デヴィッド・ボウイの映像の向こうにいた男――トニー・アウスラー展

TOKYO NODE GALLERY A/B/Cで開催中の「トニー・アウスラー:技術と霊知のはざま~魔術、メディア、アート~」を見てきた。……と言っても、実は私はそれまでトニー・アウスラーというアーティストの名前をまったく知らなかった。

では、なぜこの展覧会に足を運んだのか。きっかけはデヴィッド・ボウイだった。私は大のボウイ・ファンなのだが、展覧会の紹介写真を眺めていると、その中に見覚えのある作品があった。ボウイと作曲家グレン・ブランカが参加した《空(くう)》である。「あ、この作品を作ったのがトニー・アウスラーだったのか!」それならば見に行かないわけにはいかない。

ボウイとアウスラー――グロテスクなものの向こう側

《空(くう)》

《空》は2000年頃、アウスラーがボウイ、グレン・ブランカとともに進めていたプロジェクトをもとにした作品だ。巨大なオブジェにボウイの顔が投影され、歪み、変形しながら現れるその姿は、今回見たアウスラー作品の中でもかなりグロテスクな部類に入るように思えた。

しかしボウイ・ファンの私には、そのグロテスクさが不思議と「ボウイらしい」とも感じられる。ボウイは絵画も残しているが、正直なところ、私は彼の絵をそれほど「上手い」と思ったことはない。妙に歪んだ顔や、ごつごつした人体。そこには常に革新的で洗練されていた彼の音楽とはまた違う、奇妙なドロドロとしたものがある。

考えてみれば、『1. Outside』や「The Hearts Filthy Lesson」など、ボウイは決して美しいものばかりを好んできた人ではない。歪んだもの、異形のもの、美と醜の境界にあるものにも、繰り返し惹かれてきた。だから《空》も、アウスラーが一方的にボウイを自分の奇怪な世界へ引き込んだ作品というより、二人の美意識が出会った場所なのではないかと思う。

そして今回アウスラーについて調べて、もう一つ驚いた。『The Next Day』からの復活を告げた2013年の「Where Are We Now?」。二つの顔が一つになった奇妙な人形が登場する、あの忘れがたいPVを監督していたのもトニー・アウスラーだったのだ。


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初めてあのPVを見たときも、私は「グロテスクだけれど、それだけではない何かがあるぞ?」とざわざわしたものを感じながら、同時に「いかにもボウイらしい」と思ったことを覚えている。

さらに1997年の「Little Wonder」のPVにもアウスラーの作品が使われていると知り、久しぶりに見直してみた。すると、オブジェに投影された眼や口など、今なら一目で「これはアウスラーだ!」と分かる。つまり私は、今回初めてトニー・アウスラーを知ったつもりだったのだが、名前を知らなかっただけで、実はずっと以前から彼の作品世界を見ていたのである。


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映像に生命を与える

トニー・アウスラーは1957年ニューヨーク生まれ。映像をスクリーンの中だけに閉じ込めず、人形や球体、家具、建築物などに投影し、映像、彫刻、音響を融合させた作品で知られる現代美術家である。そんな彼の作品を実際に見て面白かったのは、無機物でしかないはずのものが、映像を投影された途端に「何か」に見え始めることだった。

《失われた時間》

《失われた時間》では、ひっくり返った椅子の下に肉体を失った頭部だけが残されている。それでもその顔は動き続け、懸命にこちらへ何かを語り掛けようとしている。その姿は不気味というより、むしろ物悲しい。何かを失ってしまったのに、それでも誰かとつながろうとしているような奇妙な喪失感を覚えた。

《カリカチュア》

一方、《カリカチュア》は楽しい。床に転がる奇妙なオブジェにはそれぞれ眼や口があり、一体一体が別々の架空の生き物として息づいているように見える。見た目は相当に奇妙なのに、眺めていると妙な愛嬌まで感じてくる。なんとも「キモ可愛い」のである。同じように物体に顔を与えながら、一方には喪失の哀しさを感じ、もう一方には生命の楽しさを感じる。この振幅の大きさもアウスラー作品の面白さなのだろう。

《塵》

最初に見たときは、空中に浮かぶ「雲」なのかと思った。しかしよく見ると、その表面には目や口が浮かび上がり、それらが絶えず蠢いている。そうして眺めているうちに、これは雲というより、空中に浮かぶ何か奇妙な生き物なのではないかと思えてきた。しかもその生き物は、言葉にならない言葉でこちらに何かを語り掛けてくる。現実の空間に存在しているはずなのに、まるで夢の中で遭遇したもののような、とても超現実的で不思議な作品だった。

惑星、都市、そして奇妙な世界

《スペキュラー》

《スペキュラー》では、暗闇の中に大小さまざまな球体が浮かび、その表面に巨大な眼が映し出される。「見ること/見られること」という視線をめぐる作品なのだろうが、私にはまず、色とりどりの惑星が暗い宇宙空間に浮かんでいるように見えた。近づけば巨大な眼球なのに、少し離れて空間全体を眺めると、それぞれが別の世界を持った惑星のようでもある。奇怪でありながら美しい作品だった。

《ロック2、4、6》

《ロック2、4、6》では、色も形もばらばらで、一見すると互いに何の関係もなさそうな巨大なオブジェが、ビルディングのようにそびえ立っている。ところがその間を歩き、少し離れたところから全体を眺めてみると、不思議なことにそれらがひとまとまりになり、どこかに存在する奇妙な「イメージの都市」を形作っているように見えてきた。

《mAcHiNe E.L.F.》

《mAcHiNe E.L.F.》では、水晶を思わせる結晶状のオブジェが暗闇の中で怪しい光を放つ。私にはそれが鉱物というより、地下世界の奥深く、人知れずひっそりと息づいている「結晶生命体」のコロニーのように見えた。どうもアウスラーの作品を見ていると、目の前にあるものそのものより、その向こう側に存在する奇妙な世界を想像したくなってくる。

魔術とテクノロジーのあいだ

《星》

《星》では、巨大な星型の構造物の中にさまざまな映像が万華鏡のように次々と現れては消えていく。その一つ一つの映像――つまり無数の「事象」が、私には満天の夜空に瞬く星々のように見えた。巨大な星の内部に、さらにもう一つの宇宙が広がっているようでもある。

《ウィッカ》

《ウィッカ》は魔女や魔術を題材とした作品なのだろうが、私にはむしろアバンギャルドなミュージシャンか、アメコミに登場するダークヒーローのように見えた。禍々しさより先に感じたのは、黒を基調とした「黒っぽい格好良さ」だった。今回の展覧会では、こうした魔術やオカルト、超常現象から心理学、メディア、顔認証、さらにはAIまで、一見すると互いに関係のなさそうなテーマが次々と現れる。しかしその根底には、「人間は何を見て、そこに何を見出し、何を信じるのか」というアウスラーの長年の関心が流れているようだ。

《C>o++》

その意味で《C>o++》は、私には少し異質な作品だった。幾何学的な形がはっきりしており、その中心には眼と唇がくっきりと浮かび上がる。私にはそれが、光り輝く鉱物の破片の中に閉じ込められながら、自分が閉じ込められていることには気づかないまま微笑んでいる、美しい女性のように見えた。顔認識・顔認証という作品の背景を知った後では、「閉じ込められていることに気づかない」という自分の勝手な連想が、なんだか妙に不穏なものにも思えてくる。

《穴から吊り上げられて》

逆に《穴から吊り上げられて》は、最後までよく分からなかった。壁面には映像が流れ、その手前の地面には白く光る穴が開いている。最初は「これは二つの別々の作品なのか?」と思った。一つの作品なのだとすれば、映像とこの穴を結びつけることで、どんな意味が現れるのだろう?しばらく考えてみたものの、結局答えは出なかった。しかし逆に、「なんだろう?」と足を止めて考え込んでしまったこと自体が、この作品について一番よく覚えていることだった。

ボウイを追って、アウスラーに出会った

こうして振り返ってみると、トニー・アウスラーの作品はずいぶん奇妙だ。眼球が惑星になり、バラバラのオブジェが都市になり、石ころのような物体がキモ可愛い生き物になり、水晶が地下世界に棲む生命体になる。身体を失った顔には哀しさを感じ、グロテスクな造形の中にも美しさや格好良さがある。

もちろん、そこには魔術、心理学、メディア、テクノロジーといったさまざまなテーマがある。しかし、そんな知識を持たずに見ても、ただの物体だったものが突然「何か」になり、そこに存在していないはずの生命や世界をこちらが勝手に見出してしまう。それこそが、私が今回アウスラーの作品に感じた一番の面白さだったのかもしれない。

そして、ここでもう一度《空》と「Where Are We Now?」を思い出す。あのグロテスクな顔を見たときに感じた、「不気味だけれど、それだけではない何か」。アウスラーの作品を一通り見た今なら、その感覚が少し分かるような気がする。私はデヴィッド・ボウイを追いかけて、この展覧会にやって来た。

しかし会場を出る頃には、トニー・アウスラーという、それまで名前すら知らなかったアーティストの作品世界にすっかり入り込んでいた。そして同時に、なぜデヴィッド・ボウイがこの男と長く仕事をしたのかも、少し分かったような気がした。

(図録と合わせ、あれこれグッズも買ってしまった!)

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映画『バックルームズ』――これは「世界のバグ」なのか? 不安が増殖する異空間ホラー

バックルームズ (監督:ケイン・パーソンズ 2026年アメリカ映画)

どこまでも続く奇妙な部屋と通路

世界の裏側に、誰も知らない「余った空間」がある。そこへ落ちてしまったら、もう二度と戻れない――。

『バックルームズ』については、実は元になった「バックルーム」というネット怪談の存在すら知らずに観た。2019年にネット掲示板4chanへ投稿された一枚の画像から始まり、多くの人々によって設定が付け加えられながら巨大なネット怪談へと成長したものらしい。そしてYouTubeで映像化して大きな注目を集めたケイン・パーソンズ自身が監督したのが、この長編映画版である。

現実世界の向こう側には、どこまでも続く奇妙な部屋と通路からなる異空間「バックルーム」が存在する。ひょんなことからそこへ迷い込んだ人々は、出口のない迷宮を彷徨うことになる。しかし、そこに存在するのは無人の部屋だけではなかった――。

「出られない」という恐怖

バックルームというものを知らなかった私が、この映画の評判を聞いてまず思い出したのは、マーク・Z・ダニエレブスキーの小説『紙葉の家』だった。外から測った寸法よりも内部のほうが広い家。その内部には、存在するはずのない巨大な暗黒の迷宮が広がっている。また、つげ義春の『外のふくらみ』も思い出した。どちらにも共通するのは、現実のすぐ向こう側に、私たちの知る物理法則が通用しない空間が存在しているという不安である。

私がこういう設定に惹かれるのは、「そこに何か恐ろしいものがいる」からではない。一度入ったら永遠に出られないことそのものが怖いのだ。ところが『バックルームズ』を観ていたら、本当に恐ろしいものまでいた(笑)。顔の造作がぐちゃぐちゃに歪んだ、人間のようで人間ではない怪物たちが徘徊し、迷い込んだ人間を容赦なく襲ってくる。「あ、こっちに舵を切ったホラーなのか」と驚いたのだが、これはむしろ巧いと思った。

考えてみれば、「出口のない異空間をひたすら彷徨う」だけでは、アイデアとしては抜群でも長編映画として物語を持続させるのは難しい。そこで怪物を投入し、ジャンプスケアや追跡劇によって静的な不安を動的な恐怖へ変える。後半をクリーチャーホラーとして盛り上げたのは、娯楽映画としてなかなかの努力賞である。ちなみにあの怪物たち、死ぬほど気持ち悪いのだが、フィギュアで出たらちょっと欲しい。

何でもない部屋が、なぜこんなに不気味なのか

しかし、この映画で本当に感心したのは怪物ではない。バックルームそのものだ。黄色い壁、蛍光灯、何もない部屋、どこへ続くのか分からない廊下。考えてみれば、画面に映っているものの大半はただの「部屋と通路」である。それなのに、次第にそれらすべてが得体の知れないものに見えてくる。

ここで思い出したのが、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』だった。あの映画に登場する「ゾーン」も、画面に映っているものだけを見れば草原や廃墟や水溜まりにすぎない。ところが「ここでは何が起こるか分からない」と観客に思わせることで、ただの草むらさえ、とんでもなく危険な場所に見えてくる。これは「怖いものを見せて怖がらせる」のとは正反対の演出だ。**なんでもないはずのものを、観客自身に「怖い」と思わせる。**観客の想像力にとことん訴えかけることで、不安を作り出すのである。

『バックルームズ』にも、この演出の冴えがある。廊下の角を曲がるだけで嫌な予感がする。扉を開けるだけで「開けないほうがいいんじゃないか」と思ってしまう。そして、いったいどこまで行けば終わるのかも分からない。だからこれは、「怖い映画」というよりも**「不安になる映画」**なのだと思う。


※ここから先は、物語後半およびラストについて触れています。未見の方はご注意ください。

 

バックルームは「世界のバグ」なのか

観ているうちに、私はバックルームを単純な「異次元世界」とは思えなくなってきた。

劇中では「記憶の残滓」といったことが語られ、終盤にはMRIに関係する企業や実験が、この異常な世界の発生に関与しているらしいことも示唆される。しかし映画は、それ以上のことを明確には説明しない。

ひょっとすると、何らかの科学的な作用によって空間そのものに「バグ」が発生したのではないか。部屋が部屋を生み、廊下が廊下へつながり、本来なら別々だった空間同士が融合する。それらは建築としての目的を失い、ただ無意味に増殖している。そう考えているうちに、私にはバックルームそのものが、癌細胞のように無目的な増殖を始めた空間に思えてきた。

ドアはある。しかし、どこかへ行くためのドアではない。廊下はある。しかし、目的地へ向かうための廊下ではない。部屋はある。しかし、何かをするための部屋ではない。そして、あの顔の歪んだ怪物たちも同じなのではないか。バックルームが人間の記憶の残滓を取り込み、「人間らしきもの」を不完全に再構築してしまった結果なのではないか。目も鼻も口もある。人間の顔を構成する部品は揃っている。しかし何かが決定的に間違っている。

まるで、この世界そのものが壊れた現実のコピーを作り続けているようなのだ。科学的な事故によって人間が触れてはいけないものに触れてしまった、という点ではスティーヴン・キングの『ミスト』も連想した。ただし、こういうホラーは「実は○○という実験によって次元の壁が……」などと全部説明してしまった瞬間、途端につまらなくなる。原因らしきものだけをちらりと見せ、肝心なところはモゴモゴしたまま終わる(笑)。『バックルームズ』は、それでいい。

助かった。でも、本当に?

人間ドラマについては、正直なところ「別に……」という感じだった。キウェテル・イジョフォーはドラマ『地球に落ちて来た男』で好印象だったし、本作でも存在感はある。ただ、彼がなぜ次第にバックルームへ魅せられ、そこに居続けたいと願うようになるのかは、鑑賞中には少々分かりにくかった。

もう一人の主人公であるセラピストの女性も、重要な役割を担っている割には印象が弱い。むしろイジョフォーの部下二人のほうが、私には強く印象に残った。このあたり、人間ドラマにはもう少し厚みがあってもよかったと思う。

それでも、映画全体としてはかなり面白かった。異次元世界を扱ったホラー自体は珍しくない。似たような設定だけなら、配信作品を探せばいくらでも見つかりそうだ。しかし『バックルームズ』には、「本当にこんな場所が現実の裏側に存在しているのではないか」と思わせるだけの映像的な説得力がある。チャチな異世界を作って見せるのではなく、なんでもない部屋と廊下だけで「ここは私たちの知っている世界ではない」と信じ込ませてしまう。その映像演出の力こそ、この映画の一番の魅力だったと思う。

何より、具象的な「怖いもの」で観客を脅かし続けるのではなく、正体の分からないモヤモヤした不安で引っ張っていくところがいい。そして、その不安はラストでも解消されない。助かった。――でも、本当に助かったのか?

バックルームの正体も、その全貌も分からない。この物語が終わったところで、あの世界そのものが消えたわけでもない。どこか別の場所で、今も部屋が部屋を生み、廊下が伸び、壊れた人間のようなものを作りながら、無目的な増殖を続けているのかもしれない。そう考えると、映画館を出たあと、いつもの廊下の角を曲がることさえ、ほんの少しだけ気味悪く思えてくる。

『バックルームズ』は、怪物を見せて「怖かった!」で終わるホラーではない。

自分が今いるこの世界は、本当に正常なのだろうか。

そんな答えの出ない不安を残したまま終わる。私はどうやら、こういうホラーがかなり好きらしい。


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アニャ・テイラー=ジョイ主演によるクライムスリラー・ドラマ『ラッキー』が最高に面白かった!

『ラッキー』(Apple TV+)(監督:ジョナサン・ヴァン・タレケンほか 2026年アメリカ作品)

逃げても逃げても追ってくる!

逃げろ、逃げろ、逃げろ。裏組織にも警察にも追われ、もう逃げ場なんてどこにもない。それでも、この女は最後の最後で必ず逃げ切る。

アニャ・テイラー=ジョイ演じるラッキーは、かつて詐欺師として生きていた女性。恋人と組んで裏組織の金を盗んだことから、二人は組織と警察の双方から追われる身となる。行く先々で他人を騙し、身分を偽り、危険な賭けにも出ながら逃亡を続けるラッキー。しかし、彼女が逃げているのは追っ手からだけではない。やがて物語は、彼女と父親との複雑な確執や、犯罪者の家庭に生まれた過去へと深く入り込んでいく。

アニャ・テイラー=ジョイ目当てで見始めたのだが、まさかここまで緊張感に満ちたドラマだとは思わなかった。小悪党のカップルが裏組織の金を奪ったことから、裏組織と警察の双方に追われるという設定だけでも十分面白いのだが、毎回もう逃げ切れないと思うほど紙一重のところまで追い詰められ、そこから間一髪で脱出する。この「追い詰められる→切り抜ける」の連続が実にスリリングで、最後まで飽きさせない。

しかも、ラッキーを追い詰める裏組織の女と警官の女が、どちらも実に個性的で憎たらしい。見ているうちに「もういいから、こいつらの最後に吠え面をかくところが見たい!」という、極めて単純な観客心理まで刺激されてしまう(笑)。この二人を演じる女優の存在感が強烈だからこそ、ラッキーを応援する気持ちにも一層熱が入るのだ。

犯罪者ではなく、サバイバー

ラッキーはれっきとした犯罪者であり、逃亡先でも生き延びるために人を騙す。もちろん褒められたことではない。しかし、彼女の過去や家庭環境が明らかになるにつれて、単なる犯罪者というより、過酷な人生をなんとか生き抜いてきたサバイバーに見えてくる。そうでもしなければ生き延びられないというギリギリの状況に置かれた彼女が、必死になって逃げ続ける姿には、どうしても共感してしまうのだ。

しかもラッキーは、ただ運がいいわけではない。窮地に追い込まれるたびに、とっさの判断と瞬発力で状況を読み、その場にあるものを利用して突破口を見つける。詐欺師として培ってきた、人を観察し、騙し、相手の心理を読む能力が、そのまま生存能力になっている。「ここからどうやって逃げるんだ?」と思っていると、こちらの予想を軽々と飛び越える手を繰り出してくる。そのクレバーさには毎回感嘆させられた。

もちろん、人を騙すことにほんのわずかな罪悪感を覗かせる場面もある。完全な悪人なら共感できないし、「本当は善人でした」という話にしてしまえば面白くない。悪いことをしている自覚はありながら、それでも生きるためにはやるしかない。その危うい境界線にラッキーを立たせているからこそ、彼女を応援してしまうのだ。

物語だけではない、抜群のセンス

そして、このドラマはストーリーだけでなく、作品全体のセンスが実にいい。音楽の使い方が抜群で、フィオナ・アップルをはじめとする選曲が、ラッキーの危うさや生々しさに妙にハマっている。オリジナル・スコアも追跡劇の緊張感をしっかり支えている。

マリッサ・ステイプリーの原作小説を大胆に映像化しながら、音楽や映像、キャスティングによって、単なる犯罪ドラマとは違う独特の雰囲気を作り上げているのだ。

そしてアニャ・テイラー=ジョイである。彼女の映画はこれまでもかなり見てきたが、この『ラッキー』は、ひょっとすると彼女の最高傑作になるのではないかと思った。フォトジェニックな美人女優である彼女が、ここではほとんどノーメイクのような顔で、汗や汚れにまみれ、傷だらけになり、満身創痍で逃げ続ける。単なる「美人女優が演じるヒロイン」ではないのだ。

『マッドマックス』のフュリオサのように全身を汚して骨太なアクションを見せる役もあったが、『ラッキー』で見せる彼女の生々しさは、それとはまた違う。美しさを武器にするのではなく、美人女優であることさえ忘れさせるほど、人間臭い一人の女としてラッキーを演じ切っている。その女優根性には感服した。しかも彼女自身が製作総指揮にも名を連ねているというから、この作品には彼女がやりたかったこともかなり反映されているのではないかと思う。

父親からの解放、そして「Lucky」

しかし、このドラマが単なる逃亡劇で終わらないところがさらにいい。物語の底には、ラッキーと父親との確執、愛憎、そして彼女の過去が深く絡み合っている。いかにもチンピラ風情の父親なのだが、そこには娘に対する愛情も確かに見える。この単純に善悪では割り切れない父親像が、ラッキーの人生を縛ってきたものの複雑さを際立たせている。

だからこそ、あのラストには大きな意味がある。ラッキーが最後に逃げ切ったのは、単に裏組織や警察からではない。犯罪者の家に生まれ、その父親に縛られてきた「自分自身の過去」から、ようやく解放されたのだと思う。逃走劇としてのカタルシスと、一人の女性が自分の人生を取り戻す物語としてのカタルシスが、最後に見事に重なる。

「Lucky」というタイトルも皮肉である。彼女は確かに何度も幸運に助けられる。しかし、詐欺師にとっての「ラッキー=幸運」とは、ただ運勢が良いということではない。善悪などお構いなしに、持てる能力と瞬発力と度胸を総動員して、自分の手で幸運をひねり出し、実現することなのだ。

アニャ・テイラー=ジョイが演じるラッキーは、まさにそんな女だった。そしてその姿を見終えたとき、私はこの作品そのものが、彼女の代表作の一つになるのではないかと思った。


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歳月を重ねた二人が届ける「今」の音楽/ペット・ショップ・ボーイズ 『ドリームワールド』

Dreamworld / Pet Shop Boys

シンプルになったステージ

Pet Shop Boysの『Dreamworld』は、彼らの「グレイテスト・ヒッツ・ライヴ」を収録したCD&Blu-rayアルバムである。全24曲、108分。デビュー以来のファンとしては「あの曲が入っていない!」という思いがないわけではないが、それにしたってPSBはそもそもヒット曲の宝庫なのだから、どこをどう選曲しても名コンサートになってしまう。オープニングから名曲が連打されて陶然とさせられ、中盤ではさらに深みを感じさせ、そして後半には大いなる感動の渦に包み込まれる。これだけのキャリアを持つユニットの「グレイテスト・ヒッツ・ライヴ」として、実に順当であり、そして強力な内容だと思う。

今回、まず印象的だったのは、これまでのPSBのライヴに比べてステージ演出がかなりシンプルになったことだ。PSBのライヴといえば、シアトリカルな演出を積極的に取り入れることで知られているが、それが時として少々ゴテゴテして見えたり、ライヴそのもののテンポを落としているように感じることもあった。

しかし今回は、その過剰だった部分がすっきりと削ぎ落とされている。巨大スクリーンや照明そのものは、今やPSBに限らず大規模ライヴなら十分に素晴らしいものが用意される時代で、突出した驚きがあるわけではない。それでもモノクロを基調としたシンプルでソリッドな舞台はPSBの音楽と実によく合っていて、余計なものがないぶん、歌と演奏そのものに集中することができた。

「背景」ではなく「バンド」として

そして今回、そのシンプルなステージだからこそ強く印象に残ったのが、ニールとクリス以外の三人のミュージシャンたちだった。

彼らは単なるバックの演奏者ではない。躍動感に満ちた演奏と、それぞれ個性のある衣装やキャラクターによって、きっちりと「バンド」の一員としてステージに存在している。人数が少ないからこそ一人ひとりへの注目度も高く、PSBが「二人のスターと背景のミュージシャン」という構図ではなく、ひとつのバンドとして見えてくるのが面白い。

なかでも特筆すべきは、日系ミュージシャンの内間くれあだ。素晴らしいキーボードプレイはもちろんだが、何より笑顔で演奏する姿に親しみを覚えた。そして、なんとステージ前面に出てきて、ニールとともに「とどかぬ思い」をデュエットするのである。ここは今回のライヴのハイライト中のハイライトだった。

これまでのPSBのライヴに感じていた「シアトリカルな演出」の魅力とは少し違う。今回はむしろ、演奏している人間そのものが見える。それによって、PSBの楽曲が持つ生命力がより直接的に伝わってくるように感じられた。

PSBと一緒に歳を取ってきた

そして、このライヴを観ているうちに、ふと自分自身のことを考えてしまった。

私はPSBのデビュー時からずっと彼らのファンで、現在もアルバムが出れば追いかけている。しかし、そんな私だってPSBの二人と同じように、やっぱりいい歳になった。

初期のPSBがシニカルでニヒルな音を出しまくっていた頃、私はそこに強く惹かれていた。彼らのシニカルさやニヒルさに共感しながら、そこにはきっと当時の自分自身のシニカルな部分やニヒルな部分も重なっていたのだと思う。

ところが、歳を取って少し落ち着いてくると、いつまでもシニカルだとかニヒルだとか言っていられなくなる。そんなことよりも、毎日の生活をきちんと生きていくことのほうが大事になってくる。

そう考えると、PSB自身もまた長い時間の中で変わってきた。『Introspective』の頃からその変化ははっきり感じられるようになり、その後もアルバムを出すたびに新しい方向を模索してきた。もちろん初期の作品ほどの輝きを持たないアルバムがないわけではない。しかし彼らは、過去の成功を繰り返すだけのユニットにはならなかった。今でも実にキャッチーなシングルを作り、精力的にツアーを続けている。

だから『Dreamworld』は、単に昔の名曲を懐メロとして再現するライヴではないのだと思う。長いキャリアを持ちながら、今も新しい音楽を作り、今を生きる自分たちの姿をファンに見せ続けている。その意味で、これは紛れもなく現在形のPSBなのだ。

最後に「Being Boring」

そして、このライヴで何より胸を打たれたのが、最後の一曲だった。24曲ものヒット曲を次から次へと繰り出してきたライヴのラストに置かれたのは、「Being Boring」。

この曲は1990年のアルバム『Behaviour』に収録された、PSBを代表するバラードのひとつだ。若い頃の友情や夢、そしてそこから長い年月を経て、大切な人を失い、自分自身も変わっていく。その「歳月を重ねること」そのものを歌ったような曲である。「僕たちは決して退屈じゃなかった」と歌われるこの曲は、若い頃のように刺激を求め続けるのではなく、人生を生きていくうちに人は変わっていく、という少しほろ苦い感慨が込められている。

だからこそ、ヒット曲を連発してきたこのライヴの最後に「Being Boring」が置かれたことには、特別な意味を感じてしまう。これはもう、PSBが自分たちのキャリアそのものを振り返ったうえで、最後にこの曲を持ってきたとしか思えない。

長い時間を生きてきた二人が、若かった頃の曲を現在の自分たちとして歌う。そして、それをデビュー以来PSBを聴き続けてきた自分が観ている。そう考えると、この曲は以前とはまったく違った重みを持って迫ってくる。

私は昔からこの曲が大好きだった。しかし今、このライヴの最後で聴くと、これまで以上に胸を締め付けるように響いてくる。それはたぶん、PSBが歳を取ったからだけではない。私自身もまた、彼らと一緒に歳を取ってきたからなのだろう。

『Dreamworld』を観終えて、私は改めて思った。これは過去のPSBを懐かしむためのライヴではない。過去から現在までの時間を、PSB自身と、そして彼らを聴き続けてきた私たちが一緒に振り返るライヴなのだ。そして、その長い旅の最後に「Being Boring」が流れる。それだけで、もう十分ではないか。


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『過ぎにし夏、マーズヒルで エリザベス・ハンド傑作選』を読んだ

過ぎにし夏、マーズヒルで エリザベス・ハンド傑作選 / エリザベス・ハンド (著), 市田 泉 (翻訳)

過ぎにし夏、マーズ・ヒルで エリザベス・ハンド傑作選 (創元海外SF叢書 16)

余命わずかな元博物館学芸員のために、幻の飛行機械の映像をもう一度この世に呼び戻そうとする友人たち。演劇一族に生まれた末娘と末息子が、屋敷の屋根裏でふいに出くわす不思議な気配。この短編集に並ぶのは、そうした「もう戻らないはずのものが、ふっと手に触れる瞬間」ばかりだ。ネビュラ賞と世界幻想文学大賞を総なめにした4編を収めた、不世出の抒情SF作家による珠玉選集。

死の影が忍び寄る夏の光の中で、失われかけたものが束の間よみがえる――ハンドの作品を貫くのはそんな瞬間の輝きだ。派手な仕掛けはひとつもない。ただ、風景と人物の内面をひたすら丁寧になぞるその筆致に、気づけば深く搦め取られている。読み終えたとき手元に残るのは結論めいた言葉ではなく、切なさと、うっすらとした光の余韻だけだ。

収録作は全て受賞歴のある強者揃い。

・「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」(ネビュラ賞中長編・世界幻想文学大賞中編受賞)
・「イリリア」(世界幻想文学大賞中編受賞)
・「エコー」(ネビュラ賞短編受賞)
・「マコーリーのベレロフォンの初飛行」(世界幻想文学大賞中編受賞)

エリザベス・ハンドは1957年米国生まれ。演劇と文化人類学を学び、スミソニアン航空宇宙博物館で働いた経験を持つという異色の経歴の持ち主だ。1988年デビュー、『冬長のまつり』で一躍注目を集めて以降、ネビュラ賞や世界幻想文学大賞を幾度も手にしてきた実力派である。メイン州沿岸を拠点に、文学的な深みと幻想を融合させた作品を書き続け、映画やドラマのノベライズも手がけている。

各作品を紹介したい。

「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」

16歳のムーニーは、病を抱えた母と共にメイン州のスピリチュアリスト・コミュニティ「マーズ・ヒル」を訪れ、HIV陽性の父を持つ親友ジェイソンとひと夏を過ごす。そこで彼らの前に姿を現すのは、「金色の者たち」と呼ばれる何か――癒しをもたらすとも、秘密を握っているとも言われる存在だ。死の予感と眩しい夏の日差しが交錯するその空気感がたまらない。コミュニティの静かなやりとりと「彼ら」の気配が、押し付けがましさなく、ふわりと物語に滑り込んでくる。ムーニーの成長と、ほとんど奇跡と呼びたくなるような小さな希望が、読後もしばらく胸に残る一編。ハンドの抒情がもっとも純度高く結晶した作品と言っていい。

「イリリア」

1970年代、演劇一族のいとこ同士であるマディとローガンは、誰にも言えない恋を静かに育てていた。学校公演の『十二夜』で二人の演技の才能が開花する瞬間は眩しいほどだが、その後歩む道の分かれ方が、彼らの人生を思わぬ形でねじ曲げていく。SFでもファンタジーでもない、青春の一場面をすくい取った文学寄りの作品だが、若さそのものをどこか魔法のように描くその手つきは、十分にファンタジー的でもある。描かれるのは輝かしい若さと、それを失ったあとにやってくる喪失感――だがその苦さこそが、ままならない人生の複雑さを静かに照らし出す。シェイクスピア『十二夜』の物語が作品自体とも巧みに響き合い、作者の芸術的教養の深さを窺わせる。160ページ余りという中篇の分量に、一組の男女のすれ違う人生がみっちりと描き込まれている。

「エコー」

大災厄のあとの孤島で、灰色の猟犬とともに暮らす女性が、遠く離れた恋人に宛ててメールを綴る。日々の孤独、ギリシャ悲劇の翻訳作業、そして失われた世界への想い――手紙という形式そのものが、彼女の孤独をいっそう際立たせる仕掛けになっている。短いながらも詩のような余韻を残す一編で、終末後の静けさと、それでも人とつながりたいという渇望が、深い内省と喪失の悲しみのなかに滲み出てくる。

「マコーリーのベレロフォンの初飛行」

余命わずかな元博物館学芸員マギーのために、旧友3人が彼女の思い描く幻の飛行機「ベレロフォン」の失われた映像を、なんとかもう一度この世に取り戻そうと奮闘する物語。エネルギッシュで、時にやかましいくらいの主人公たちの姿が愛おしい。幻の飛行機にまつわるどこかオカルト的な匂いも楽しいが、それを撮影するためにアメリカ大陸を走り抜けるロードノベルとしての痛快さもある。友情と想像力が結実してクライマックスに立ち上がるマジカルな瞬間は、ただただ美しい。作者自身の博物館勤務経験を活かしたディテールのリアリティも見逃せない。死を前にした人への贈り物として、これ以上ないほど希望に満ちた一作だ。

 

読み終えて脳裏に残るのは、ムーニーが見た金色の光、砂丘に影を落とすベレロフォンの翼――そういう一瞬のイメージだ。市田訳の自然な日本語に導かれるまま読み進めるうち、いつしかそれらの情景が、自分自身の夏の記憶や芸術体験と、静かに重なっていく。