アバウト・シュミット  (2003年作)

アバウト・シュミット [DVD]
「若くなりたい、若くなりたい、若くなりたい!」―――“チャンピオンたちの朝食”カート・ヴォネガット・ジュニア

老人映画。30代以上限定で観るべき。それ以下の人には「単に汚いじじいが我儘言ってる映画」にしか見えないかもしれない。しかし、現実に「自分はいつまでも若いわけではないし、年を取るにしたがって汚くなっていくだけなんだろう」ということを思い知った人間にはこの映画は身につまされる。
なにしろ小汚いじじいを演じるジャック・ニコルソンが素晴らしい。彼が演じるウォーレン・シュミット、66歳は殆ど感情を表面にあらわすことが無い。なぜなら企業戦士として社会的地位のある人間として自制と忠誠を自らに課して生きてきたからだ。しかしそんな表情の無い人間の感情表現を、ちょっとした口元の閉じ方や緩み方、瞼の閉じ方、目線の持って生き方、口調の速さ、澱み方、それらこれらの微妙な動きで表現する様はもはや名人芸であると言っていい。地味な人間を演じているがこそ、これまでのジャック・ニコルソンのあくの強さは後退して見えるかもしれないが、逆にこの演技は彼にしか出来ないものなのではないかと思う。
例えば映画最初の送別会のシーン。同僚の激励のスピーチを聴くシュミット氏の表情。口元は微笑んでいる、ように見える。目はスピーチを真摯に受け止めている、ように見える。しかしそれらの表情のどこかに、「この今の現実はなんだ?」という戸惑ったような表情が見え隠れする。元企業戦士の彼は二重思考で生きている、だからそんな表情をする。彼は自分を抑えているし、周りに合わせているが、本当は今ここにいることが居た堪れない。このたった数秒のショットでのジャック・ニコルソンの表情が、それら全てを表現する。
映画の内容も、定年退職したサラリーマンが手持ち無沙汰な日常に放り込まれて当惑する、といったもので、その中で妻の死や娘の結婚などのドラマが絡められるが、一応コメディのような体裁をとっているものの、やはり物悲しい雰囲気が全体を覆っている。家族のドラマもそこには入っているけれど、料理の仕方次第でどんなにも面白おかしくも、悲痛にも、ブラックにも、深刻にも描かれる内容を、この物語の主題から外れないよう巧くコントロールしていて、そのバランス感覚が素晴らしい。
そして、この映画の主題とは、「老いることへの困惑」である。
老いることとはどういうことか?以前TVで若い人に「お年寄りの幸せってなんだと思いますか?」という質問をして「判らない」と答える人が多かったニュース番組を観たことがあるが、その質問への答えは簡単だ。それは、「幸せというものへの観念は、欲求は、若い奴といっしょ」ということである。そんなの当たり前だ。年齢の違いはあっても人間としての欲望、欲求が変わる訳がないのだ。ただ、問題は、年を取ると、肉体がそれに追いつかない、という事なのだ。
老いることは時として不合理だ。人として経験を積んでいけば、どんどんと素晴らしいものが蓄積されていくように思われるけれど、老いさらばえた肉体は、その“素晴らしいもの”を体現する術を既に失っているのだ。
例えば、若い頃を思ってみるといい。様々な欲望や希望があったとしても、経済的に無理だったり、経験が足りなかったりで、成就されることが無いことのほうが多い。そして年老いて経済的に豊かになったときには、若かりし頃の欲望を果たすことが肉体的・精神的に無理だったり、あるいは興味を失ったりするのだ。これが不合理でなくてなんだ?
そしてその困惑は心の内で静かな怒りに変わってゆく。「なぜだ?なぜオレは老いてしまったんだ?」だが自制をモットーとして生きてしまったシュミット氏は自分の怒りにすら気付かない。彼の子供じみた行動や我儘は、彼自身の怒りの表出であり、キャンピングカーでの遠いドライブは、その怒りの生んだ暴走行為なのである。
演出もいい。妻の葬送シーン。墓地で祈りがささげられている間、イスに座っているシュミット氏。彼は妻の眠る棺を見る。そして埋葬されたあと、その棺を埋める為に用意された盛り土を見る。そしてその後彼は空を見るのだ。死んだ妻という過去。埋葬という現在。彼の妻が召されるであろう天、という未来。オレはこの短いショットにそんな意味合いを見た。
ちなみに、ラストは賛否両論らしいが、オレは素直に感動した。映画は、ファンタジーでいいじゃないか、というのがオレの持論だ。