トニー・アウスラー:技術と霊知のはざま~魔術、メディア、アート~ TOKYO NODE GALLERY A/B/C

TOKYO NODE GALLERY A/B/Cで開催中の「トニー・アウスラー:技術と霊知のはざま~魔術、メディア、アート~」を見てきた。……と言っても、実は私はそれまでトニー・アウスラーというアーティストの名前をまったく知らなかった。
では、なぜこの展覧会に足を運んだのか。きっかけはデヴィッド・ボウイだった。私は大のボウイ・ファンなのだが、展覧会の紹介写真を眺めていると、その中に見覚えのある作品があった。ボウイと作曲家グレン・ブランカが参加した《空(くう)》である。「あ、この作品を作ったのがトニー・アウスラーだったのか!」それならば見に行かないわけにはいかない。
ボウイとアウスラー――グロテスクなものの向こう側

《空》は2000年頃、アウスラーがボウイ、グレン・ブランカとともに進めていたプロジェクトをもとにした作品だ。巨大なオブジェにボウイの顔が投影され、歪み、変形しながら現れるその姿は、今回見たアウスラー作品の中でもかなりグロテスクな部類に入るように思えた。
しかしボウイ・ファンの私には、そのグロテスクさが不思議と「ボウイらしい」とも感じられる。ボウイは絵画も残しているが、正直なところ、私は彼の絵をそれほど「上手い」と思ったことはない。妙に歪んだ顔や、ごつごつした人体。そこには常に革新的で洗練されていた彼の音楽とはまた違う、奇妙なドロドロとしたものがある。
考えてみれば、『1. Outside』や「The Hearts Filthy Lesson」など、ボウイは決して美しいものばかりを好んできた人ではない。歪んだもの、異形のもの、美と醜の境界にあるものにも、繰り返し惹かれてきた。だから《空》も、アウスラーが一方的にボウイを自分の奇怪な世界へ引き込んだ作品というより、二人の美意識が出会った場所なのではないかと思う。
そして今回アウスラーについて調べて、もう一つ驚いた。『The Next Day』からの復活を告げた2013年の「Where Are We Now?」。二つの顔が一つになった奇妙な人形が登場する、あの忘れがたいPVを監督していたのもトニー・アウスラーだったのだ。
初めてあのPVを見たときも、私は「グロテスクだけれど、それだけではない何かがあるぞ?」とざわざわしたものを感じながら、同時に「いかにもボウイらしい」と思ったことを覚えている。
さらに1997年の「Little Wonder」のPVにもアウスラーの作品が使われていると知り、久しぶりに見直してみた。すると、オブジェに投影された眼や口など、今なら一目で「これはアウスラーだ!」と分かる。つまり私は、今回初めてトニー・アウスラーを知ったつもりだったのだが、名前を知らなかっただけで、実はずっと以前から彼の作品世界を見ていたのである。
映像に生命を与える
トニー・アウスラーは1957年ニューヨーク生まれ。映像をスクリーンの中だけに閉じ込めず、人形や球体、家具、建築物などに投影し、映像、彫刻、音響を融合させた作品で知られる現代美術家である。そんな彼の作品を実際に見て面白かったのは、無機物でしかないはずのものが、映像を投影された途端に「何か」に見え始めることだった。

《失われた時間》では、ひっくり返った椅子の下に肉体を失った頭部だけが残されている。それでもその顔は動き続け、懸命にこちらへ何かを語り掛けようとしている。その姿は不気味というより、むしろ物悲しい。何かを失ってしまったのに、それでも誰かとつながろうとしているような奇妙な喪失感を覚えた。

一方、《カリカチュア》は楽しい。床に転がる奇妙なオブジェにはそれぞれ眼や口があり、一体一体が別々の架空の生き物として息づいているように見える。見た目は相当に奇妙なのに、眺めていると妙な愛嬌まで感じてくる。なんとも「キモ可愛い」のである。同じように物体に顔を与えながら、一方には喪失の哀しさを感じ、もう一方には生命の楽しさを感じる。この振幅の大きさもアウスラー作品の面白さなのだろう。

最初に見たときは、空中に浮かぶ「雲」なのかと思った。しかしよく見ると、その表面には目や口が浮かび上がり、それらが絶えず蠢いている。そうして眺めているうちに、これは雲というより、空中に浮かぶ何か奇妙な生き物なのではないかと思えてきた。しかもその生き物は、言葉にならない言葉でこちらに何かを語り掛けてくる。現実の空間に存在しているはずなのに、まるで夢の中で遭遇したもののような、とても超現実的で不思議な作品だった。
惑星、都市、そして奇妙な世界

《スペキュラー》では、暗闇の中に大小さまざまな球体が浮かび、その表面に巨大な眼が映し出される。「見ること/見られること」という視線をめぐる作品なのだろうが、私にはまず、色とりどりの惑星が暗い宇宙空間に浮かんでいるように見えた。近づけば巨大な眼球なのに、少し離れて空間全体を眺めると、それぞれが別の世界を持った惑星のようでもある。奇怪でありながら美しい作品だった。

《ロック2、4、6》では、色も形もばらばらで、一見すると互いに何の関係もなさそうな巨大なオブジェが、ビルディングのようにそびえ立っている。ところがその間を歩き、少し離れたところから全体を眺めてみると、不思議なことにそれらがひとまとまりになり、どこかに存在する奇妙な「イメージの都市」を形作っているように見えてきた。

《mAcHiNe E.L.F.》では、水晶を思わせる結晶状のオブジェが暗闇の中で怪しい光を放つ。私にはそれが鉱物というより、地下世界の奥深く、人知れずひっそりと息づいている「結晶生命体」のコロニーのように見えた。どうもアウスラーの作品を見ていると、目の前にあるものそのものより、その向こう側に存在する奇妙な世界を想像したくなってくる。
魔術とテクノロジーのあいだ

《星》では、巨大な星型の構造物の中にさまざまな映像が万華鏡のように次々と現れては消えていく。その一つ一つの映像――つまり無数の「事象」が、私には満天の夜空に瞬く星々のように見えた。巨大な星の内部に、さらにもう一つの宇宙が広がっているようでもある。

《ウィッカ》は魔女や魔術を題材とした作品なのだろうが、私にはむしろアバンギャルドなミュージシャンか、アメコミに登場するダークヒーローのように見えた。禍々しさより先に感じたのは、黒を基調とした「黒っぽい格好良さ」だった。今回の展覧会では、こうした魔術やオカルト、超常現象から心理学、メディア、顔認証、さらにはAIまで、一見すると互いに関係のなさそうなテーマが次々と現れる。しかしその根底には、「人間は何を見て、そこに何を見出し、何を信じるのか」というアウスラーの長年の関心が流れているようだ。

その意味で《C>o++》は、私には少し異質な作品だった。幾何学的な形がはっきりしており、その中心には眼と唇がくっきりと浮かび上がる。私にはそれが、光り輝く鉱物の破片の中に閉じ込められながら、自分が閉じ込められていることには気づかないまま微笑んでいる、美しい女性のように見えた。顔認識・顔認証という作品の背景を知った後では、「閉じ込められていることに気づかない」という自分の勝手な連想が、なんだか妙に不穏なものにも思えてくる。

逆に《穴から吊り上げられて》は、最後までよく分からなかった。壁面には映像が流れ、その手前の地面には白く光る穴が開いている。最初は「これは二つの別々の作品なのか?」と思った。一つの作品なのだとすれば、映像とこの穴を結びつけることで、どんな意味が現れるのだろう?しばらく考えてみたものの、結局答えは出なかった。しかし逆に、「なんだろう?」と足を止めて考え込んでしまったこと自体が、この作品について一番よく覚えていることだった。
ボウイを追って、アウスラーに出会った
こうして振り返ってみると、トニー・アウスラーの作品はずいぶん奇妙だ。眼球が惑星になり、バラバラのオブジェが都市になり、石ころのような物体がキモ可愛い生き物になり、水晶が地下世界に棲む生命体になる。身体を失った顔には哀しさを感じ、グロテスクな造形の中にも美しさや格好良さがある。
もちろん、そこには魔術、心理学、メディア、テクノロジーといったさまざまなテーマがある。しかし、そんな知識を持たずに見ても、ただの物体だったものが突然「何か」になり、そこに存在していないはずの生命や世界をこちらが勝手に見出してしまう。それこそが、私が今回アウスラーの作品に感じた一番の面白さだったのかもしれない。
そして、ここでもう一度《空》と「Where Are We Now?」を思い出す。あのグロテスクな顔を見たときに感じた、「不気味だけれど、それだけではない何か」。アウスラーの作品を一通り見た今なら、その感覚が少し分かるような気がする。私はデヴィッド・ボウイを追いかけて、この展覧会にやって来た。
しかし会場を出る頃には、トニー・アウスラーという、それまで名前すら知らなかったアーティストの作品世界にすっかり入り込んでいた。そして同時に、なぜデヴィッド・ボウイがこの男と長く仕事をしたのかも、少し分かったような気がした。






