2021年のエポックメイキングとなりうる最高のSF超大作/映画『DUNE/デューン 砂の惑星』

DUNE/デューン 砂の惑星 (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 2021年アメリカ映画)

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小説『デューン 砂の惑星

1965年にフランク・ハーバードによって書かれたSF大河小説『デューン 砂の惑星』は当時のSF界に大いなる衝撃と絶賛でもって迎え入れられた。その評価の中心となったのはこの物語が一つの特殊な生態系を舞台とし、その生態系を迫真的に描くことよりリアリティ溢れる異世界を構築したことにあるだろう。作品はSF界の権威ある賞、ヒューゴー賞とネヴュラ賞のダブルクラウンを獲得し、今も揺るぎない評価を得続けている。

作品はその後も『デューン/砂漠の救世主』『デューン/砂丘の子供たち』『デューン/砂漠の神皇帝』『デューン/砂漠の異端者』『デューン/砂丘の大聖堂』といった続編が次々と書かれ、まさに「サーガ」に相応しい世界観を形作った。また、作者没後も息子の手によって続編が書き続けられている。

日本での翻訳刊行時は石ノ森章太郎による表紙の4巻本として発売された(現在は3巻本)。この時も日本SF界を大いに賑わせていたことをなんとなく覚えている。オレ自身が実際に小説を読んだのはデヴィッド・リンチ映画化作品公開の直前だった。舞台となる砂の惑星、「ベネ・ゲセリット」だの「クイサッツ・ハデラッハ*1」だのといった特殊な造語が独特の異世界感を醸し出し、オレも十分にハマって続編にも手を出して読んだ。

映画『デューン 砂の惑星

映画版『デューン 砂の惑星』と言えば製作の頓挫したアレハンドロ・ホドロフスキー版『DUNE』、製作はされたが大コケしたデヴィッド・リンチ版『デューン 砂の惑星』(84)が挙げられる。これら失敗の原因はなにしろ原作が長大でややこしい造語が多く、1本の映画作品にまとめ難いという事に尽きる。

ちなみにホドロフスキー版はその後ドキュメンタリー映画ホドロフスキーのDUNE』(13)として製作頓挫までのいきさつをまとめており、華麗なるイメージボードやプロダクトデザインも含めてこれはこれで優れた作品として仕上がっている。デヴィッド・リンチ版も歪な失敗作とはいえ、リンチらしいグロテスクなイメージが横溢するファンにとっては愛着のある作品と言えるだろう。

長々と『デューン』の来歴を書いたのは、そもそもこの作品が小説としてどれほど高く評価されたものであり、なおかつ映画化の困難な作品であったかを言いたかったからだ。1965年という50年以上前に執筆されながら幾多の映画化構想断念と映画化失敗を繰り返し、それでもなお映画化の望まれる原作小説が、本国でいかに愛され崇敬されているもののか、その一端でも知ってもらいたかった。

そしてドゥニ・ヴィルヌーヴ監督版『DUNE/デューン 砂の惑星』へ

そしていよいよ、真打とも言うべき「完全映画化作品」が登場することになる。それが今回公開されたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督版『DUNE/デューン 砂の惑星』である。ただし「完全映画化作品」とは書いたが、ひとつだけ、これは必ず念頭に置いて欲しいが、この『DUNE/デューン 砂の惑星』は映画冒頭に『Dune: Part One』と謳われるように、2部作の第一部に過ぎない。即ちこれ1作では完結していないのだ。これから鑑賞される方はそこを注意して劇場に行かれて欲しい。

《物語》人類が地球以外の惑星に移住し、宇宙帝国を築いていた西暦1万190年、1つの惑星を1つの大領家が治める厳格な身分制度が敷かれる中、レト・アトレイデス公爵は通称デューンと呼ばれる砂漠の惑星アラキスを治めることになった。アラキスは抗老化作用を持つ香料メランジの唯一の生産地であるため、アトレイデス家に莫大な利益をもたらすはずだった。しかし、デューンに乗り込んだレト公爵を待っていたのはメランジの採掘権を持つハルコンネン家と皇帝が結託した陰謀だった。

DUNE デューン 砂の惑星 : 作品情報 - 映画.com

というわけでヴィルヌーヴ版『DUNE』であるが。

これがもう、最高だった。

原作を過不足なく細やかに脚色し、じっくり確実に描いてゆくその語り口調は、原作とそのファンへの最大限の敬意を表しているだけではなく、ホドロフスキー版、リンチ版の失敗を踏まえてのものなのだ。この「じっくり描く」ことこそが『DUNE』の稀有なる世界を表出させる鍵なのだ。これを長すぎるとか端折ってしまえとかいう言説は不適格だろう。

透徹した世界観に裏打ちされた素晴らしいSFヴィジュアル

もちろん原作を丁寧になぞっただけの映画ではない。ただでさえ奔放なSFイメージに溢れた原作を、優れた想像力と美意識でもって、現在可能にし得る最高のSFヴィジュアルとして提示しているのだ。それはスペースシップや異世界における建造物、その内装ばかりではなく、登場人物の着る衣装一つ一つ、彼らの持つガジェットに至るまで、透徹した世界観でもって描き切っているのである。

即ち、『DUNE/デューン 砂の惑星』は、美しく、絢爛極まりない映像を見せつける映画なのだ。観る者はその世界の中に放り込まれ、その迫真性に没入し、陶然となりながら異質極まりない世界を闊歩することになるのだ。ヴィルヌーヴ監督はこれまで、『メッセージ』や『ブレードランナー2049』といったSF作品で素晴らしいSFヴィジュアルを見せつけてきたが、『DUNE』はその総決算ともいうべき作品となっている。

もちろん世界はただ美しいだけではない。舞台となる砂の惑星アラキスは人間の生存を拒むどこまでも厳しく荒々しい世界でもある。この死と隣り合わせの世界で、人々がどう適応し、生き抜こうとしているのかがこの物語の大きなポイントであり、大いなるドラマを生み出している点でもあるのだ。

宮廷暗黒劇と超未来科学技術の混在する宇宙世界

その優れたヴィジュアルでもって描かれる物語は、銀河の星々に遍く人類が住み着いた遠未来の宇宙帝国を舞台にした、【宮廷暗黒劇】なのである。大いなる富を生み出す砂の惑星アラキスを巡るアトレイデス家とハルコンネン家との確執、その確執を利用せんと蠢く銀河皇帝の陰謀、さらに銀河の未来を操作すべく暗躍する組織ベネ・ゲセリット。ここで語られるのは中世ヨーロッパ世界を思わせる覇権を巡る権謀術策であり、そこから生み出される血腥く腐肉の臭いすらする権力闘争なのである。

遂にバランスを失った権力構造はハルコンネン家による無慈悲な殺戮と完膚無き破壊を呼び寄せ、そしてアトレイデス家の第1子ポール・アトレイデスの復讐の予兆が胎動する。そういったある意味古色蒼然としたドラマが、煌びやかな遠未来科学技術と合体し、屍累々たる白兵戦と超未来破壊兵器が全てを蹂躙する、恐るべきSF世界を表出させるのだ。いわば『ゲーム・オブ・スローンズ』のSF版と言っていい世界なのだ。もちろん『ゲースロ』より『DUNE』のほうが先に生み出されたが。ここには古きものと新しきものとの融合がある。

過酷な環境の中で生きる人々とその信ずるもの

この【宮廷暗黒劇】を受けてもう一つ語られるのは、惑星アラキスに初期の段階に移住したフレメンと呼ばれる人々である。彼らは為政者と対立しながら砂漠に隠れ住み、過酷な環境に適応した独特の社会に生きる人々だ。彼らは戦闘能力と隠密能力に長け、その過酷な生活を救う「伝説の救世主」の到来を待っている。そして難を逃れたポール・アトレイデスは彼らとの共闘を考える。ここで描かれるのは「異文化との衝突」ということなのだ。

この図式から想像できるように、『DUNE』の物語は、現実の中東世界とそこに生きる人々、その中東世界が生み出す貴重な地下資源・石油を巡る西欧列強国家同士の牽制とが下地となっている。石油=アラキスが産出する宇宙規模に貴重な生産物メランジ、というわけだ。そこに現われる「伝説の救世主」とはポール・アトレイデスなのか否か、というのがこの物語なのだが、「中東世界に白人の救世主?」という疑問はヴィルヌーヴ監督も意識しているらしく、それは今後語られる第2部で明らかにされるはずだ。

それと同時に、ここでは単純に「中東世界」を模しているのではなく、東洋的な精神世界も加味されており、砂漠の巨獣サンドワームへの畏敬や共存の在り方も含め(これなどは動物崇拝の存在するインドやタイを連想させる)、もっと複雑な「第3世界的なるものの混淆」がこのアラキスなのではないかオレは思う。

粒揃いの俳優陣による贅沢なドラマ

こうしたドラマを演ずる俳優陣がまた素晴らしい。主人公ポール役のティモシー・シャラメは少年の線の細さと青年の力強さの狭間を繊細に演じ、父親役オスカー・アイザックは父の威厳と為政者の困難を、母親役レベッカ・ファーガソンは愛情深さと凛とした強さをしっかりと演じ切っていた。

ジェイソン・モモアハビエル・バルデムジョシュ・ブローリン、デイブ・バウティスタ、誰もがオレの好きな俳優であり誰もが素晴らしい演者だった。まさかシャーロット・ランプリングまで出演しているとは思わなかった。ヒロインのゼンデイヤは第2部での活躍を期待したい。チャン・チェンはオレはよく知らなかったのだが、今後作品を探してみたい。このような粒揃いのオールスターキャストの作品としても『DUNE』は第1級だろう。

最後に、やはり音楽のハンス・ジマーだろう。ジマーはこの作品の為に『TENET/テネット』の参加を蹴って参入したのだという。オレは実はそれほどジマーに思い入れはないのだが、この『DUNE』における音楽は『ブレードランナー2049』におけるメタリックで無機的な轟音とはまた違う、女性ヴォイスを利用した有機的なサウンドを構築しており、映像に非常にエモーショナルな奥行きを与えることに成功していたと思う。

というわけでオレなりに『DUNE/デューン 砂の惑星』の見所をまとめてみた。というか見所だらけの作品であり、これをIMAXで観れたのは本当によかった。また、このIMAXにしても「大画面における高速なカット割り」は目を疲れさせ視聴を妨げる元であるとしてあえてゆったりとした編集にしたのだという。いつ公開されるのか、製作されるのかどうか全く分からない第2部ではあるが、首を長くして、そして大いに期待して待っていたい。

*1:ヴェルヌーヴ版映画作品ではクイサッツ・ハデラックと字幕が充てられているが小説版ではクイサッツ・ハデラッハと訳されている

ミシェル・ウエルベックの『ランサローテ島』を読んだ

ランサローテ島ミシェル・ウエルベック

ランサローテ島

カナリア諸島ランサローテ島地震と火山の噴火によって破壊された荒涼たる大地。赤、黒、薄紫の岩場に生える奇妙な形状のサボテン群。20世紀最後の年の1月、4人の男女がそこで出会う。自由とカルトをめぐる物語。著者撮影の写真83点収録。

ランサローテ島イベリア半島から南西に1,000 km、アフリカ大陸の北西より大西洋沖125kmに位置するカナリア諸島を構成する島のひとつである。島の中心地はアレシフェカナリア諸島自治州ラス・パルマス県に属する*1

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2000年に刊行された『ランサローテ島』はミシェル・ウエルベックの3番目の小説集であり、同時に写真集でもある。この本は半分がウエルベック自身が撮ったランサローテ島の様々な風景写真で占められ、もう半分に中編小説『ランサローテ島』が収められている。

写真で見るランサローテ島は火山性の大地による一面の岩だらけの土地であり、そこに映し出されるのは剥き出しで荒々しくどこまでも醜い荒涼とした風景である。不気味な形のサボテンや生気のない灌木を写した写真もあるが、そのほとんどはNASAの探査機パーサヴイアランスが写した火星の光景と変わらない生命無き荒野だ。そのあまりに異界じみた光景に、『第5惑星』や『銀河伝説クルール』といったSF映画のロケでもよく使われているのらしい。

そんなランサローテ島ウエルベックはたいそう気に入ったのらしい。だからこその写真+中編集ということなのだろう。どこまでも人間を拒絶したようなこの土地が、ヨーロッパ極北の精神世界を描くウエルベックの心象風景とぴったりとマッチするのは、ひどく頷けるものがある。それはどこまでも侘しく、寒々しい風景ではある。だが同時に、そこで体験できる孤独さは、ひどく心落ち着かせるものであるに違いない。実はオレも以前、実家の、北海道の物寂しい原野を一人歩いていた時に、そんな具合に思ったものなのだ(その風景は以下の記事で見ることができる)。

一方、中編『ランテローサ島』は、その島に観光で訪れたヨーロッパ人中年男の、グダグダと弛緩した日々を描いたものとなる。これは以前『短篇コレクション 2 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)』で読んであり、ブログに感想も書いたので、ここに抜粋しておこう(手抜き)。

どことなく倦み疲れた一人のフランス人男がカナリア諸島の島ランサローテにブツクサ言いながらバカンスに出かける。ランサローテ糞つまんねえとかボヤきながらダルそうに過ごし、そこで出会ったチェコ人男やドイツ人レズカップルとグダグダと遊び、たまさか3Pセックスをしてみたりする。

この物語の何が良かったかって、主人公の基本心情が「ウゼエ」「カッタリー」なのである。それはオレがヨーロッパ圏文学を集めたこの短編集に感じていたのと同じ文言ではないか。すなわちこの物語は、既にしてヨーロッパで生きることのウザさとカッタルさに自覚的であり、なおかつそれを表明した作品であるという事なのだ。

文章は限りなくシニカルであり、セックス描写すら虫の交尾程度の情熱でもって描いてしまう。あー、この醒めてて不貞腐れた感じ、好きだなあ、なんかオレとめっちゃ波長が合うな。

もう一つ特記すべきなのは、このランサローテ島ウエルベックの長編『ある島の可能性』の舞台にもなっており、そこで登場する新興宗教団体エロヒム教の本拠地として描かれているという事だ。そしてこの中編『ランサローテ島』においても新興宗教団体ラエリアン教というが登場し、エロヒム教と同様の怪しげな活動を行っている。即ち中編『ランサローテ島』は『ある島の可能性』の着想の原型的な作品とも言えるのだ。

どことも知れぬ島の写真と中編程度のウエルベック作品ということで長編ファンには見劣りするかもしれないが、逆に中編ならではの切れ味のよさを体験できることとウエルベックの心象風景を写した写真集のカップリングという風に捉えるなら、これはこれでウエルベック・ファン必携という事ができるのではないかと思う。

若き日のデヴィッド・ボウイを描く映画『スターダスト』はちょっとナニだったなあ。

スターダスト (監督:ガブリエル・レンジ 2020年イギリス映画)

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若き日のデヴィッド・ボウイを描く伝記映画

2016年、突然の逝去に世界を愕然とさせたロック・アーチスト、デヴィッド・ボウイ。数々の名曲と名アルバムを生み出してロック界にその名を燦然と刻み付け、ポップアイコンとして様々なカルチャーに影響を与え、絶大な人気と信奉者を生み出した巨大なる才能、それがデヴィッド・ボウイだった。

オレは中坊の頃から40年以上に渡ってデヴィッド・ボウイのファンである。まあ大ファンであると言ってもいいのかもしれない。そんなデヴィッド・ボウイの伝記映画が製作されると聞いてオレは湧き立った。その内容はボウイの名作中の名作アルバム、『ジギースターダスト』が生み出されるまでの、若き日のボウイを描いたものなのだという。確かに50年以上もあるボウイのキャリア―の中で、ある時代のみを切り取った映画を製作するというのも一つのアイディアだろう。

そんなわけで公開をとても楽しみにして待っていたオレなのだが、実際作品を観てみたらこれが、う~ん……。

デビッド・ボウイの若き日の姿と、彼の最も有名な別人格「ジギー・スターダスト」誕生の裏側を描いた伝記映画。1971年、3作目のアルバム「世界を売った男」をリリースした24歳のボウイはイギリスからアメリカへ渡り、マーキュリー・レコードのパブリシストであるロン・オバーマンとともに、初の全米プロモーションツアーを開始。しかし彼は自分が世間に全く知られていないこと、そして時代がまだ自分に追いついていないことを知る。ベルベット・アンダーグラウンドアンディ・ウォーホルとの出会いなど、アメリカで多くの刺激を受けるボウイ。一方、兄の病気も彼を悩ませていた。

スターダスト : 作品情報 - 映画.com

物語は、当時まだシングル『スペース・オディティ』のヒットしかもっていなかった若き日のボウイが、新作アルバム『世界を売った男』のプロモーションの為にアメリカを訪れる、というのがメインとなる。プロモーションといってもアメリカではボウイは殆ど無名、パブリシストであるロン・オバーマンと二人、1台の車でまるでドサ周りのようにアメリカの街々を巡るが、メディアはまるで好意的に取り入れない。同時にボウイは、精神病の兄テリーの不幸と、精神病の気質を持つ自らの家系が、いつしか自分にも疾病を発症させるのではないかという不安に苛まれている。しかしボウイは、アメリカで出会う様々な人々と、己の不安を払拭するヒントを元に、世界的名作アルバム『ジギースターダスト』の構想を練り上げてゆくのだ。

伝記映画としては今一つの作品

とまあこのような構成を持つ物語で、料理の仕方によっては幾らでも面白くなる要素はあるはずなのだが、実際の映画はまるでダメだった。地味だった。退屈だった。「ドサ周り新人の気苦労」ばかりを見せつけられるロードムービー的な部分が平板で長く、ジョニー・フリン演じるボウイは「ビッグになりたい」と言う割りにはやる気があるんだかないんだかはっきりせず、パブリシストのロン・オバーマンは一人で空回りしているばかりで、観ていて段々うんざりさせられるのである。

最大の難点はボウイの曲が一曲も使われていないということだ。これはこの映画がそもそもボウイの家族に公認されておらず楽曲の使用も許可されていない作品であるからなのだが、これにより「ボウイ伝記映画」としての魅力が大いに損なわれてしまっているのだ。例えば同じロックアーチスト伝記映画として、フレディ・マーキュリーを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』、エルトン・ジョンを描いた『ロケットマン』、ジム・モリソンを描いた『ドアーズ』などに通じる魅力が全く無く、そういった伝記映画を期待すると大いに裏切られてしまう。

まずなにより、ボウイを演じるジョニー・フリンが、「とてつもない才能を秘めた若者」に全く見えない。単にエキセントリックな服装とエキセントリックな言動をするだけの、「アートかぶれな、その辺のなろう系のヒヨッコ」にしか見えないのだ。おまけに常になよなよくよくようじうじしているだけで、「大スターの卵」どころか、「なんだかぱっとしないお兄さん」なだけなのである。

実のところデビュー当時のボウイはまさにそんな若者だったのかもしれない。しかし「ボウイなんだから才能があったのは当たり前でしょう」という段階から話を始められてしまうと、ファン以外には「なんなのこれ?誰なのこれ?」としか思えないのではないか。ここで「きらりと光る非凡なる才能」、すなわち「圧倒的なソングライティングの才を秘めた未来のスターの予感」を提示しなければ、物語として説得力を与えられないのだ。つまり「楽曲が全く使えない」という事の弊害がここで露呈してしまっているのだ。これではファンムービーにしかなっていないばかりか、ファンムービーとしてもあまりに魅力に乏しい。

「形態模写大会」としての『スターダスト』

この映画がポイントとしたかったのはボウイと精神病の兄との愛情と確執だったのだろう。ボウイのキャリアの中でそこは大きくクローズアップすべき点なのかどうかは別として、とりあえず「映画的演出」としては観客の感情を大きく揺さぶるポイントになったはずだ。ただこれも演出の拙さというか地味さにより、「ボウイさんって家族で苦労したんだねえ」程度の感想しか湧かず、それがアーチストとしてどれだけ作品の原動力になったのかが演出しきれていないように感じた。

とはいえ、「形態模写大会」としての『スターダスト』はそれなりに頑張っていたのではないかとは思う。ジョニー・フリンがボウイに似ていたかどうか、というよりも、ボウイの如きルックスを誰かに求めるのが不可能という点から見るなら、結構頑張っていたのではないか。お肌が疲れているとか無精ひげだったりとか、ドレスが着たきり雀だったりとか、当時のボウイには考えられないことは置いておこう。なんだか努力していた、そこは評価したいのだ。ただボウイの歯並びの悪さまで似せる必要があったのかどうかは疑問だが。あとホントのボウイは女装はしていたけどあんなになよなよしていなかったと思うんだがな。ボウイの当時の妻アンジーの女傑ぶり、これは最高だった。本当にこうだったのだろうと思わせる演出がよかった。ボウイのバックバンドのギタリスト、ミック・ロンソンもいい線行っていたと思う。マーク・ボランの登場もちょっと嬉しかった。

スペース・オディティ

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ステイサムⅹガイ・リッチーがまたもやタッグを組んだ非情なるクライム・アクション『キャッシュトラック』!

キャッシュトラック (監督:ガイ・リッチー 2021年アメリカ・イギリス映画)

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オレはジェイソン・ステイサムが好きである。『ワイルド・スピード』シリーズや『エクスペンダブルズ』シリーズのステイサムも悪くないが、やはりピンのステイサムのほうがいい。初期のゲキ渋な犯罪モノもいいし『デスレース』や『アドレナリン』シリーズの馬鹿馬鹿しさもいい(だが『MEG ザ・モンスター』だけは悪いんだが許せない)。ステイサムはその陰気な軍曹顔がいい。無情な世界を生き抜くために自らも無情になった男のようなツラ構えがいい。

そして監督ガイ・リッチー。オレは最初『シャーロック・ホームズ』シリーズや『コードネームU.N.C.L.E.』あたりのメジャー作品(あと『アラジン』ね!)は楽しんでいたが、初期の小規模なクライム・ムービーはなんとなく食わず嫌いしていた。しかしステイサムのデビュー作に関わっていると知り観てみるとこれがまたすこぶる面白い。メジャー作とはまた違う流儀で作られた作風が至極渋くていい。今年公開された『ジェントルメン』もイイ味を出していた。

そのジェイソン・ステイサムガイ・リッチー監督とタッグを組んだ映画が公開されると聞いたらもう観に行かざるを得ない。ステイサムⅹガイ・リッチーのタッグ作はというとこれまで『ロック・ストック&スモーキング・バレルズ』『スナッチ』『リボルバー(リッチーは製作総指揮)』と続いていたが最近は暫くご無沙汰で、この『キャッシュトラック』はなんと16年ぶりとなるのだとか(しかし!来年2022年公開予定の『Five Eyes』でまたもやタッグだとか!やんややんや!)。

《物語》ロスにある現金輸送専門の警備会社フォルティコ・セキュリティ社では、特殊な訓練を受け、厳しい試験をくぐり抜けた警備員たちが現金輸送車=キャッシュトラックを運転していた。そこに新人のパトリック・ヒル、通称“H”が警備員として採用された。採用試験の成績はギリギリ合格というレべルだったHだが、ある時、トラックを襲った強盗を驚くほど高い戦闘スキルで阻止し、周囲を驚かせる。

キャッシュトラック : 作品情報 - 映画.com

物語は陰気な軍曹顔をした謎めいた男(ステイサム)が警備会社に採用されるが、陰気な軍曹顔以外は地味目だったこの男がいざ現金輸送車襲撃となったとき、驚くべきスキルで強盗団を皆殺しにしてまう、というのが発端となる。いったいこの男の正体は誰なのか?そしてその目的は?果たして彼は善なのか悪なのか?謎が謎を呼びながら、またもや次の襲撃事件が起きてしまうのだ。

なにしろこの「謎めいた男の正体と目的」が物語のキモとなるために、この後の展開は一切書けないし、書かない。書かないがしかし、ただ一つ言えることがある。

いやあメチャクチャ面白かったですわ!

凶暴過ぎるステイサムの血と硝煙に満ちた地獄巡りの物語!暴虐!暗黒!冷酷!これだ!これがオレの観たかったステイサム映画だッ!!ミステリアスな序盤でドキドキワクワクし、男の正体が分かる中盤でぐおおっ!と固唾を飲み、そして後半のアクションに次ぐアクションの応酬は脳ミゾがとろけそうになるほどに超最高だったッ!!ステイサムはどこまでも非情な男を貫き通し、そしてその物語もどこまで重々しく、さらに暗く熱く盛り上がる!ガイ・リッチーはお得意の時系列を弄りまくった構成で観る者の感覚を揺さぶり、虫けらのように次々と登場人物をぶっ殺してゆく!

『ワイスピ』や『エクスペンダブルズ』のフットワークの軽いステイサムも悪くない、でもこんな陰気な軍曹顔にぴったりなニヒルでダークなステイサムがやっぱりオレは好きだ!そんなわけでステイサムⅹガイ・リッチー映画『キャッシュトラック』、滅茶苦茶面白いのでみんなも観に行こう!

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ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』を読んだ

ある島の可能性ミシェル・ウエルベック

ある島の可能性 (河出文庫)

物語は世界の終わりから始まる。喜びも、恐れも、快楽も失った人類は、ネオ・ヒューマンと呼ばれる永遠に生まれ変われる肉体を得た。過去への手がかりは祖先たちが残した人生記。ここに一人の男のそれがある。成功を手にしながら、老いに震え、女たちのなかに仔犬のように身をすくめ、愛を求めつづけたダニエル。その心の軌跡を、彼の末裔たちは辿り、夢見る。あらたな未来の到来を。命が解き放たれる日を。

2005年に刊行された『ある島の可能性』はミシェル・ウエルベックの第5長編となる。そしてそれは「SFテーマ作品」だ。

「SFテーマ作品」といえばウエルベックの『素粒子』のラストを思い出すが、実はこの『ある島の可能性』は”『素粒子』のラスト”を引き継いでいるかのような物語なのだ。それは人類を超越した新人類の物語だからである。物語は現代に生きる青年ダニエルの生涯を、2000年後の未来に生きる彼の24/25世代後のクローンが振り返る、という形で描かれる。

ダニエルは売れっ子コメディアンだ。彼は冷感症のガールフレンド・イザベルと別れ、今は売れない女優エステルと熱烈な交際の最中だ。そんな彼に新興宗教団体エロヒム教が接触する。エロヒム教は地球外生命エロヒムを信仰し、現世の欲望、特にセックスの充足を追求する。さらに「永遠の生命」を確立するため、秘密裏に人間のクローン「ネオ・ヒューマン」を創造しようとしていた。この「現代」の章ではダニエルのエステルに対する狂おしいばかりの執着と煩悶、エロヒム教が遂に世界を席巻し「ネオ・ヒューマン」創造に着手する様が描かれる。

「2000年後の未来」ではダニエルの24/25世代後のクローン「ネオ・ヒューマン」が「現代」で語られるダニエルの人生を振り返り、過去、「人間」なるものが何に希望を見出し、何に絶望に堕とされたのかを観察してゆく。未来人類「ネオ・ヒューマン」は遺伝子操作により食物を摂取する必要も生殖行為をする必要もなく、その心理は常に平穏の中にあり、いわば仏教的な「解脱」の状態にある「完璧な人類」であった。しかし、にもかかわらず彼らは「生の実感の乏しさ」に苛まれていた。

これまで読んだウエルベックの物語は常に二人の登場人物が対となって登場した。片方は強烈なルサンチマンに蝕まれ、もう片方はルサンチマンから遥か遠くに生きながらも「生の実感の乏しさ」に苛まれる。これは対立項のように見えて実は一つのものなのだろうと思う。一方に欲望にまみれた自身がおり、一方にそれを冷めた目で観察する自身がいる。相反する二つの感情がないまぜになり、アンビバレンツを引き起こした存在、それがウエルベックの提示するものであり、同時にウエルベック自身の心象なのではないか。

そしてまた、この『ある島の可能性』における「SFテーマ」は、人の持つ【性(せい/さが)】、大きく言うなら人類というものが持つ【性】への、【絶望】を描いたものである気がしてならない。畢竟、人は、人である限り、己の【性】からは逃れられない。【性】がある限り人は「存在する苦しみ」から決して逃れることはできない。物語はそこに「存在する苦しみ」から解放された「ネオ・ヒューマン」を持ち込むが、実のところそれは「人間」ではなく、さらに言えば「絵空事」に過ぎない。「存在する苦しみ」から解放された「人間ではない存在」という「絵空事」の物語、それは現存人類にはなーんにもカンケー無いことでしかない。それが【絶望】ということなのだ。

もうひとつ、この作品はエロヒム教を通し「宗教の持つ虚無」をも描き出す。西欧社会の経済的勃興は旧弊の宗教を完膚なきまでに放逐したが、しかしその空洞に代替されるべきものは存在せず、ただ「虚無」だけが残された。しかしエロヒム教は、「資本主義が重宝した若さと、それに伴う快楽の、永遠の持続を約束し」、それにより人類規模で受け入れられてしまう。だがエロヒム教の最終目的は「資本主義の消滅」と「人類の間引き」であり、それによる「人の苦しみから解放されたネオ・ヒューマン」の創造であった。つまり救われるのは「ネオ・ヒューマン」のみであり、それは即ち「人間/人類」は誰一人として救わない/救われないということなのだ。

「存在する苦しみ」から決して逃れられない人間存在と、そうして生きざるを得ない事への絶望、それを救うものさえない虚無。しかし、その懊悩に塗れた生の中に、決して「喜び」が無かったわけではない。その「喜び」は、容易く消え去ってしまう幻の如きものではあっても、それでも、人はその「喜び」にすがり、また出会えることを懇願してしまう。それが【可能性】ということである。ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』は、苦痛に満ちた生を描きながら、それでもなおその最後に、【可能性】の可否を追い求めようとする。それが発見できるのかどうかは分からない。しかし、それでも生は実存するのだ。