最近読んだコミックあれこれ

あたしゃ川尻こだまだよ (1) /  川尻 こだま

ジャンクフード一直線!油脂や糖分や塩分の量を一切考えることなく己の食欲の命ずるままにただれきった痛快自滅型人生を爆走する河童風女子を描くコミック第1弾である。もともとTwitterでの投稿漫画が超人気となり書籍化の運びとなったものだが多分全て新作、オールカラー、上質紙に可愛らしい変形判型と可愛らしい装丁、一口コラムとパラパラ漫画付き、さらにこだまレシピで実際に作った料理写真まで掲載、なんかもう時代の寵児というか時代が呼んでいるというか待っていたというか、ただ「だらしなく食べる」ことだけにクローズアップさせたミニマルな構成がこのコロナ時代に希望をもたらしたというか(根拠のない思いつき)、いや川尻こだまさん、キてるわ、キまくりだわ、もうあなたの時代で間違いない、このままジャンクで突っ走っくれ!と思ってたらクライマックスに恐怖に満ちた「はじめての健康診断」、心臓バクバクモノの川尻さんを待つ明日はどっちだ!?

第四集: 「チャーシュー麺ダイエット」他 川尻こだまのただれた生活 川尻こだま

その川尻さんのweb掲載漫画をアマゾンが無料で電子書籍化したものの第4弾でなにしろ無料だからみんな第1集からつつがなく読むといいのだわ。

カムヤライド (6) / 久 正人

最初は日本古代史で特撮ヒーロー展開したいのねえフーンと思いつつ読んでいたのだが巻を追うごとに強力な敵の存在や謎めいた主人公の出自などが明らかになるにつれどんどんと凄みが増し、そりゃあ久正人なんだから凄いに決まってんじゃん!とちょいとナメてた自分を反省した。この巻でもアクションがいいし謎解明の展開がいいしなによりモンスターやヒーローのデザインがいい。これもまたいい作品だなあ。

死都調布 ミステリーアメリカ / 斎藤潤一郎 

アバンギャルドコミック『死都調布』の第3弾はもはや調布と関係なく(もとからか)、アメリカを放浪する野獣の如きランボー女・シトウチヨ(常に全裸のレズビアン)がゾンビ禍に見舞われた幻想の死都アメリカを地獄巡りするという物語である。前巻もなんかそんな話だったが繋がりは(多分)ない。この巻の特色は『テルマ&ルイーズ』『ミステリー・トレイン』といった沢山のハリウッド作品にインスパイアされあるいはオマージュが捧げられ展開するといった点で、その分前作よりは分かり易くなっていた。

貼りまわれ!こいぬ (2) / うかうか

「シールを貼る」という謎の職業に就くあわて者のこいぬが主人公の不思議漫画である。シュールというほど飛び抜けてはいないがほのぼのというほど安穏としていない。あえて言うなら深層心理にある無意識的ななにかぐちゃぐちゃしたものがこいぬという一見可愛らしい外見を得ながら不条理な世界と対峙している、ということだろうか。まあなんか変、なんであるが、その変さがいいのである。

映像研には手を出すな! (6)  / 大童 澄瞳

各所で絶賛の映像研ではあるがオレはなんだか飽きちゃったな―、というのは主人公らが追い求めるのは優れた(よく動く)アニメーションではあるのだけれどもそのアニメーションが訴えるべき優れた物語には言及されないというか、アニメーションありきであって語るべき物語が存在しないってのはアニメーションの抱える問題と直結しているように思えるんだが、そんな物語は技法が確立した後から付いてくるものなのだろうか。

いとしのムーコ(17) / みずしな孝之

いとしのムーコ』、この巻で完結。お話が終わる、というよりもある事で一区切りつけました、という終わり方で、この物語世界では主人公こまつさんとムーコと彼らを取り巻く多くの人はまだまだずっと生き続けているのだろうな、という気がしてならない。この作品は柴犬のムーコを中心とした「幸福」についての物語だったのだな、と思うのと同時に、全17巻のコミックの中にその幸福が永遠に焼き付けられているかのようにすら感じてしまった。北海道の人里離れたガラス工房、というミニマルな世界が舞台で、この世界で全てが完結しているかのようにすら見えることも、どこか俗世と切り離された桃源郷のような味わいをもたらしていたんだろう。みずしな先生、ご苦労様でした。というかこの巻が1年前に出ていたことを今頃知って慌てて購入した……。

春風のスネグラチカ / 沙村広明

沙村が2013~2014年に執筆したこのコミックは革命直後のロシアを舞台にしたものとなる。なんにも知らず沙村だからってんで読み始めたが、まあ沙村の事だから救いのない陰惨な話を嬉々として描いた変態漫画なんだろうなあとタカをくくっていたが、確かに陰惨な空気はあるにせよ(というか沙村はギャグ漫画描いても陰惨だし)、これが結構、いやかなり格調が高くレベルも高くて驚いた。車椅子の姉と隻眼で病弱な弟(そしてどう見ても姉弟に見えない)、という謎めいた主人公二人が、革命ロシアの接収された貴族別荘でなにかを探している……という物語なのだが、スターリン元首による恐怖政治が横行するおぞましい社会で、そこで徐々に明らかになってゆく主人公の目的と正体には驚愕させられた。これだけでミステリ小説1冊出来上がるほどの重量感と完成度があるではないか。沙村ってやっぱり変態漫画家なだけじゃなかったんだな。

ミシェル・ウエルベックのすべての邦訳作品を読んだ

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ミシェル・ウエルベック

オレとミシェル・ウエルベック

フランスの現代文学作家、ミシェル・ウエルベックの全邦訳作品を読み終えた(小説8作、評論2作)。

最初にウエルベック小説と出会ったのは池澤夏樹編集による世界文学全集の『短編コレクション2』だった。そこで読んだ中編『ランサローテ島』にはヨーロッパ白人中年男のドツボと化した倦怠感が描かれていた。それは厭世主義で人間嫌いで現実の事象で起こる殆どの事に冷め切ってしまい、その果てに世界と自己のドン詰まりにぶち当たってしまった男の犬の遠吠えの如きシニシズムだった。

オレはウエルベックの描く主人公の心情と世界観にすぐさま感情移入してしまった。ああ、確かに、人生も、現実世界も、かったりいよな。うんざりさせられるよな。もとよりあまり文学なぞ読まないたちなのだが、この男の描く物語は何か違うなと思い、その作品を幾つか読んでみることにした。

そして最初に読んだ長編『素粒子』が、もう、衝撃的だった。臓腑を抉られ、胸を掻き毟られ、脳髄を揺さ振られた。ここには虚無の淵に立ち既に後戻りすらできないことを知ってしまった男の血を吐く様な悲哀があった。生の不条理にひたすら苛まれ、決してままならないままそれでも生きねばならないことの苦痛が剥き出しの描写で描かれていた。オレは叩きのめされたよ。

こうしてオレはウエルベックの邦訳全作品を読むことにした。一人の作家の全作品を読むのは初めてだし、9割9分読んだのもカート・ヴォネガットフィリップ・K・ディックぐらいだ。おまけにフランス文学だ。オレはフランス映画を観るにつけ「フランス人というのは理解に難しい人種だよな」と思っていたものだが、そのフランス人の文学を完走してしまう、ということが自分でもちょっと不思議だった(ああそうだ今思い出した、昔フランス人作家ボリス・ヴィアンにハマって全集で読んだことがあったな)。

ウエルベック小説の特徴はまず、あからさまな性描写がこれでもかと描写されることだろう。しかしこれは扇情を目的としたものではなく、人間というのは、根本においてさらに究極的には性的存在である、ということを明確にしたものだと思うのだ。

人は嗜好の有無、大小にかかわらず基本的には性的存在であるが、社会生活においてそれは時として無視されるか隠蔽されてしまうか忌避されてしまう。だがウエルベックはそれをクローズアップすることで人間存在の本質に辿り着こうとする。そして性的存在であることの(それは愛と性との)不条理から生み出される悲劇と苦痛と、なけなしの幸福とを抉り出そうとするのだ。

もうひとつ、ウエルベック小説で興味を惹かれたのは、主人公の多くが富裕な知識階級であり、何一つ不自由することなく生きているにもかかわらず、それでも倦怠感に苛まれ、焦燥感に追い立てられているという事だろう。これは爛熟を極めたヨーロッパ文化と経済的発展が、決して超えられない壁に突き当たってしまっているという事なのだろう。

とはいえ、そんなヨーロッパ富裕層の生活、住空間や衣食や乗り回す車、バカンスのある暮らしや知的な職業などの描写を、奇妙な憧れを持って読んでしまったことも確かである。特に食文化の豊かさはさすがにフランスだと思わされ、美味そうなものを食ってるな、とごく単純に下世話な感想を持って読んでいた。そういった部分も含めて、フランスの事をもっと知ってみたいな、とも思わされた。

というわけでウエルベック作品とそれを読んだオレのブログ感想のリンクを作品執筆順に並べておく。なお小説と評論とで二つに分けた。

小説

闘争領域の拡大 (1994)

(文学作品としての)処女作。性的対象を奪取する闘争が経済発展により大いなる格差を生じさせている事への怨嗟を描く作品。平たく言うなら「ブサメンの非モテだからって生きる価値が無いってのか?」というお話。

素粒子 (1998)

『闘争領域の拡大』における主題をさらに深化させ、性と生の虚無と苦痛をどこまでも暗澹たる悲哀でもって描き切り、それをヨーロッパ社会の終焉とまで結びつけてしまった問題作。

ランサローテ島 (2000)

火山質の荒涼とした大地に覆われたランサローテ島にバカンスで出掛けたヨーロッパ人の倦怠を描く中編と、ウエルベック自身の撮ったランサローテ島の写真をカップリングした作品。

プラットフォーム (2001)

タイに一大セックス・アミューズメントを築こうとしたヨーロッパ白人男女を襲う悲劇。セックス・ツーリズムを通してここでもヨーロッパが陥った限界を描こうとする。

ある島の可能性 (2005)

恋愛関係が破綻し絶望に堕とされた男と、そんな彼の未来のクローン存在が「愛や性に振り回される過去の人間たちの実存とは何だったのか」と考察していくというSF作品。

地図と領土 (2010)

天才芸術家と風変わりな作家「ミシェル・ウエルベック」の交流を通じて、芸術へのアティテュードを描いたウエルベックにしては高尚なお話だが、最後にとんでもないことが起こる。

服従 (2015)

フランスにイスラーム政権が誕生したという近未来を描くSF的な作品。「世俗性」を重要視するフランスのその在り方と行く末とを浮き彫りにしようとする。

セロトニン (2019)

社会との絆を断った男が辿る失った愛への未練と悔恨、老いてゆく自身の性と生の不能悲観主義ウエルベックによるショッパイ話がつるべ打ちな最新作。

評論

H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って (1991)

ラヴクラフト・ファンであるウエルベックによるラヴクラフト評論。自らのペシミズムをラヴクラフトの生涯に重ね合わせ、一つの個人史を完成させている。

ショーペンハウアーとともに (2017)

19世紀ドイツ哲学者ショーペンハウアーとの衝撃の出会いを綴った評論集。ショーペンハウアー理解というよりもウエルベック作品解題の鍵として面白い。

 

 

庵野秀明展に行ってきた

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この間の土曜日は国立新美術館で開催されている庵野秀明展に行ってきました。

昨今のコロナ禍のせいでこの展覧会も入場制限がかけられており、チケットは入場時間が決められた形で販売、そのため10月から始まっていたこの展覧会のチケットがなかなかとれず、11月分チケットが発売の日にえいやあ!とばかり予約を完了し、ようやくこの日に観に行けたんですね。余談ですがチケットを発券しに行ったコンビニでレジの見目麗しい女子に「私もこの展覧会行きたいんです!」と話しかけられ、ちょっと嬉しかったヒヒ爺のオレでありました。

さてこの日は開場10時丁度のチケットを取り、朝一番で乗り込むことにしました。入場制限がかけられているとはいえ人気の展覧会、朝一ならそれほど混まないだろうと思ってたんですね。確かに結構な入場待ちにはなっていましたが、中に入ってみるとかなり余裕があり、ゆったりと観ることができました。朝一の回お勧めです。

入場して一発目に仮面ライダーのコスチュームを着た庵野さんの眩しい笑顔に出迎えられます。

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展示は庵野さんの【過去】【現在】【未来】といった形で分けられていました。最初の展示は庵野さんが子供の頃から慣れ親しみ影響を受けた特撮関係のTV番組の展示です。この辺り、オレは庵野さんとそれほど年が違わないので(現在61歳の庵野さんはオレの2個上です)、庵野さんの足跡を辿るというよりも自分自身の思い出と被さって面映ゆかったです。

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その次の展示は芸術大学時代の庵野さんの様々な作品です。島本和彦氏の漫画『アオイホノオ』で読んだことがある庵野さんの大学時代の作品は「これがそうか!」と思わされました。しかし当時からアニメーションの「動き」に関してはずば抜けたものがあったことをうかがわせました。

お次はアニメーター時代に関わった『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』『風の谷のナウシカ』といった作品の展示。実はこの辺りはあまり興味が無くてササっと素通りしてしまいました。

そしていよいよ『新世紀エヴァンゲリオン』。やはり庵野さんといえばエヴァじゃないでしょうか。このコーナーは大変充実していて楽しめました。

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ポスターや膨大な数の絵コンテ、設定案の図説、各種資料、もうエヴァ・ファンだったら垂涎モノのコーナーでしょう。

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TV版の展示も良かったですが、今年やっと公開された完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の展示は感慨深いものがありましたね。

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映画に登場した「第3村」の模型。TV番組『さようなら全てのエヴァンゲリオン庵野秀明の1214日』をご覧になった方なら「あれか!」と思うことでしょう。

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「NERV第二支部跡地」の模型。下に小さくシンジ君とアスカのスケール見本が見えます。

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庵野さんが2012年に手掛けた短編映画『巨神兵東京に現る』の巨神兵頭部像。この映画は以前『館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技』という展覧会に行ったときに観たことがあります。

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そしてみんな大好き『シン・ゴジラ』!

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いやあこれ一家に一個欲しいっすね!

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庵野さんが企画・脚本を務め現在制作中の特撮映画『シン・ウルトラマン』の設定模型。

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庵野さんが脚本・監督を務め2023年公開予定の『シン・仮面ライダー』の設定。

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出口にはシン・ゴジラ、シン・ウルトラマン、シン・仮面ライダーのスタチューが堂々と並び、これからの庵野さんの活躍を大いに期待させてくれました。

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展覧会場を出ると物販コーナーとなっていましたが、特に何も購入せずに退場しました。また、展覧会図録は会場内で販売されておらず(転売防止でしょうか)、入場者のみにオンラインストアのパスコードが配布され購入できる仕組みになっているようです。

なお展覧会は撮影可・不可の展示があり、当然ですが撮影可のもののみを撮影してブログ掲載しました。

 

ミシェル・ウエルベックの評論『ショーペンハウアーとともに』を読んだ

ショーペンハウアーとともに / ミシェル・ウエルベック

ショーペンハウアーとともに

《世界が変わる哲学》がここにある! 現代フランスを代表する作家ウエルベックが、19世紀ドイツを代表する哲学者ショーペンハウアーの「元気が出る悲観主義」の精髄をみずから詳解。その思想の最奥に迫る! 

アルトゥール・ショーペンハウアーは19世紀のドイツ哲学者である、らしい。オレは名前程度は知っていたが、なにしろ哲学とは無縁な浅学菲才の徒であるゆえ、どのような思想哲学を展開していたのかはまるで知らない。というわけで例によってWikipediaなんぞを引用する。

カント直系を自任しながら、世界を表象とみなして、その根底にはたらく〈盲目的な生存意志〉を説いた。この意志のゆえに経験的な事象はすべて非合理でありこの世界は最悪、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の諦観・絶滅以外にないと説いた。この厭世観的思想は、19世紀後半にドイツに流行し、ニーチェを介して非合理主義の源流となった。当時支配的だったヘーゲル哲学に圧倒されてなかなか世間に受け入れられなかったが、彼の思想は後世の哲学者や文学者、とりわけニーチェワーグナー、トーマス=マンらに大きな影響をあたえている。

アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipedia

ショーペンハウアーとともに』はこのショーペンハウアーミシェル・ウエルベックが紹介した評論集だ。上梓は2017年、『服従』(15)と『セロトニン』(19)の間に発表されたものだが、実際は『ある島の可能性』(05)を脱稿した頃から書き始められ(そして途中で投げ出され)たものであるらしい。

評論集ではあるが、ショーペンハウアーを徹底的に分析しその哲学を詳らかにしたもの、というわけでもないようだ。20代半ばにショーペンハウアーの著作と出会ったウエルベックが、いかにその哲学に衝撃を受けたのか、そのどの部分がウエルベックの心を掴んだのかを書き連ねたのが本書となるのだ。だから書籍は150ページ程度の薄いもので、ショーペンハウアー理解というよりはウエルベック理解の副読本として読むのが正しいのだろう。

そんなわけでこの本に挑んでみたオレではあるが、ウエルベックの語るショーペンハウアー哲学の神髄とその内容について理解できたかというと、よく分かりませんでした、というのが正直なところである。面目ない。ウエルベックショーペンハウアーの「世界は私の表象である」という命題に感銘を受けたのらしいが、なにしろショーペンハウアー哲学の中心となる「表象」「意思」「観照」といった抽象的な哲学術語がオレには無理だった。重ね重ね面目ない。

とはいえ分からないなりに、ショーペンハウアーの厭世主義とウエルベック厭世観が非常にマッチしたのだな、ということは理解した。というよりも、ウエルベック作品はその根底において、ショーペンハウアー哲学を展開したものだったのではないかと思えた。オレはウエルベック作品からヨーロッパ資本主義社会の没落を読み取っていたが、それよりもショーペンハウアー的な厭世主義を文学的に実践したものが彼の作品の本質だったのではないか。

併せて、芸術の真の美を無私に感受するという「観照」なる術語があるが、これなどは『地図と領土』における「芸術に対するアティチュード」の在り方が「観照」そのものを体現したものだったのではないかと思えた。そういった部分で、ウエルベック作品の解像度を上げる副読本としては最適かもしれない。うーむ、今度ショーペンハウアーを何か一冊読んでみるか……(絶対読まない)。

 

ミシェル・ウエルベックの評伝『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』を読んだ

H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って / ミシェル・ウエルベック

H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って

服従』『素粒子』で知られる《世界一センセーショナルな作家》、ミシェル・ウエルベックの衝撃のデビュー作、ついに邦訳! 「クトゥルフ神話」の創造者として、今日の文化に多大な影響を与え続ける怪奇作家H・P・ラヴクラフトの生涯と作品を、熱烈な偏愛を込めて語り尽くす! モダンホラーの巨匠スティーヴン・キングによる序文「ラヴクラフトの枕」も収録。

様々な問題作を上梓してきたフランス人作家ミシェル・ウエルベックだが、実質的なデビュー作となるのはH・P・ラヴクラフトに関するこのエッセイ集、『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』(91)となる。しかしウエルベックによるとこのエッセイ集は「ある種の処女小説として書いた」のだという。

ただひとりの主人公(H・P・ラヴクラフトその人)が出てくる小説。伝えられる事実のすべて、引用される文章のすべてが正確でなければならないという制約を与えられた小説。とはいえ、やはり一種の小説なのだ。――『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』序より

この『世界と人生に抗って』が小説なのかどうかは別として、ウエルベックは10代の頃より相当のラヴクラフト・ファンであったのらしく、その思いのたけが凝縮されたエッセイ集であるのは間違いない。ただし「ラヴクラフト評伝」ではあっても、そこはあくまでウエルベックらしい切り口でもって書かれることになる。

例えば一人の作家の評論、評伝を書くのならば、それを客観的事実に基づく客観的な分析を交えて書くものだろう。もちろんこの『世界と人生に抗って』におけるラヴクラフト分析は、それらを周到に展開したものではあるが、そこにはウエルベックならではの、生来ともいえるペシミズムが色濃く匂うのだ。それはウエルベック自身のペシミズムを、ラヴクラフト作品のペシミズムに、ひいてはラブクラフトの生涯を覆うペシミズムに重ね合わせたかのような評伝となっているのだ。

特に秀逸に感じたのはラヴクラフト作品において取り沙汰されがちな「人種的偏見」がなぜ生まれたのか、という箇所だろう。それは結婚しロードアイランドの片田舎から大都市ニューヨークに移り住んだラヴクラフトが、人生初とも言える幸福な生活から一転、貧困と度重なる職探しの失敗から、ニューヨークに安穏と住まう有色人種たちに次第に憎しみを募らせていった、という記述である。そして醸造されたその憎しみと破綻した結婚生活とが、その後一人孤独にロードアイランドへと帰ったラヴクラフトに、クトゥルフ神話のあの輝かしくもまたおぞましい傑作群を書かせたというのだ。

ウエルベックは一人の作家として、文学上における「人種的偏見」など問題にしない。もとより自身も作品において人種差別的な言及を成すウエルベックであるが、彼の注視するのはその絶望の在り方であり、その絶望がいかにして文学史上唯一無二の「コズミックホラー」を書かせたのかということなのだ。ウエルベックはそれを、あたかも自身の絶望とその発露である文学作品を語るかの如く記述する。ラヴクラフトに対するこの濃厚な感情移入の在り方とその描写は、確かに「小説」の在り方そのものであるのかもしれない。

もうひとつ面白かったのは、本書の序文を書いたホラー小説の大御所スティーヴン・キングとの温度差だ。序文においてキングはウエルベックラヴクラフト分析にやんわりとした疑問を投げかけているのだ。キングは一人の大成したホラー作家として、同様のホラー作家であるラヴクラフトに大いに一家言持っているだろう。しかしそこは「エンタメ作家」と「文芸作家」との視点の差なのだろう。キングの指摘はある部分正しいものなのかもしれない、しかしこの『世界と人生に抗って』を「一種の小説」としてとらえるなら、ウエルベックの描くラヴクラフト像もまた、一人の実存的存在としてのラヴクラフト自身であるのだ。