いま私たちが考えるべきこと / 橋本 治 (著) 新潮社

いま私たちが考えるべきこと
「いま私たちが考えるべきこと」は「はじめに」に書かれているように「今の社会の様々な問題を考えましょう、と解説している本ではありません」。それでは何を考えるのか?というと、この本は「自己」と「他己」「全体」の関わりについての「自己観念」のあり場所を掘り下げてゆく。
『「自分の事を考える」とか、「自分の事を考えろ」とかいうことになって、「まず自分の事を考える人」と、「まず他人のことを考える人」と、人にはこの二種類があると思う。』この本はこの一文がどういうことなのか?を本まるまる一冊を使って説明する。もう、結論までがめちゃくちゃ回りくどくめんどくさいんだが、結局ここまで回りくどくしなければ何も説明できない、説明したことにならない、というのが橋本治の力量の怖ろしさだ。そして最後には個人の在り様、社会の在り様、家族の在り様、夫婦の在り様までが解体されてゆく。この文章自体もかなり判りづらいと思うんだが、“一言で説明できないことを本一冊使って説明した”本を簡単に説明できないっすよー。
「個性を伸ばす教育」についても「個性とは『傷』であり、そもそも悲しいものなのだ、一般性からはみ出したものが『個性』なのであり、そんないいものではないのだ」と説き、疑問を投げかける。そして「個性的にならざるを得なかった人間にすれば、『個性的』という言葉は、『差別になる一歩手前で踏みとどまった、侮蔑を曖昧にする止揚表現』でしかないのである。」と続ける。意味もなく個性的なオレも「一般的はヤダ」とか言って個性的になっているところがあるが、しかし自分が滑稽な存在であることも十分承知している。なぜならオレだって一般的に生きたかったからだ。一般的であろうとすればするほど外れていく痛み。「個性」がなにかの特典や勲章では決してないことを知らない人間にこんなことは絶対判らない。
面白かったのが「子供に何を教えていいのか親はもうわからなくなっている、そして判らないから子供に一方的に『自由』をあたえる、結局子供を教育するのは『外部の情報』である。家の中で『わたしたち』を成り立たせられなくなった子供は家の外で『わたしたち』を成り立たせようとする」という一節で、これを読んだ時は例の小学生の殺人事件思い出しちゃいました。彼女が共同体として所属していたのは家庭ではなくチャットの中だけで、そこで拒絶された彼女は殺人という手段で自分の居場所を取り戻そうとしたのではないか、と思うんですよ。問題にされるべきなのは殺人の残虐さではなく、子供にとって自分の所属先がなくなる=家族がなくなる、という孤独と恐怖はどんなだったか、ということなんではないかと思いました。
なにしろオレの思考力では判ってない部分も多々あり、巧く説明してない文章になっちゃってる事をお詫びします。