春暮康一のファーストコンタクトSF中編集『法治の獣』を読んだ

法治の獣/春暮康一

法治の獣 (ハヤカワ文庫JA)

惑星〈裁剣(ソード)〉には、あたかも罪と罰の概念を理解しているかのようにふるまう雄鹿に似た動物シエジーが生息する。近傍のスペースコロニー〈ソードⅡ〉は、人びとがシエジーの持つ自然法を手本とした法体系で暮らす社会実験場だった。この地でシエジーの研究をするアリスは、コロニーとシエジーをめぐる衝撃の事実を知り――戦慄の表題作に、ファーストコンタクトの光と影を描ききる傑作2篇を加えた、地球外生命SF中篇集

春暮康一によるSF作品集『法治の獣』は遠未来を舞台に宇宙に進出した人類と異星生命体とのファーストコンタクトを描く3作のSF中編が収められている。

「主観者」では一面を海で覆われた惑星で発見されたクラゲとイソギンチャクのキメラの如き生物「ルミナス」の群体を人類探査チームが調査することから始まる。海洋惑星におけるファーストコンタクトというとスタニスワフ・レム長編『ソラリスの陽のもとに』やグレッグ・イーガン短篇『ワンの絨毯』といった恐るべき傑作が存在するので作者も創作の際に敷居が高かったろうと思われるが、そこへ果敢に挑戦した意気込みをまず評価したい。ただ「ルミナス」の生態やその後の展開におけるある種の脆弱さがどうも生物としてのダイナミズムに欠けており、いかにも作り物めいたもののように思えてしまった。生物進化ってもっとカオティックなものなんじゃないのか。この探査行為での顛末が後のファーストコンタクト時の教訓とされたということだが、これも生真面目すぎるように思えたなあ。とはいえ全体的な完成度としては及第点だろう。

「法治の獣」は惑星「裁剣(ソード)」の孤立した火山島が舞台となる。ここに生息する額に2本の刃を生やしたガゼルに似た生物「シエジー」は知性を持たないにも関わらず非常に複雑な「法(ルール)」を持ちそれに従って生活していた。生物学者アリスは「シエジー」のこうした謎を解明しようとする、というのが大まかな物語。う~んこれもなあ、作者は「動物の”習性”以上の行動律を持つもの」として「シエジー」を創造したようだが、読んでいて「それは単にとてもとても複雑なだけの習性でしかないんじゃないの?」としか思えなかったし、「知性をもたない」という設定ではあるがではなにをもって知性と呼ぶのか、そもそも「複雑な習性」を持つこと自体も知性なんじゃないのか、などいろいろと疑問が湧いて楽しめなかった。物語に登場する「シエジーの”法”を人間社会に応用しようとするカルト集団」なるものも「普通にアホちゃうのこの人たち?」としか思えず、全体的に「考えすぎ」な物語に思えた。

「方舟は荒野を渡る」で登場するのは惑星オローリンに唯一生息する直径100m厚さ20mの巨大パンケーキ型の生命「方舟」。しかもこの「方舟」、複雑な昼夜変化を成す荒野の惑星を昼面を求めてあたかもナビゲートシステムでも持っているかのように時速5キロで移動しているのだ。さらに発覚した「方舟」内部の正体がこれまた想像をはるかに上回るものだった。まずこのとんでもない生命体を考え付いたことでこの作品は大成功だと言えるだろう。有り得ないような大法螺をまことしやかにつくのがSFの醍醐味だとオレは勝手に思っているが、この作品などその真骨頂だ。堀晃が引き合いに出される作者だが、この作品に関してはむしろ石原藤夫を思い出してしまった。語り口調こそシリアスだが、このままユーモアSFにしても問題のない楽しさといい意味での馬鹿馬鹿しさがこの作品にはある(というかここまでの2作はどうも語り口調が固くて余裕が感じられなかったんだよなあ)。またこの作品はファーストコンタクト達成の後にさらに2発目3発目の大ネタを追加してきており、ファーストコンタクト・テーマSFとして相当に野心的なことを遣り遂げているといえるだろう。この作品の出来の良さが作品集全体のクオリティを底上げしていた。

 

蛮族!蛮人!バンバラバンバンバン!/映画『ノースマン 導かれし復讐者』

ノースマン 導かれし復讐者 (監督:ロバート・エガース 2022年アメリカ映画)

蛮人さんが行く!

血!殺戮!破壊!蛮族の蛮人が蛮行をはたらく!映画『ノースマン 導かれし復讐者』は9世紀の北欧地方を舞台に、父である王を殺された男が復讐を誓い、バイキングとなって宿敵を討ちに行く!という物語です。主演・製作をアレクサンダー・スカルスガルド、共演としてアニヤ・テイラー=ジョイ、ニコール・キッドマンウィレム・デフォーイーサン・ホークビョークという豪華キャストが脇を固めます。監督は『ウィッチ』『ライトハウス』の鬼才ロバート・エガース。

9世紀、スカンジナビア地域のとある島国。10歳のアムレートは父オーヴァンディル王を叔父フィヨルニルに殺され、母グートルン王妃も連れ去られてしまう。たった1人で祖国を脱出したアムレートは、父の復讐と母の救出を心に誓う。数年後、アムレートは東ヨーロッパ各地で略奪を繰り返すバイキングの一員となっていた。預言者との出会いによって己の使命を思い出した彼は、宿敵フィヨルニルがアイスランドで農場を営んでいることを知り、奴隷に変装してアイスランドへ向かう。ノースマン 導かれし復讐者 : 作品情報 - 映画.com

復讐を誓い血塗られた道を歩む主人公!

映画は冒頭から血生臭さ炸裂です。父王の暗殺から始まる物語は生き延びた息子がバイキングとなり村々を略奪してゆく描写へと受け継がれてゆきます。成長した主人公アムレートはプロレスラーの肉体とヘヴィメタルな相貌を兼ね備えた凶悪な狂戦士として育ち、その情け容赦ない殺戮描写はあたかも古代にタイムスリップしたマッドマックス世界の如き無情の世界を眼前に表出させます。泥濘と曇天に覆われた陰鬱な荒野といった北欧地方のロケーションが物語の殺伐さをいやがうえにも高めてゆくんですね。

そして古代北欧といえば北欧神話。オーディーンやヴァルキリー、ヴァルハラなんていう北欧神話の固有名詞が飛び交い、呪術的な儀式が描かれ、預言と神託が語られ、戦士の亡霊が剣を振り、イグドラシルを思わせる血の家系図が幻想シーンに登場します。これら現世と常世が混然一体となり、人間界と神域が地続きになった神話的な世界観がこの作品のもう一つの見所です。主人公アムレートは預言に導かれ父の仇の元へと辿り着き、大鴉の助けを借りて危機を乗り越えるんです。

そして神話の世界へ

こういった神話的世界観は去年観た『グリーン・ナイト』に通じるものを感じましたが、『グリーン・ナイト』のアーサー王伝説にしろこの『ノースマン 導かれし復讐者』の北欧神話にしろ「なぜ今神話なんだろう?」という気がちょっとします(まあたまたま重なっただけだとは思いますが)。現代において社会や世界が複雑化し、人々の生活や思考も多様化してゆく中で、それを描く物語もまた複雑化し多様化しています。しかしそれ自体は現代という時代を映す鏡ではあっても、どこか歯に物が挟まったような、「物語」としてなにかすっきりしないものを覚えるんですよ。そこでもう一度「物語」の原初に立ち返ろうとする態度、それが『グリーン・ナイト』やこの『ノースマン 導かれし復讐者』が作られた背景にあるんじゃないでしょうか。

映画としてはまず配役の誰もが素晴らしくて非常に魅せられました。特にアニヤ・テイラー=ジョイはアニヤ・テイラー=ジョイ史上最高のアニヤ・テイラー=ジョイだったんじゃないでしょうか。物語的には中盤から停滞を見せ錯綜し始めるのですが、この辺りはロバート・エガース監督の前作『ライトハウス』に見られた出口のない暗黒展開と似た閉塞感を感じさせました。その閉塞を(キリスト教ではない)異教の信仰が突き破っていくのは、これはエガース監督の第1作『ウイッチ』に通じていたのではないでしょうか。

あれこれ

……とまあ以上はいつものインチキ臭い映画感想文ですが、パンフレットを読んだら非常に沢山の示唆に富んだ事例が書かれていて目から鱗でした。本作は綿密な時代考証に基づいたバイキングの姿を描いている事。物語はシェイクスピア悲劇『ハムレット』を下敷きにしていますが、そもそも主人公アムレートはデンマークの伝説上の人物であり、それ自体が実は『ハムレット』の着想の元であった事。北欧神話を基にしたR・E・ハワードによるヒロイック・ファンタジー小説『英雄コナン』シリーズとの共通点がある事。ビョークってどこに出てたの?と思ったら貝殻で目隠しした妖しい預言者役だった事などなど。以上、これから鑑賞される方はご参考にされてください。

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京極夏彦の「書楼弔堂」シリーズ第3弾『書楼弔堂 待宵』を読んだ

書楼弔堂 待宵 / 京極夏彦

書楼弔堂 待宵 (集英社文芸単行本)

舞台は明治30年代後半。鄙びた甘酒屋を営む弥蔵のところに馴染み客の利吉がやって来て、坂下の鰻屋徳富蘇峰が居て本屋を探しているという。 なんでも、甘酒屋のある坂を上った先に、古今東西のあらゆる本が揃うと評判の書舗があるらしい。その名は “書楼弔堂(しょろうとむらいどう)”。 思想の変節を非難された徳富蘇峰、探偵小説を書く以前の岡本綺堂、学生時代の竹久夢二……。そこには、迷える者達が、己の一冊を求め“探書”に訪れる。

京極夏彦の「書楼弔堂」シリーズは『書楼弔堂 破暁』『書楼弔堂 炎昼』と続き最新刊であるこの『書楼弔堂 待宵』で3巻目となる。時代はそれぞれ明治20年代半ば、30年代、この『待宵』が日露戦争間近い30年代後半。舞台となるのは東京の外れ、雑木林と荒れ地ばかりの小山の上に忽然と建つ異界じみた書店「書楼弔堂」。

その書店には古今東西のあらゆる書籍が売られており、その本を読むべき者を待っているのだという。そしてそこを訪れるのは明治という時代を飾った、あるいはこれから飾るであろう著名な者たちだった。例えばこの『待宵』で登場するのは竹久夢二岡本綺堂寺田寅彦など。彼らは物語の時間軸においては既に名を成す者であったりまだ名も無き者であったりする。

こうした構成の中で描かれるのは、彼ら後年の著名人たちの内面に肉薄する物語である。眷属した僧侶であるという「書楼弔堂」店主は登場人物との対話を通して彼らの深層心理にあるもの、求めていながらまだ気づいていない”何か”を探り出す。こうした物語から導き出されるのは「明治」という時代を彼らがどう生き、何を懇願し、どのような悲しみを抱えていたのかということだ。そしてそれは、「明治」という時代そのものを浮き彫りにしようとする試みでもある。

あたかも楼閣のように建つ「書楼弔堂」の内部は吹き抜けとなった階層上の書庫となっており、まるでボルヘスの「バベルの図書館」を思わせるものがあるが、案外京極自身の膨大な蔵書量を誇る書斎それ自体がイマジネーションの元となっているのかもしれない。書店が主要舞台となるこの物語は実は「本」それ自体をテーマにした物語でもあり、そして「本を読む人」を描いた物語でもあると言えるのだ。

とはいえこの作品の面白さはそこだけではない。各巻には書物を求めるものを「書楼弔堂」へと誘う狂言回し的な人物が主人公として登場するが、その主人公らが「書楼弔堂」店主と登場人物との対話に立ち会いながら、そこに己の立ち位置を見出してゆく過程が物語全体の大枠として存在しているのだ。例えばこの『待宵』では甘酒屋を営むひねくれ者の老人が主人公として登場する。

ただその老人・弥蔵は人に明かせぬ熾烈な過去とその過去の所業によるルサンチマンを抱えた男だった。そして弥蔵の驚愕の正体が明かされるラストにおいて、物語は恐るべき悲痛のドラマとして疾走し始めるのである。このほとばしるような情感の様は『巷説百物語』などにも通じる京極一流の人情噺だ。それは魍魎のように江戸を生き改革の明治に馴染めぬ男の、まさに「時代の仇花」となった者の悲しみである。維新とはなんだったのか、新しい世の中はそれは正しい世の中なのか。それは時代を経て令和という現代に生きる我々への問い掛けでもあるのだ。

インド系アメリカ人作家の描く仏教/ヒンドゥー教的なSFストーリー『マシンフッド宣言』

マシンフッド宣言 (上)(下)/S・B・ディヴィヤ(著)、金子浩 (訳)

マシンフッド宣言 上 マシンフッドセンゲン (ハヤカワ文庫SF) マシンフッド宣言 下 マシンフッドセンゲン (ハヤカワ文庫SF)

21世紀末、AIソフトウェアに仕事を奪われた人間は心身の強化薬剤を摂取し、労働は高度専門職か安い請け負い仕事に二極化した。大富豪のピル資金提供者を警護する元海兵隊特殊部隊員のウェルガは、ある日襲われクライアントを殺害される。敵は〈機械は同胞〉と名乗り、機械知性の権利と人間のピル使用停止を要求する宣言文を公表。ウェルガは独自の調査を開始する――近未来技術をリアルに描くハード・サスペンスSF!

S・B・ディヴィヤによるSF長編『マシンフッド宣言』は「機械知性の権利」を訴える謎の勢力〈機械は同胞〉のテロ行為によって壊滅的な打撃を受けた世界と、〈機械は同胞〉の正体を暴きテロ行為を阻止するために戦う元海兵隊特殊部隊員のウェルガとの物語である。この粗筋だけだと単純なアクションSF、「AIの叛乱」というありふれたテーマを扱う作品と思われそうだが実はそうではない。物語はもっと複雑でありユニークであり、さらに後半に行くほど哲学的な含意を見せる作品なのだ。

まず面白いのは世界観だ。ポストサイバーパンク的な近未来を描きつつも、この世界で生きる人々はサイバーな肉体改造を全く行っておらず、主人公のような戦士であってもそれは微々たるものだ。この物語世界では「肉体改造」が忌避されているのだ。その代わり行われているのがデザイナーズ・ピルによる心身の強化、病気や怪我の早期回復だ。主人公ウェルガもピルによりずば抜けた知覚力身体力を発揮し、凄まじい戦闘力を見せつける。

もうひとつ面白いのは謎の勢力〈機械は同胞〉の正体がなかなか分からない、それがAIなのかどうかも実ははっきりしないという展開だ。単純に「AIの叛乱」ならばAI制御された地球の全システムを停止するなり暴走させるなりすれば人類など簡単に壊滅状態に追い込めそうなものだが、〈機械は同胞〉のテロ行動は世界中の通信インフラを止めた程度で(それでも大被害だが)、人類の排除ではなくあくまで要求の受託を求めるのである。しかも〈機械は同胞〉はピルの禁止をも訴えている。それはなぜか?というミステリーで物語に引き込んでゆくのだ。

もうひとつはこれが「強烈な家族の物語」であるといった点だ。家族の光景を味付けにするSF作品は多いだろうが、この『マシンフッド宣言』は味付けではなくもっと主軸となっているのだ。主人公ウェルガと共にもう一人の主人公となるのは彼女の妹で遺伝子工学者のニテイヤだ。ニテイヤはウェルガのため陰になり日向になり協力するが、同時に描かれるのは彼女の家族と家族への葛藤を巡るドラマなのだ。ニテイヤに限らずウェルガの家族はウェルガに協力を惜しまず、またウェルガの精神的支柱ともなっている。そしてこういった人間模様、描かれる感情の機微が物語を深いものにしている。

作者であるS・B・ディヴィヤはインド系アメリカ人だが、物語の端々にインド的な視点・感性を感じる部分も面白い。インド系SF作家やインドが舞台のSFというのもそれほど多くないのではないか。主人公ウェルガもインド系アメリカ人であり、ニテイヤにしても南部インド在住のインド人で、近未来インドの日常風景が描かれもする。物語もアメリカの扱いがぞんざいで、一方中国・インド同盟などという現状では考えられない政治構造になっている部分もニヤリとさせられる。家族主義的な物語構成もインド的だと言えるだろう。

インド的という部分で言うなら、この物語には仏教とヒンドゥー教的視点が加味されている(ただしインドでは仏教人口は相当に少ない)。仏教的というのは「不殺」が物語のひとつの切っ掛けになっている部分であり、物語の核心にも仏教が強力な影響を与えている。ヒンドゥー教的というのは主人公ウェルガの行動原理だ。彼女の強力な意志力は「己の成すべきことを成す」という信条により形成されるが、これはヒンドゥー教聖典『バガヴァット・ギーター』の根幹を成す教えなのだ。一見意固地なほどのウェルガの行動はこの『バガヴァット・ギーター』に裏打ちされているのと思えるのだ。

『マンガ家・つげ義春と調布』展に行ってきた

この間の土曜日は「調布市文化会館たづくり」で開催されていた『マンガ家・つげ義春と調布』展に行ってきました。

東京暮らしも長いですが調布に足を踏み入れたのはこれが初めて。新宿から京王線に乗って京王調布駅で下車しましたが、そもそも京王線に乗るのも初めてか1、2回ほどしかないかもしれません。去年から美術展などであちこち出歩くようになりましたが、知らない街に行くことも結構多くて楽しいですね。しかし調布……何かが引っ掛かるな、と思ったら、そう、斎藤潤一郎のエクストリーム・ビザール・コミック『死都調布』じゃないですか!?

さてつげ義春。あえて説明するまでもなく、日本コミック界における最重要人物の一人であり、その影響力は計り知れないものがあるでしょう。このオレも大のファンで、刊行されている幾つもの作品集を何度も読み返しています。『ねじ式』『ゲンセンカン主人』といった初期のシュールな味わいの作品も素晴らしいですが、ひなびた温泉宿を描く『リアリズムの宿』などの旅漫画や、後期の『石を売る』『無能の人』といった非常に枯れた世捨て人的な世界もまた記憶に強く残っています。現在85歳で残念ながら休筆されていますが、2020年にはアングレーム国際漫画祭で当為別栄誉賞を受賞するなど、世界的な評価は止まるところを知りません。

今回行った『マンガ家・つげ義春と調布』展では、調布に長く住むつげ義春が、どのような形で調布を描いてきたかを展示しています。

《展覧会概要》つげ義春氏は、50年以上調布市に居を構え、数々の名作を世に送り出しているマンガ家であり随筆家です。その作品は、現在も世代を超えて漫画界だけでなく、幅広い芸術分野から高く評価され、国際的にも注目を浴びています。  本展では、複製原画や写真などで、作品に描かれた調布の風景、ご家族との暮らし、映画化された作品についてご紹介します。

「マンガ家・つげ義春と調布」展の開催 | 調布市

展示自体はギャラリーを二部屋ほど使った小さなものでしたが(そもそも無料ですし)、こじんまりした中にもつげ義春と調布との密接な関係を詳らかにした誠意あるキュレーションとなっていました。

展示場入り口では『ねじ式』のあの面妖な少年が出迎えてくれます。

「医者はどこだ!」

展示会ではつげ義春がこれまで掲載した古い書籍や年表、つげ漫画に登場する調布と実際のロケーション写真との対比、また妻であった藤原マキの描いた絵本などが展示されていましたが、やはりなにより目を奪ったのは生原稿の展示ですね。作品数こそ多くはないのですが、あの『ねじ式』の生原稿まで展示されていました。いやあ、この年になってつげ義春の生原稿を見ることができるだなんて僥倖です。

そしてこうして実際に目にしてみると、一見素朴なタッチながら、つげの描く絵はやはり上手い。人物のデフォルメこそありますが、背景画はフォトリアリズムに近いものを感じる。この辺りはつげがアシスタントを担当したことのある水木しげると共通するものを感じますね。展示会ではそんなつげの使用していた画材も展示されており、これだけ写真撮影OKだったので撮影しておきました。

つげの描く昭和の情景は、高度経済成長とはまるで無関係な、貧困の臭いのする侘しく寂しい情景です。ただその情景は、オレの記憶の底にある、子供の頃に見た昭和のそれと微妙に繋がっているんですよ。つげ漫画に登場する貧乏人たちや彼らの住む貧乏長屋はオレの子供時代にもあったし、そのつましい暮らしぶりも自分が体験したものと同等でした。それらを懐かしさではなく、ただ拭いようもなくそこにあった、そのように生きていたという記憶が、つげ漫画を読むときにオレの脳裏に蘇ってくるんです。