キャリーとAKIRA風味の仮面ライダー/韓国超能力残虐アクション映画『The Witch/魔女-増殖-』

The Witch 魔女-増殖- (監督:パク・フンジョン 2022年韓国映画

謎の組織の呪われた実験により超能力人間兵器と化した少年少女たちが血塗れのバトルを展開する韓国アクション映画『The Witch/魔女』の続編、『The Witch/魔女-増殖-』です。今作では前作と違う少女を主人公とし、新たな物語が展開してゆきます。主演を新人シン・シアが務め、ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』のパク・ウンビン、ドラマ『ビッグマウス』のイ・ジョンソクが共演、前作で主演を演じたキム・ダミも登場するのでお楽しみに。監督は『新しき世界』のパク・フンジョンが前作から引き続き続投です。

【物語】秘密研究所アークが何者かに襲撃され、1人の少女が生き残る。彼女は遺伝子操作で最凶のアサシンを養成する「魔女プロジェクト」の実験体だった。初めて研究所の外に出た彼女は、心優しい牧場主の女性とその弟のもとに身を寄せ、人間らしい感情に目覚めていく。しかし魔女プロジェクトの創始者ペク総括は少女を危険視し、抹殺のため工作員を送り込む。さらにアークを壊滅させた超能力者集団や地元の犯罪組織も入り乱れ、激しい戦いが始まる。

The Witch 魔女 増殖 : 作品情報 - 映画.com

1作目の『The Witch/魔女』は数ある韓国アクションの中でも非常にユニークかつ完成度の高い作品で、オレも大のお気に入りです。遺伝子操作により超能力者に改造された主人公が組織から脱走し、その彼女を亡き者にせんと組織の刺客が次々に送り込まれるのです。一見ごく普通でお茶目な顔も見せる女子高生主人公が、敵の攻撃に遭えば突如非情な殺戮マシーンと化し、韓国映画ならではの大量の血飛沫が画面全てを覆い尽くす、というとんでもないギャップが1作目の独特な魅力でした。

さてこの第2作では1作目とは別の超能力少女の秘密研究所脱出から始まります。全身夥しい返り血を浴びた彼女の姿はいかに凄惨な戦闘と虐殺が巻き起こされたのかを伺わせます。そんな彼女をヤクザ組織に脅かされる女性が救いひと時の憩いを得るのですが、秘密組織に関わる二つの敵対勢力が彼女を追撃し、さらにヤクザ組織までが彼女をつけ狙います。こうして秘密組織を抜け出した少女と敵との血塗れの超能力対決が始まる!という訳です。言ってみれば『仮面ライダー』に『キャリー』と『AKIRA』が悪魔合体した物語という訳なんですね。

超能力合戦はあまりに高速過ぎてなにがどうなっているのかもはや分かりません。超能力戦闘映画史上最高のスピードと言っていい程で、マイケル・ベイ映画『トランスフォーマー』を超えるチカチカ具合に目が眩みますが、なにしろそれだけ凄い!という事なのでしょう。そして実際何だか分かんないけど凄い!と観ているこちらも思わされ、十分楽しめました。三つ巴・四つ巴ともなる戦いは実に賑やかなのですが、全体的な物語の流れが前作とほとんど一緒なのでテコ入れしたのでしょう。あとヤクザ組織は単純な「やられ要員」で、ある意味ショッカーの戦闘員みたいなものです。ヤクザ可哀そう。

今作では前作でのユーモラスなギャップが乏しかったのですが、主人公少女が驚異の大食漢という部分でちょっと救われています。なにしろ前作と同じ流れなので続編というよりもリメイク作のようにも思わされます。ただしこれは原題が『The Witch: Part 2 - The Other One』とあるように、「(前作とは)別のもう一人」を登場させ、3作目へと繋げる布陣としての2作目ということなのでしょう。そう、この『The Witch/魔女-増殖-』、終わっているようで終わっていないんです!3部作の2作目という部分で『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』みたいな微妙に中途半端な終わり方をしているんです!という事で多分製作される3作目を楽しみに待ちましょう!

『姫君を喰う話』と『味な旅 舌の旅』/宇能鴻一郎の著作を2冊読んだ

宇能鴻一郎の著作を2冊読んだ

宇能鴻一郎といえばいわゆる「官能小説家」という認識をしていたし、官能小説に興味が無いオレにとってはこの先読むことの無い作家だろうと思っていた。正直に言えば、今からすれば大変失礼だけれども、「単なるエロ小説家」程度に見ていた。しかし以前、どこかのウェブサイトでたまたま彼のインタビューを読み、その思いもよらぬ人間的魅力に感嘆してしまったのだ。オレは思った、「このおっさん、面白過ぎる……」と。

どう面白いのか、それはエピソード満載のインタビューを読んでもらうことにして、なにしろオレの「宇能鴻一郎=官能小説家」という固定観念が全て覆されてしまったのだ。いや、確かに優れた官能小説家であるのだろうが、このおっさんはそれだけの人物ではない、「只者ではない感」が圧倒的にしまくっていたのである。

こうなったら彼の著作を読むしかない。丁度「宇能鴻一郎リバイバル」の波が押し寄せていた時期だったようで、このインタビューもそれに合わせたものだったのだろうが、オレはそれに乗せられる形で2冊の著作を読んでみることにした。というわけでその2冊、『姫君を喰う話』と『味な旅 舌の旅』の感想を書いておこうと思う。

姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集/宇能鴻一郎

姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集 (新潮文庫)

煙と客が充満するモツ焼き屋で、隣の男が語り出した話とは……典雅きわまる戦慄の表題作。巨鯨と人間の命のやりとりを神話にまで高めた芥川賞受賞作「鯨神」、すらりとした小麦色の脚が意外な結末を呼ぶ「花魁小桜の足」、村に現れた女祈禱師が引き起こす異様な事件「西洋祈りの女」、倒錯の哀しみが詩情を湛える「ズロース挽歌」、石汁地蔵の奇怪な物語「リソペディオンの呪い」。宇能文学の精髄6編を選んだ。

短編集『姫君を喰う話』は宇野が官能小説家に転向する以前の1961~1970年に描かれた純文学作品6篇とエッセイ1篇が収録されている。そしてこの6篇の文学作が圧倒的だった。それらは「生の根源」を生々しくもまた迫真の筆致で描いていたのだ。そして宇野は「生の根源」を描くのと同時に「生」の原動力である「性の本質」へと果敢に分け入り、その官能と、その裏腹にあるアンモラルとを、臆することなく文章に叩き付けていた。

「性への希求」は誰にでもあり、恥じるべきものではないにせよ、人間社会においてそれは巧妙に隠匿され、あるいは象徴的に言い換えられ、あからさまにするのを忌避されている。しかしだからと言って人は自らの「性への希求」を決して否定することはできない。こうして人は欲情を持ちながら欲情をあからさまにできないアンビバレンツに置かれ、時にそのアンビバレンツの中で「欲情する自己」を歪められてしまう。いわゆる変態行為や性犯罪はその中で起こってしまうものなのだろう。

それらはアンモラルな行為として社会的に糾弾され断罪されることとなるが、宇野の作品があくまで注視するのは、アンモラルであることそのものではなく、そこへと至る「人の業」であり、そうせざるを得なくさせてしまう強力な「性の本質」だ。それは遡れば「生の根源」に肉薄しようとする作業であり、そしてそれが宇野小説の精髄となっているものなのだ。

例えば「姫君を喰う話」では場末のモツ焼き屋で卑猥に内臓肉を食らう男の描写が一転、中世日本における虚無僧と巫女との禁じられた恋と悲痛な結末へと変貌する。「花魁小桜の足」は江戸期長崎出島の隠れ切支丹である花魁が、磔刑の待つ異端審問において成したある行為を描く。「西洋祈りの女」ではひなびた寒村にやってきた都会的な装いの占い女が、野卑な村人たちの淫蕩な視線に曝され事件へと雪崩れ込んでゆく。「ズロース挽歌」は女学生のズロースに執着する男が至る忌まわしい犯罪と悲しい顛末の物語だ。「リソペディオンの呪い」は鍾乳洞のある村に生まれた小人の青年の物悲しくもまた数奇な運命が描かれることになる。

これらの物語に共通するのは先に描いた「性への希求」であり、そして「アンビバレンツの中で歪められた”欲情する自己”」である。それはアンモラルな行為であり、性犯罪そのものを描いてもいるが、だがしかし宇野が真に描こうとするのは、あくまでその根源にある「性と人間」なのだ。

その中で「鯨神」はまた一味違う、小説家・宇能鴻一郎の力量を余すところなく発揮した畢生の文学作だ。捕鯨で栄える九州の漁師村を舞台に、多くの村人を殺した巨鯨とその復讐に燃える村人たちとの確執と戦いを、圧倒的な情感と生々しい筆致で描いた壮絶なる作品である。いわば『白鯨』の日本版とでもいえる異様な情念に満ちた物語だが、宇野はそこに土俗の臭いを持ち込み、さらに神話的なるものへと昇華しているのだ。宇野が東京大学大学院在学中に書かれ芥川賞を受賞、さらに映画化もされた作品である。

味な旅 舌の旅 新版/宇能鴻一郎

味な旅 舌の旅 新版 (中公文庫)

芥川賞作家にして、官能小説の巨匠。唯一無二の作家・宇能鴻一郎が、日本各地の美味・珍味を堪能しつつ列島を縦断。喰いつき、口にふくみ、汁をすすり、飲み下す……食も官能も生命力の源。貪婪な食欲と精緻な舌で味わいつくす、滋味豊かな味覚風土記。新たにエッセイ「男の中の男は料理が上手」を収録。 〈巻末対談〉近藤サト宇能鴻一郎

さてこちら『味な旅 舌の旅』は「旅エッセイ」となる。日本交通公社(現・JTB)が刊行していた冊子『旅』に連載されていた紀行文をまとめたもので、筆者が様々な地方に旅し、その土地ならではの料理に舌鼓を打つという内容。文学短編集『姫君を喰う話』とはまた別の、軽妙洒脱で博覧強記な文章を楽しむことの出来るリラックスした1冊だ。

筆者が訪れる土地も北は北海道から南は奄美大島まで、東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州と、それはもう遍く足を運び、その土地の名所観光地を訪れ名物銘酒を余すところなく口に入れるという、至れり尽くせりの内容となっている。それもただ単に一般に名前の知れた名物というだけではなく、足を使ってこれはという店を自ら探し出し、地元の口コミで観光客向けでない店にまで訪れ、「美味いもの」にとことん執着してエッセイをしたためているのだ。

さらにこの筆者、美味いもの好きだけあって食に対する知識も豊富で、また相当の健啖家であり、文字通り朝から晩まで料理を食べまくり、毎回満腹感の幸福に呻きながら章を終えるのだから恐れ入る。その料理にしても、決して贅を尽くしたもの、珍しいものという訳ではなく、その地元ならではの、素朴で、さらに言えば量がたっぷりのものを好むというから好感度が高い。またエッセイでは、宇野センセならではの色っぽい出会いもちょっとだけ描かれていて、その辺がまた楽しかったりする。

ただし本書の元となる書籍が1968年の刊行であり、その後今回新版としてエッセイと対談が新たに収録されてはいるが、基本的に55年前の旅行記となるわけだから、ここで登場する旅館や店舗などの施設、さらにそこで行われたサービスや料金、供された料理なども、全て50年以上前の情報として読むべきだろう。とはいえ逆に、50年以上前の日本の観光地がどういうものであったかを眺めるといった読み方がまた楽しいといえるだろう(2021年に収録された近藤サトとの巻末対談によると、エッセイに登場する老舗の幾つかは未だ店を開き繁盛しているのだという)。

 

『シン・仮面ライダー デザインワークス』がとても充実していた

シン・仮面ライダー デザインワークス/企画:庵野秀明 監修:石森プロ、東映

シン・仮面ライダー デザインワークス ([バラエティ])

本書は、『シン・仮面ライダー』に登場する、仮面ライダーやオーグ等のキャラクター、サイクロン号をはじめ、小道具、衣装、美術セット、タイトルロゴ等主要アイテムのデザイン画、造形物、CGモデルなどの「仕事」を厳選して掲載。 これらの「デザイン」を鑑賞する画集・写真集であり、アイデアから姿形が定まるまでの「進化」の過程を追う記録集です。

主な収録内容 ・主要デザイナー、スタッフらによるデザインワークスを掲載。 出渕裕/前田真宏/山下いくと/柘植伊佐夫/林田裕至/白組/カラー・デジタル部/庵野秀明 ほか

映画『シン・仮面ライダー』はかなり好きな映画だ。庵野が関わってきた「シン・シリーズ」の中でも、監督での参加ということで庵野の拘りが最も顕著に顕れた作品だと思う。ストーリーやアクションに難があるという批評もあるが、その指摘はおそらく正しいのだとしても、オレがこの映画に求めていたのはそこではなくて、映画を観ている最中にそういった瑕疵は殆ど気にならなかった。オレが『シン・仮面ライダー』に求めていたもの、それはスクリーンに立ち現れるライダーの雄姿であり、それを含む「シン・仮面ライダー」という世界観だった。そしてその世界観は、多くはデザインの秀逸さ・面白さによるものが多かったと思っている。

『シン・仮面ライダー デザインワークス』は映画に登場するキャラクター、衣装・小道具などの膨大かつ多岐に渡るデザインを、その初期設定から始まり決定稿に至るまでの経過を含めて全て網羅したデザインワーク集である。仮面ライダーにしても敵オーグにしても最初の設定案を叩き台としながらそれぞれに異なる様々なデザインが並べられ、試行錯誤が繰り返され、非常に細やかな微調整と修正が成され、そして映画で見ることになる形へと決定されてゆく。その経緯を眺めるのは、監督である庵野がどう取捨選択しどういう理由において決定としたのか、その「庵野的オタク美意識の流れ」を読み解く、といった部分に於いても面白いのだ。

実はこうしてこのデザインワークを眺めていると、どのデザイン案も秀逸で、デザイナーたちの並々ならぬ才能が伺われるが、その中で何故このデザインは没だったのか、なぜこのデザインではなくてこれが決定稿となったのか、そういったことを考えながら眺めるのがとても面白い。いやオレだったらこっちのデザインだけどな!などと素人考えで首を傾げたりする。

実際、ライダーとサイクロン周辺のデザインは文句なしなのだが、こと敵オーグとなると、映画に登場したデザインはどれもごちゃごちゃとし過ぎではないか?クモオーグは完成されていると思うが、他の敵オーグは色彩とデザインがうるさ過ぎてあまり美しくないのだ。そういった不満をこのデザインワークにおけるデザインで確認してみると、決定したデザインはよかったとしても、映画画面の中で動かすと訳の分からないものとなってしまったと思えるのだ。こうして庵野のやりたかったこととできなかったことが分かってきたりもする。そういった部分でも面白い記録集だった。

 

『キル・ビル』の青葉屋の元となった西麻布権八に行ってきた

オレはタランティーノ映画が大好きで、タランティーノ映画のディスクを全部揃えて部屋のDVD棚の一番いい場所に並べてあるぐらいです。どれが一番好きかって言うと悩んじゃいますが、その中でも『キル・ビル』は特に好きな作品の一つですね。

その『キル・ビル』の「Vol.1」で、主人公であるザ・ブライドとオーレン石井率いるクレイジー88、そしてGOGO夕張が大立ち回りを演じる日本料理屋のシーンがありましたよね。この日本料理屋・青葉屋には実はモデルがあって、それはタランティーノが来日した際に訪れた西麻布の権八という店なんですね。

とはいえそんな事実を知ったのは実はついこの間なんですが、『キル・ビル』好きのオレとしては是非行ってみたい。そんな事を思いつつTwitterで「キルビルがー」とか呟いたらネットのお友達であるdoyさんがすぐさま反応し、「西麻布権八行きますか!」と電光石火のお誘いが来たんですよ。いやもうこれは渡りに船、早速予約を取ってもらい馳せ参じることと相成りました。

この日の参加はオレと相方さん、doyさんとdoyさんの愛娘の女子大生マーリーちゃん、そしてdoyさんのお友達で、Webサイト「Weekly Teinou 蜂 Woman」と「On-line SHOP はちみせ」を運営されている土屋アソビさんも来てくれることになりました。土屋さんとは初対面なのですが、実はオレ結構ファンだったものですから嬉しいやら緊張するやら。

という訳で西麻布権八です。まず入り口はこんな感じ。

そして中に入り二階に上がると、はい、これです!

おお、まさにザ・ブライドがクレイジー88を血祭りに上げていた青葉屋じゃないですか!?

「ヤッチマイナーッ!」

お店の入り口には様々な有名人の写真が飾られていましたが、もちろんその中にタランティーノの写真もありましたよ。客層は殆どが外国の方で、西麻布という土地柄もあるのでしょうが、いわゆる観光名所的なお店なのでしょうね。日本料理屋ではありますがポップ・ミュージックがガンガンにかかっており、さらにはよく分からないカラオケ?まで飛び出して、まさに『キル・ビル』らしい「怪しい日本」の雰囲気を醸し出していました!

料理は串焼きを中心に注文し、他に手打ち蕎麦やらなにやらを楽しみました。料理は十分美味しく、値段も割りとリーズナブルでした。ただし小さめのお皿で出てくるので、よく行くような居酒屋のつもりで注文するとちょっと少なく感じるかもしれません。

オレはこの日もビール三昧!特にわさびと緑茶のテイストを活かしたクラフトビール「わびさびジャパンペールエール」がとても美味しくて、ずっとこればかり飲んでましたね。

8時を回った頃に和太鼓の演奏が始まり、これも外国人観光客向けなのでしょうが、これはこれで楽しかったですよ。和太鼓演奏は10分ほどでした。

8時過ぎにお店を出て、もうちょっとダベろうかと六本木駅前の喫茶店に入り、ああだこうだと笑い話をしながら結局閉店の10時までいることに。それにしても、日曜の夜に10時過ぎまで六本木にいるなんてオレには前代未聞だったなあ!

その後みんなと解散して帰りの電車に乗りましたが、ちょっと酔っていたせいか電車を間違えてしまい、家に着いたのは結局12時過ぎでした……。

 

泥臭くあくまで身近に感じる存在感/映画『ワイルド・スピード/ファイヤーブースト』

ワイルド・スピード/ファイヤーブースト (監督:ルイ・ルテリエ 2023年アメリカ映画)

「車さえあれば不可能なことは何一つない!」というメガヒット・スーパーアクション映画『ワイルド・スピード』シリーズ第10弾、『ワイルド・スピード/ファイヤーブースト』である。なんと1作目から数えて22年目となるらしい。今回は特に内容に触れていないが、それはつまりだいたいいつも一緒なので特に触れるような内容もないという事である。気になるのであれば予告編を観るがよろし。そう、ああいう映画だ。

【物語】パートナーのレティと息子ブライアンと3人で静かに暮らしていたドミニク。しかし、そんな彼の前に、かつてブラジルで倒した麻薬王レイエスの息子ダンテが現れる。家族も未来も奪われたダンテは、12年もの間、復讐の炎を燃やし続けていたのだ。ダンテの陰謀により、ドミニクと仲間たち“ファミリー”の仲は引き裂かれ、散り散りになってしまう。さらにダンテは、ドミニクからすべてを奪うため、彼の愛するものへと矛先を向ける。

ワイルド・スピード ファイヤーブースト : 作品情報 - 映画.com

なにしろこの新作も良くも悪くもいつも通りである。物理法則無視のスーパーアクションがこれでもかとばかりに炸裂し、「こまけ―ことはいいんだよッ!」とばかりに御都合主義上等の物語が大手を振り、「なにしろファミリー!全てはファミリー!」とファミリーファミリー連呼しまくり、主人公ドムを演じるV・ディーゼルはシリアス演技をし損なって相変わらず木偶の坊風を吹かしている。ただし「良くも悪くも」と書いたように、それがワイスピなのであり、そういうもんだと思って開き直って楽しむべき作品でもあるのだ。ただ今回強力ネタバレ禁止事項があるから観たい人は早目に観た方がいいかも。

ただし「いつも通り」とはいえ、これまでのワイスピがそれぞれに「売り」とする部分があったものを、今作では「売り」に当たるものが存在しないように思えるかもしれない。ワイスピの「売り」となるもの、それは例えば『スカイミッション』なら「高層ビル突き抜けますよ」とか『アイスブレイク』なら「潜水艦と戦っちゃいますよ」とか『ジェットブレイク』なら「宇宙まで飛んじゃいますよ」という「売り」である。

しかしそういった強烈なビジュアル的な「売り」こそないが、もっと凄い「売り」が存在していた。それはこれが「ワイスピ最終章」に当たるという事である。最終章であり総決算であり全品棚卸しであり売り尽くしである。ただし大抵の紳士服店がそう言った謳い文句の後に廃業する事はないのと同様に注意が必要である。今作も最初「最終章は2部作」と言っていた所を最近になって「やっぱ3部作にするわ」とか言い出しているのだが、この調子で「最終章は全10作」とか「プリクエルとシークエルの予定あり」とか「各キャラのドラマ化決定」とかどっかの宇宙戦争映画みたいな事も言い出しかねないのでこれも注意が必要である。

ワイスピのアクションというのは凄い事は凄いんだが、その「凄さ」というのは他のアクション映画の「凄い」のと次元というかベクトルが違う。通常のアクション映画はありえないシチュエーションにギリギリのリアリティを付加してさもあり得るかのように撮るが、ワイスピはありえないシチュエーションを「普通だったら嘘クサイと思われるような事をなんの衒いもなくいけしゃあしゃあとやってしまう」ことへの驚き4割呆れ6割なのである。すなわちワイスピのアクションは「凄い」というより「呆れ返る」のであり、虚をつかれ茫然自失とさせられる事が特徴なのである。

ワイスピ映画に物理法則は存在しないかのようだが、物理法則が存在しないような映画なんてゴマンとあり、それら映画とワイスピの違う所は、ワイスピ以外の映画は物理法則を知りつつそこをうまく誤魔化して撮っている所を、ワイスピは最初から物理法則というものが何なのか全く知らないし知る気もないので、だからこそあれだけ堂々とバカな絵面のアクションが撮れるのである。ワイスピは深く考えて観ては駄目だが、それはそもそも何も考えていないものを深く考えて観る事が不毛であるという事である。

さて今作は2部作だか3部作の第1部となるらしいが、これは物語が濃密で複雑だからそれだけ長くなったのではないと思う。ワイスピの物語が複雑なわけが無いじゃないか馬鹿にすんなよあんた。これはファミリーとかいうのが大所帯になり過ぎて、それぞれに見せ場を作っていたらとてもじゃ無いが1作では足りないという事なのだろうと想像する。いや別にどうせやる事なんて毎度一緒なんだからそれぞれの見せ場なぞ作る必要も無いのだが、しかしファミリーファミリー連呼している物語でファミリーたちの活躍の場を作らないと示しが付かないのである。物理法則は知らなくても全く無問題のワイスピだが、ファミリーは決してお座なりに出来はしない、それがワイスピの魂であり誓いであり掟なのである。

しかしこうやって書けば書くほど「ホントひでえシナリオだなコレ」と思わされるが、そもそもワイスピはこの調子で10作作ってしまったのだから、今更そんな事を指摘しても遅きに失するのである。オレなんぞは最初から「低脳で俗悪な映画」だと思って愉快に観ていたから、この映画がどこにどう転ぼうと議論などする気は起きないのである。

それよりも面白いのは、この映画が他のアクションシリーズ、例えば『ミッション・インポッシブル』であったり『007』だったりと比べて、何作作ろうがまるで洗練されることが無くずっとファミリーだなんだと泥臭いことをやっているという点だ。むしろこの泥臭さが本当の「売り」であり、多くのファンを獲得し愛されていることの理由ではないかと思うのだ。人間誰しもがスマートさや洗練されたものを求めているわけではなく、むしろそういったものなど興味が無く、泥臭くあくまで身近に感じる存在感のほうが大切であるという事なのだ。

イーサン・ホークジェームズ・ボンドは架空のスーパーヒーローじみているが、車の運転がとても上手く危ないこともやってのけるが、いつもはその辺の一軒家に家族と楽しそうに暮らしいているドムはある意味近所のオッサン的な存在であり親近感を湧かせやすいキャラクターなのだ。オレの周りでも普段は映画の話なんぞはしないがワイスピとなると熱く語ってしまうオッサンやお兄ちゃんがいかに多いかという部分に於いて、ワイスピファンの裾野の広がりが分かるというものである。で、それでいいしそれに文句をつける筋合いはないというのがこのワイスピシリーズなのだ。