あれこれ売却した結果◯◯万円になった

以前ブログで「部屋の中にモノが溜まり過ぎたので整理を始めている」という内容の記事を書いたが、あらかたその整理も終わったのでその結果を記録しておきたい。整理したのは本、DVD、CD、ゲームソフトとゲーム機、それとフィギュアで、それぞれ箱詰めして買い取り業者に売却した。

【本】段ボール箱で10箱、約400冊あまりを売却した。売却価格は71,986円になった。買い取り業者はバリューブックスを利用した。【DVD】と【フィギュア】は大きめの段ボール箱で3箱、DVDは約200~300枚あまり、フィギュアは20体あまりを売却した。売却価格は78,982円になった。買い取り業者は買取王子を利用した。

【ゲームソフト】は50本余り、それと【古いゲーム機】4,5台を大きめの段ボール箱2箱に入れて売却した。売却価格は29,688円になった。買い取り業者はこれも買取王子を利用した。

【CD】段ボール箱9箱、約700~800枚余りを売却した。売却価格は274,140円になった。買い取り業者はディスクユニオンを利用した。

というわけで段ボール箱で合計24箱分の不用品を売却し、その売却価格は合計454,796円となった。

合計45万円とは結構な額でびっくりした。殆ど二束三文だと思っていたからである。まあ実際二束三文ではあるのだが、量がまとまるとこれくらいの金額になるということだろう。なにしろ段ボール箱24箱分だもんな。とはいえ、これらの品を購入した時はその10倍以上の定価で購入しているので、これらの品物に投資した額は少なく見積もっても500万円前後になるのだろう。

それぞれの買い取り業者の査定金額には特に不満はない。まあこんなものだろう。ただやはり本というのはそもそもたいした値が付かないものだよな。ゲームソフトについては、X-BOXPS3、4あたりの相当古いゲームソフトばかりだったのでこれもほとんど値が付かなかった。ゲーム機については古いものだったことと、故障していた機械であったことで(故障したゲーム機も引き取りOKだった)、これもたいした値が付かなかった。

DVDとフィギュアに関しては、一緒に送ったので査定の内訳は不明なのだが、売却価格合計7万円あまりというのは、そのほとんどがフィギュアの査定だろう。割とレアな美少女フィギュアが相当数あったからである。

一番驚いたのがCDの買取価格である。なんと合計27万円だ。これには腰を抜かした。最初は一桁間違ってるんじゃないかと思ったほどだ。700枚を売却したとして単純計算で1枚400円弱の買取価格になるのだが、それよりも結構なレアCDが存在していたからの様な気がする。

これらの売却により、今回のオレの「部屋のモノ整理ミッション」は一応の終了とすることにした。まだ部屋には本だのDVDだのCDだのゲームだのフィギュアだのは山ほどあるのだが、これらは今の所永年所有の方針である。要するにまあ多分死ぬ寸前までは所有してるんだろうな、という事である。

それと今回の整理により、以前と比べたらこれら趣味の物品を購入することが少なくなった。どうせ暫く経ったらまた不要になるんだろうな、と思えてしまうからである。ただし全く購入を止めたわけではなく、たとえば最近ジャズ・ミュージックが気にいってしまい、このCDがじわじわと増えてきている。本についてはなるべく電子書籍を購入しているし、フィギュアはもう買わないことにしたし、DVDやゲームソフトももう少し選んで買う事にしている(要するに買っている)。まあなにしろもう60過ぎだし定年も間近だし、終活に入っているというわけである。

なお今回の記事について、「ここならもっと高く売れた」「この方法ならもっと高く売れた」といった御指南は必要としておりませんのでお控えください。

板橋区立美術館「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」展

先日は板橋区立美術館で開催されている「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」展を観に行きました。板橋区立美術館はオレの住まいから電車で1時間、JR成増駅で下車してからさらに徒歩20分ほどの場所にあります(ちょっと遠かった)。まだ寒いかなと思ってコートを羽織って出掛けたんですが、途中で暑くなってしまいました。

実は最近全然美術展に行ってなかったんですが、これはただ単に飽きてしまったからなんですよ。一昨年は相当頻繁に美術館に通っていたんですが、沢山の美術展に行くことで、12世紀ゴシック美術から20世紀抽象芸術までの美術ジャンルを、一通り満遍なく観る事ができました。それにより、大雑把ですが西洋美術史の全体像が把握できたので、もういいかな、と思えてしまったんですね。

西洋美術史とは?アートの歴史を年表順にやさしく解説 - レキシル[Rekisiru]

で、結局オレの好きな美術ジャンルはなんだったのかな?と考えるに、これがシュルレアリズム絵画とポップアートなんですね。それなので今回の「シュルレアリスムと日本」展は久々に観に行きたいなあと思い出掛けたんですよ。

話は脱線しますが、オレも東京暮らしは長いですけれど、今まで板橋区って足を踏み入れたことがないんじゃないか?と思ってたんですよ。ところがブログを調べてみると、10年ほど前に 荒川南岸で開催された「いたばし花火大会」に行っていたようなんですね。という訳で人生2度目の板橋区!(どうでもいい話ですいません。)

《展覧会概要》1924年アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表して100年。フランスで誕生し詩や思想、絵画に多大な影響を及ぼした芸術運動は、当時の日本の画家たちを魅了しました。1920年代後半からシュルレアリスムを先駆的に試みたのは古賀春江東郷青児、福沢一郎をはじめとする人々でした。1930年代には若い画家や画学生たちがエルンストやダリの作品の影響を受け、表現の幅を広げます。さらに靉光、北脇昇らによる日本のシュルレアリスムを象徴する作品が描かれました。しかし、戦時中にシュルレアリスムは危険思想として監視の対象となるとともに、戦死する画家も現れ、活動は困難を極めます。それでも戦後、その影響は絶えることはなく、山下菊二をはじめとする画家たちは混迷する社会と向き合いながら、日本特有のシュルレアリスムの作品を生み出したのです。

『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本|板橋区立美術館

先に書いたようにシュルレアリズム絵画って好きな美術カテゴリで、エルンスト、マグリット、キリコ、デルヴォータンギー、ダリなど、どれも好きな画家です。ただ彼らは皆西洋絵画の画家たちで、日本のシュルレアリズム絵画ってまるで知らなかったんですね。そういった部分で今回の美術展はとても興味深いものがありました。東郷青児《超現実派の散歩》(1929年)などは大変有名な作品ですが、これが日本のシュルレアリズム絵画の先駆けだったという事は初めて知りました。

東郷青児《超現実派の散歩》1929年

展示作品は約120点、主に1920年代から1950年代までの日本のシュルレアリズム絵画が公開されています。展示は製作年代順に、先駆者たちの登場と拡散、そしてその最盛期へと連なってゆきますが、エルンストとダリの影響の強い作品が多く目につきました。当時エルンストやダリの登場が、美術界にいかに衝撃を持って迎え入れられたかが如実に伝わってきました。

しかし日本が太平洋戦争に突入する時代になると、戦争への不安を描く作品が目に付くようになります。シュルレアリズム絵画が戦中に弾圧を受けたということも初めて知りました。そういえばアドルフ・ヒトラーも第2次世界大戦中シュルレアリズム絵画を頽廃芸術として排斥していましたね。展覧会に作品の展示された画家の幾人かが戦死していたり戦地で病死していたりという事実を知ったのは衝撃的でした。そして戦後、ずたずたになった日本の傷跡をシュルレアリズム絵画の形で描く作品で締めくくらるんですね。

今回の展覧会は、日本のシュルレアリズム絵画を紹介するだけではなく、それが戦争によってどのような影響を受けることになったのかを提示している部分で優れたものを感じました。

板橋区立美術館で4月14日まで開催しています。

古賀春江《鳥籠》1929年

杉全直《跛行》1938年

浅原清隆《多感な地上》1939年

平井輝七《月の夢想》1938年

靉光《眼のある風景》1938年

山下菊二《新ニッポン物語》1954年

 

今日でこのブログが開設20周年となるのだ

20周年だった

2004年2月21日から始めた拙ブログ『メモリの藻屑、記憶領域のゴミ』が本日2024年2月21日で20周年を迎えました。

オレは今年62歳だからブログを始めたのは41、2歳の時だったんですね。月日の経つのは早いものです。特に感慨というものはないのですが、「よくもまあ今まで長々とやってしまったものだよなあ」と自分に感心しつつ半ば呆れてもいます。途中何度か「そろそろブログ止めたいなあ」と思った事はありますが、なかなか踏ん切りも付かず、今までダラダラ続けてしまった、という感じです。モチベーション云々というよりもブログを書くことが既に生活習慣になってしまっているので、止め時というのが分からないまま続けているんですよね。

このブログが10周年を迎えた時はそれなりの気負いがあり、次のような記事を書きました。

とはいえ20年も続けてみると気負うことなど何もなく、だから20年続けたことについて言いたかったことは最初に書いた文章で既に言い尽くしてしまいました。

ただそれだけだとちょっと寂しいので、例によってああだこうだとダラダラどうでもいいことを書いてお目汚ししたいと思います。

《目次》

20年続けたオレのブログスペック

・投稿日数約5150日

・合計アクセス数約85000(ただし「はてなダイアリー」から「はてなブログ」に移行してからの数なので本当はもっとあるんじゃないかな)

・読者185人(これも「はてなダイアリー」の時の登録読者を含めたら倍ぐらい)

・コメント数7138

・ブックマーク数6315

・スターの数約10000

・1日だいたい300~400のページビュー

まあ要するに、零細ブログです。

特に文才や知識があるわけでもないし、ブログをもっと読まれたいという向上心も無いし、オレの如き者の書くブログなのでこんなものかな、って感じです。

なぜブログを始めたのか

人生煮詰まってたからです。

20年前のオレは、仕事も私生活もあらゆることが煮詰まってましたね。20年前の42歳で煮詰まっていたオレ、というのはいろんな意味でヤバいものがありました。それをなんとか打破しようと新しいことを始めるべきだと思ったんですよね。思えば30代半ばの頃、まだWindows95か98だった時代にパソコンを購入したのも人生に煮詰まっていたからでしたね。それ以前、30代前後の頃に人生煮詰まった時はスーパーファミコンを買って昼夜遊んでいましたね。まあ要するに30代の頃からずっと、考えてみれば20代とか10代の頃からずっと人生煮詰まってたようなもんなんですけどね。まあ、碌なもんじゃありません。

で、ブログを始めてどうなったのか?ええ、実は人生が変わりました。

ブログを20年続けて良かったこと、楽しかったこと

・ブログを通じて相方と知り合った。

・ブログを通じてたくさんの素晴らしい人々と知り合えた。

・ブログを読んだ編集者の方から書籍コラムの執筆依頼があった。

・ブログで知り合った方たちとミニコミを作った。

多くの、様々な人と繋がれたこと、そしてそんな誰かの役に立ったこと、それがブログを始めて良かったことでした。

そしてそれにより、それまで他人とまるで関わらず、一人ぼっちでグルグルと自家中毒を起こしていた生き方が変わりました。ブログが、というよりもまず、人と繋がることが生きる上で大事なのだということなのでしょう。それを簡易な形で実現してくれたのがブログというツールであり、さらに言えば当時一気に広まったインターネットの恩恵でした。今はそれはブログではなくSNSが肩代わりしているのでしょうが、20年前のブログ流行りは、それなりに意義のあったものだったと思います。

ブログを20年続けたことの弊害

何もかもブログ中心の生活になってしまった、これに尽きます。

・映画や本に接する時どうやってブログにまとめるか考えながら観たり読んだりするクセが付いてしまった。

・旅行に行っていてもどうブログにまとめるか考えたりブログで使えそうな写真を撮ったりしていた。

・ブログ記事にする事が目的で特に興味のない映画や本に接する事もあった。

・ブログ記事を書くために生活一般のスケジュール調整をしていた。

・そして膨大な時間をブログ書きに費やしてしまった。

最初の数年はブログに書きたいことがあって書いていたし、そしてそれが楽しかったのですが、ある年数を超えたあたりから義務化習慣化してしまったんですよね。日課という形で生活に組み込まれてしまったせいで、書きたいことがある無しではなく、書くこと自体が目的化してしまったんですよ。義務感に支配されているので面倒臭いとか書くのがしんどいとか思っていても無理をして書いている部分がありました。ひどい時は体調が悪いのに無理矢理書いていた事もあった。......うーん、なんだか変な病気みたいですね。

ブログを続けて役に立ったこと

1.ひょっとしてボケ防止に役立ってくれているかもしれない……とは思ってます。

2.ブログを書く際にあらかじめ物事を調べる癖がついたので、多少はなにがしかの知識がついたかもしれません。

きちんとした文章にまとめるためや勘違いしたことを書かないために、なるべく調べ物をしてからブログを書くようにしています。それにより書く対象についてより深く理解・解釈できた部分がありました。書き出すという作業を経ることで思ったこと・考えたことを整理できる、という部分もありますね。

3.ブログが外部記憶というかインデックス代わりになっていて、これは結構便利です。

観た映画や読んだ本、聴いたCD、ちょっとしたイベント(これなどまさに日記)を逐一記録したので、後から「アレってなんだったけかな……」と思い出せない時、検索すればすぐ分かるんですよ。だからコミックをダブって購入したりしない!「この映画観てたっけ?」と思ったらすぐ調べられる!「相方と一緒に旅行したのはいつどこで?」というのも一発検索!これが20年分の記録として残っているんですよ。この「記録しておく」というのは後々便利なので、文章を書くブログを続けられなくなっても、メモ代わりとして続けたいな、という気はしています。

なぜ20年もブログを続けたのか、続けられたのか

単なる惰性です。あと変な意地かな。

途中でなんとなく止めちゃって、廃墟みたいになったブログを誰かに見られるのが嫌だったからです。なんかそういう無意味な部分で見栄っ張りなんですよね。止める時は「今日で止めます」と宣言してから止めたいのですが、やっぱり唐突に書かなくなっちゃうのかもしれません。

惰性とか言ってる割に毎回長文を書くのはなぜ?

1.文章を簡潔にまとめられないから

書きたいことがたっぷりあるから長文になっているわけではないんです。オレの文章を読んだ方はすぐ気付くと思いますが、説明が下手だから回りくどくなってしまう、きちんと説明できてないと思って似たような言い回しを何度も使ってしまう、これが文章が長くなる理由です。分かっているんですが止められないんですね。クレイジーキャッツの歌みたいですね。あと年寄りなので話がクドイ、というのもありますね。

2.書いていて乗ってきちゃって、止まらなくなる

だいたいブログを書き出すときは義務的に嫌々書き始めるんですが、これが書き始めるとあーら不思議、書くことに没頭して延々書いてしまうんですね。実はあの長文、書き上げるのに2時間は掛かってるんです。さらに添削したりレイアウトを変えてみたりするのに何度も読み返してこれでまた1時間。なんだかバカみたいなんですが、実はそれが楽しかったりするんです。(何度も読み返してあの文章?とか突っ込まないように。)

3.結論。ブログを書くのは楽しい。だから書いていて長くなる。

オレにとってブログとはなんだったのか

単なる趣味。

これに尽きます。それ以上でもそれ以下でもありません。趣味に理由を求めないようにブログにも理由を求めません。趣味に意義を求めないようにブログにも意義を求めません。ブログを続けたことで得るものはありましたが、それは派生事項であり目的だったわけではないということです。

ところで20年も続けていたら会社や家族などに身バレしていない?

身バレはしているようです。

実は会社で同僚から突然「フモさんってブログ書いてるんだってね?」と言われたことは何度かあります。しかしちょっとびっくりはしますがあまり気にしていません。それはオレのブログの内容がそれほど多方面に興味をそそるようなものではないからです。せいぜい「本と映画の好きな人なんだ」と思われるだけです。

変に心情吐露したり、あからさまに私生活を陳列したり、何かを攻撃したり、思想信条を書き連ねない限り、つまり地雷めいたものを書かない限り、ブログを書いていることが分かったからといってどうということもありません。思ったほど他人は「ブログを書いている」ということに興味を示さないからです。それは「あの人は釣りが好きらしい」とか「ドライブが好きらしい」と思われるだけのようなものです。

でも「あ!実は自分もはてなでブログ書いているんですよ!」とか言われたらちょっと困るかな……。

で、今後も続けるの?

いやー、これが問題ですね。

オレももう結構な年なので、体力的にシンドイというのもありますし、多大な時間を費やすことで他にやりたい事・やるべき事が相当おざなりになっているという自覚もあります。そんなのは何年も前から分かっていることなのですが、なかなか改められられません。

とはいえ、実は今年定年を迎えることになり、さらに引っ越しも考えているので、私生活が否応なく慌ただしくなりそうなんですよね。そういった部分でこれまでのように悠長にブログ書きをしていられなくなるのと、こういう機会だからこそ更新頻度を少なくするべきだとは思っています。でまあその流れでなし崩しに止めちゃうかもしれませんが、それは神のみぞ知る、ですね。

最後に

という訳で結局いつものように要点もないままダラダラと書いてしまいました。20年続けてきたブログですが、その間に読んでくれた多くの方たち、関わることとなった多くの方たち、そしていつも心の支えとなってくれた相方さんに心から感謝を。楽しかったりきつかったりといろいろありましたが、こんな凡俗な人間でも20年もブログを続けて来れるのだと思うと、それなりの自負は感じるものです。これを心の中の小さな勲章にして、明日からもまた淡々と生きていくつもりです。でわでわ。

あれこれ整理中

Aimee CozzaによるPixabayからの画像

部屋の中にモノが溜まり過ぎたので整理を始めている。ちなみに「断◯離」という言葉は単なるファッションだと思っているのでそういう意識ではない。

整理するモノは本、DVD、CD、ゲーム、あとフィギュア辺りかな。まず本は段ボール箱5個に詰め込んで古書店に売却した。黄ばみまくっているようなあまりに古い本は紙バッグ2つ分資源ゴミに出した。それでもまだ蔵書の1割か2割ぐらいで、さらにまだ箱詰め最中である。

そもそも本を読み返す事など全くと言って無いので、本棚に陳列するのが無意味だと思う事がある。オレにとって読書は単なる消費行為でしかなく、たいてい読んだらそれで終わりだ。物理の場所を取るのが嫌で、最近は本は電書で読むことにしている。紙へのノスタルジーは全く無い。

ただし画集や写真集は、老後の楽しみのために取ってあり(隠居したら部屋でのんびり画集を眺めたいという夢があった)、これだけは蔵書として残しておきたいとは思っている。困るのはコミックで、完結まで20巻30巻とある作品は場所をとって仕方ないのだが、愛着のある作品はどうしても処分できない。これに限らず「自炊」というのも考えたが、手間を考慮するとどうしてもやる気が起きない。

使っていない古いゲーム機数台、古いゲームソフト50本あまりも、大型の段ボール2個に詰めてこれも買い取り専門店に売却した。ゲームソフトは遊ばなくなったら即売却というのがセオリーだが、オレはこの「売却」という行為が面倒で、それでゲームソフトに限らずいろんなモノを溜め込んでしまったのだ。

DVD、ブルーレイ等の映像ソフト、これがなかなか処分できない。やはり愛着の強いもの、貴重なものが多いからだ。例えば『スター・ウォーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』や『ブレードランナー』といった映画は、VHSとDVDとブルーレイと4KUHDで重複して所有しているものすらあるが、それぞれ映像内容が違っていたり特典映像の有無があったりボックスセットの仕様が独特だったりといった理由で、なかなか最新仕様のメディアに統一して他を処分するという事ができない。こういったことは書き出すときりがない。とはいえ既に興味が無く、さらにどのサブスクにも入っているような古いDVDの映画は大量に捨てた。

CDに関しても、購入したら即パソコンに取り込んでロスレスで保存しているので、物理で所有している意義をあまり感じないもの、既に興味を失ったものは処分の方向である。とはいえAppleロスレスはあまり信用していないので、好きな音楽はやはりCDで聴くことにしていて、これも溜まる一方ではある。また、デヴィッド・ボウイやプリンスなどのCDは、これはあくまでコレクションなので当然保管である。これもきりがないと言えばきりがないのだが。

フィギュアも溜まりまくってしまったのでこれも処分の方向だが、映画関連のフィギュアは今でも愛着が深いので、これは他を整理したら箱から出してきちんと陳列したいと思っている。

そういえば洋服も、もともと流行と関係ない仕立てがよくオーソドックスなスタイルのものを購入し大事に着る方なので、これもなかなか処分できない。そして以前は律儀にシーズン毎に新しく購入していたので洋服が溜まる溜まる。30年以上前に購入したツイードジャケットを未だに着ているほどだ。最近は洋服を殆ど買わなくなったので以前ほど溜まらないし、購入してもファーストファッションのものばかりだから形も悪くなりやすく処分しやすい。あとプリントTシャツなあ、これも大事に着ちゃうから、古いが綺麗なものが沢山あって、これも溜まっちゃってどうしようもないんだよなあ……。やっぱり捨てるか……。

それにしても、これまで10数年かけて散々溜め込んできたあれこれのものを、処分すると決めた途端に鬼のように片づけ始め、(10年ほど前の引っ越しの時に一旦リセットされたが)最近は頭が「処分」一辺倒に支配されてしまっている。だから休みの日になると「処分しなきゃな……箱詰めしなきゃな……」と気になって気になって落ち着かない。どうにも難儀なものである。

 

今年のバレンタインデーはニャンコチョコとタヌキチョコ

バレンタインデーである。付き合って10年以上のオレと相方の間でもバレンタインデーでは未だにチョコ的なものの交換を行っている。なぜなら二人はラブラブだからである。どうだ羨ましいだろ。(とはいえオレも相方も時々忘れている年もある。)

今年の相方さんからのバレンタインチョコは「ニャンコチョコ」、猫をかたどったチョコである。猫のイラストが描かれた缶が可愛らしいではないか。相方さん曰く、「あなたは心が乙女だから乙女なチョコにした」とのこと。そう。齢60を過ぎてもオレのハートは限りなく乙女なのである。ガーリーなのである。ただ60過ぎなので乙女……というよりおばさん……といった方が正しいかもしれないが、ハートに見た目は関係ないのでここはやはり乙女なのである。ついでに言うならオレの星座はおとめ座だ。なんだやっぱり乙女じゃないか。ぐふふ。

相方さんからバレンタインチョコを貰ったオレであるが、オレからも相方さんにバレンタインチョコを送ったのである。そう、それは「タヌキチョコ」である。タヌキ好きの相方さんの為にオレが見つけてきたのである。正確にはNintendoゲーム『どうぶつの森』のバレンタインチョコバージョンなんだがな。

だいたいバレンタインデーなんぞというのは「キリスト教圏の祝いで主に欧米で、毎年2月14日に行われるカップルが愛を祝う日とされている。家族や親友などと祝う人もいる*1」といったものだから、別に女性から男性へだけでなく男性から女性へ何か送ったっていい訳だ。ホワイトデーなんぞというはバレンタインデーにかこつけて日本で勝手に作られたもんなんだから、律儀にホワイトデーまで待たなくても送りたいものがあったらバレンタインデーかそのあとに贈り物をすればいいだけの話だ。

バレンタインデーに限らずクリスマスもそうだけど、何か理由を付けて大事にしている相手にちょっとした贈り物を送るというのはいいことだとオレは思うぞ。この時は他愛もないものでいいんだ。チョコなんて食って無くなるだけのものだからある意味他愛もないもんだしな。でも嬉しいじゃん。もちろん義務化したバレンタインデーはナンセンスだから学校や会社での義理なんちゃらというのは即刻廃止してしかるべきだけどな。楽しめる人同士で楽しんでやればいいだけの話だよ。

とはいえチョコレートなあ、オレ、嫌いじゃないんだけど、目の前にチョコがあるとあるだけ全部食べてしまうという厄介な癖があるんだよ。食べ始めると止まんなくなっちゃうんだよ。だからバレンタインデー後ってチョコの食べ過ぎでだいたい胃を荒らしちゃうんだよなあ……。