始めるんですよ。
人は、どこか、この現実を、現実だと信じすぎてるような気がする。客観的な現実なんて存在しない。現実とは個々人の世界を認識する度合いの違いでしかない。それでもあえて客観的な現実があるのだとするのなら、それは人間それぞれの最低限の共通項にあるのだろうが、それでさえ定数が決まっているわけではない。要するに我々の現実とは社会の中でその時その時に流動する共同幻想でしかない。共通項の総和が一般より少なければ「ユニーク」とか「変人」とか呼ばれ、ほとんど無いのであればそれは精神病だと呼ばれる。しかし、属する社会=集合が違ってくるなら集合論の「和」の値も変わってくるわけで、その時認識されるべき現実だって変わってくるじゃないですか。だからこそ、現実は今目の前にあるたったひとつのこれ、だけじゃないんだって事ですが、そんな風に考えられれば人間もう少し楽に生きられると思いますよ。
この映画ではシュールでブラックなシチュエーションとは別に、こうした「認識するもの・されるもの」「認識すること・されること」という裏テーマがあるんじゃないか、と(物凄く勝手に)思いました。
主人公であるこの兵士と、患者の、何時も黄色い傘を差している少女との淡いラブ・ストーリーも語られるます。しかしこれもあらかじめ儚く、実ることのありえない想いだということがわかっているだけに、やはり何か、夢の中の恋物語のようにも思えます。この少女を演じるのがジュヌビェーブ・ビジョルド。美しいです。ちなみに主人公はアラン・ベイツ
この映画、凄く古いのに、知られざる名作って気がしますよ。今見てもなんか感じるもの・考えさせるものがあると思うな。俺の今年見た映画の中でもかなり得点高い映画です。
そういえば、この映画を見てこんな言葉を思い出した。
「一人で見る夢はただの夢。でも、二人で見る夢は、それは現実。」(John & Yoko)
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後は余談。
こういう映画でよく語られるのは「戦争の狂気」という言葉ですが、オレはこの言葉は人間を信用しすぎなような気がして好きじゃない。戦争が狂気なんじゃなくてやってる人間が狂気なんだろ。そして、人間はいつだって真顔でこんな狂気をやっちゃったり出来るから怖いんだろ。そもそも戦争は人間の確固たる正気でもって行われるもんだ。正気だからこそ巧妙に論理を歪め論理をすり替え、一見まともなような異様な「正論」でもって戦いだのテロだのを行うんだ。そしてそれを行わせるのは狂気なんかじゃなく冷徹で酷薄で何処までも正気な打算なんじゃないだろうか。
あと「戦争批判」って言うのも違うと思う。そもそもフィクションで現実を語って欲しくない。語るのはいいんだけど、あくまでフィクションというものは想像力の遊びである、というところを外して欲しくない。どこまでこの現実を高く空に放り投げられるか、オレはフィクションというものに奇妙にそんなことを期待していたりする。