若き日のデヴィッド・ボウイを描く映画『スターダスト』はちょっとナニだったなあ。

スターダスト (監督:ガブリエル・レンジ 2020年イギリス映画)

f:id:globalhead:20211010082335j:plain

若き日のデヴィッド・ボウイを描く伝記映画

2016年、突然の逝去に世界を愕然とさせたロック・アーチスト、デヴィッド・ボウイ。数々の名曲と名アルバムを生み出してロック界にその名を燦然と刻み付け、ポップアイコンとして様々なカルチャーに影響を与え、絶大な人気と信奉者を生み出した巨大なる才能、それがデヴィッド・ボウイだった。

オレは中坊の頃から40年以上に渡ってデヴィッド・ボウイのファンである。まあ大ファンであると言ってもいいのかもしれない。そんなデヴィッド・ボウイの伝記映画が製作されると聞いてオレは湧き立った。その内容はボウイの名作中の名作アルバム、『ジギースターダスト』が生み出されるまでの、若き日のボウイを描いたものなのだという。確かに50年以上もあるボウイのキャリア―の中で、ある時代のみを切り取った映画を製作するというのも一つのアイディアだろう。

そんなわけで公開をとても楽しみにして待っていたオレなのだが、実際作品を観てみたらこれが、う~ん……。

デビッド・ボウイの若き日の姿と、彼の最も有名な別人格「ジギー・スターダスト」誕生の裏側を描いた伝記映画。1971年、3作目のアルバム「世界を売った男」をリリースした24歳のボウイはイギリスからアメリカへ渡り、マーキュリー・レコードのパブリシストであるロン・オバーマンとともに、初の全米プロモーションツアーを開始。しかし彼は自分が世間に全く知られていないこと、そして時代がまだ自分に追いついていないことを知る。ベルベット・アンダーグラウンドアンディ・ウォーホルとの出会いなど、アメリカで多くの刺激を受けるボウイ。一方、兄の病気も彼を悩ませていた。

スターダスト : 作品情報 - 映画.com

物語は、当時まだシングル『スペース・オディティ』のヒットしかもっていなかった若き日のボウイが、新作アルバム『世界を売った男』のプロモーションの為にアメリカを訪れる、というのがメインとなる。プロモーションといってもアメリカではボウイは殆ど無名、パブリシストであるロン・オバーマンと二人、1台の車でまるでドサ周りのようにアメリカの街々を巡るが、メディアはまるで好意的に取り入れない。同時にボウイは、精神病の兄テリーの不幸と、精神病の気質を持つ自らの家系が、いつしか自分にも疾病を発症させるのではないかという不安に苛まれている。しかしボウイは、アメリカで出会う様々な人々と、己の不安を払拭するヒントを元に、世界的名作アルバム『ジギースターダスト』の構想を練り上げてゆくのだ。

伝記映画としては今一つの作品

とまあこのような構成を持つ物語で、料理の仕方によっては幾らでも面白くなる要素はあるはずなのだが、実際の映画はまるでダメだった。地味だった。退屈だった。「ドサ周り新人の気苦労」ばかりを見せつけられるロードムービー的な部分が平板で長く、ジョニー・フリン演じるボウイは「ビッグになりたい」と言う割りにはやる気があるんだかないんだかはっきりせず、パブリシストのロン・オバーマンは一人で空回りしているばかりで、観ていて段々うんざりさせられるのである。

最大の難点はボウイの曲が一曲も使われていないということだ。これはこの映画がそもそもボウイの家族に公認されておらず楽曲の使用も許可されていない作品であるからなのだが、これにより「ボウイ伝記映画」としての魅力が大いに損なわれてしまっているのだ。例えば同じロックアーチスト伝記映画として、フレディ・マーキュリーを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』、エルトン・ジョンを描いた『ロケットマン』、ジム・モリソンを描いた『ドアーズ』などに通じる魅力が全く無く、そういった伝記映画を期待すると大いに裏切られてしまう。

まずなにより、ボウイを演じるジョニー・フリンが、「とてつもない才能を秘めた若者」に全く見えない。単にエキセントリックな服装とエキセントリックな言動をするだけの、「アートかぶれな、その辺のなろう系のヒヨッコ」にしか見えないのだ。おまけに常になよなよくよくようじうじしているだけで、「大スターの卵」どころか、「なんだかぱっとしないお兄さん」なだけなのである。

実のところデビュー当時のボウイはまさにそんな若者だったのかもしれない。しかし「ボウイなんだから才能があったのは当たり前でしょう」という段階から話を始められてしまうと、ファン以外には「なんなのこれ?誰なのこれ?」としか思えないのではないか。ここで「きらりと光る非凡なる才能」、すなわち「圧倒的なソングライティングの才を秘めた未来のスターの予感」を提示しなければ、物語として説得力を与えられないのだ。つまり「楽曲が全く使えない」という事の弊害がここで露呈してしまっているのだ。これではファンムービーにしかなっていないばかりか、ファンムービーとしてもあまりに魅力に乏しい。

「形態模写大会」としての『スターダスト』

この映画がポイントとしたかったのはボウイと精神病の兄との愛情と確執だったのだろう。ボウイのキャリアの中でそこは大きくクローズアップすべき点なのかどうかは別として、とりあえず「映画的演出」としては観客の感情を大きく揺さぶるポイントになったはずだ。ただこれも演出の拙さというか地味さにより、「ボウイさんって家族で苦労したんだねえ」程度の感想しか湧かず、それがアーチストとしてどれだけ作品の原動力になったのかが演出しきれていないように感じた。

とはいえ、「形態模写大会」としての『スターダスト』はそれなりに頑張っていたのではないかとは思う。ジョニー・フリンがボウイに似ていたかどうか、というよりも、ボウイの如きルックスを誰かに求めるのが不可能という点から見るなら、結構頑張っていたのではないか。お肌が疲れているとか無精ひげだったりとか、ドレスが着たきり雀だったりとか、当時のボウイには考えられないことは置いておこう。なんだか努力していた、そこは評価したいのだ。ただボウイの歯並びの悪さまで似せる必要があったのかどうかは疑問だが。あとホントのボウイは女装はしていたけどあんなになよなよしていなかったと思うんだがな。ボウイの当時の妻アンジーの女傑ぶり、これは最高だった。本当にこうだったのだろうと思わせる演出がよかった。ボウイのバックバンドのギタリスト、ミック・ロンソンもいい線行っていたと思う。マーク・ボランの登場もちょっと嬉しかった。

スペース・オディティ

スペース・オディティ

Amazon

ステイサムⅹガイ・リッチーがまたもやタッグを組んだ非情なるクライム・アクション『キャッシュトラック』!

キャッシュトラック (監督:ガイ・リッチー 2021年アメリカ・イギリス映画)

f:id:globalhead:20211009093736j:plain

オレはジェイソン・ステイサムが好きである。『ワイルド・スピード』シリーズや『エクスペンダブルズ』シリーズのステイサムも悪くないが、やはりピンのステイサムのほうがいい。初期のゲキ渋な犯罪モノもいいし『デスレース』や『アドレナリン』シリーズの馬鹿馬鹿しさもいい(だが『MEG ザ・モンスター』だけは悪いんだが許せない)。ステイサムはその陰気な軍曹顔がいい。無情な世界を生き抜くために自らも無情になった男のようなツラ構えがいい。

そして監督ガイ・リッチー。オレは最初『シャーロック・ホームズ』シリーズや『コードネームU.N.C.L.E.』あたりのメジャー作品(あと『アラジン』ね!)は楽しんでいたが、初期の小規模なクライム・ムービーはなんとなく食わず嫌いしていた。しかしステイサムのデビュー作に関わっていると知り観てみるとこれがまたすこぶる面白い。メジャー作とはまた違う流儀で作られた作風が至極渋くていい。今年公開された『ジェントルメン』もイイ味を出していた。

そのジェイソン・ステイサムガイ・リッチー監督とタッグを組んだ映画が公開されると聞いたらもう観に行かざるを得ない。ステイサムⅹガイ・リッチーのタッグ作はというとこれまで『ロック・ストック&スモーキング・バレルズ』『スナッチ』『リボルバー(リッチーは製作総指揮)』と続いていたが最近は暫くご無沙汰で、この『キャッシュトラック』はなんと16年ぶりとなるのだとか(しかし!来年2022年公開予定の『Five Eyes』でまたもやタッグだとか!やんややんや!)。

《物語》ロスにある現金輸送専門の警備会社フォルティコ・セキュリティ社では、特殊な訓練を受け、厳しい試験をくぐり抜けた警備員たちが現金輸送車=キャッシュトラックを運転していた。そこに新人のパトリック・ヒル、通称“H”が警備員として採用された。採用試験の成績はギリギリ合格というレべルだったHだが、ある時、トラックを襲った強盗を驚くほど高い戦闘スキルで阻止し、周囲を驚かせる。

キャッシュトラック : 作品情報 - 映画.com

物語は陰気な軍曹顔をした謎めいた男(ステイサム)が警備会社に採用されるが、陰気な軍曹顔以外は地味目だったこの男がいざ現金輸送車襲撃となったとき、驚くべきスキルで強盗団を皆殺しにしてまう、というのが発端となる。いったいこの男の正体は誰なのか?そしてその目的は?果たして彼は善なのか悪なのか?謎が謎を呼びながら、またもや次の襲撃事件が起きてしまうのだ。

なにしろこの「謎めいた男の正体と目的」が物語のキモとなるために、この後の展開は一切書けないし、書かない。書かないがしかし、ただ一つ言えることがある。

いやあメチャクチャ面白かったですわ!

凶暴過ぎるステイサムの血と硝煙に満ちた地獄巡りの物語!暴虐!暗黒!冷酷!これだ!これがオレの観たかったステイサム映画だッ!!ミステリアスな序盤でドキドキワクワクし、男の正体が分かる中盤でぐおおっ!と固唾を飲み、そして後半のアクションに次ぐアクションの応酬は脳ミゾがとろけそうになるほどに超最高だったッ!!ステイサムはどこまでも非情な男を貫き通し、そしてその物語もどこまで重々しく、さらに暗く熱く盛り上がる!ガイ・リッチーはお得意の時系列を弄りまくった構成で観る者の感覚を揺さぶり、虫けらのように次々と登場人物をぶっ殺してゆく!

『ワイスピ』や『エクスペンダブルズ』のフットワークの軽いステイサムも悪くない、でもこんな陰気な軍曹顔にぴったりなニヒルでダークなステイサムがやっぱりオレは好きだ!そんなわけでステイサムⅹガイ・リッチー映画『キャッシュトラック』、滅茶苦茶面白いのでみんなも観に行こう!

スナッチ [Blu-ray]

スナッチ [Blu-ray]

  • ベネチオ・デル・トロ
Amazon

ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』を読んだ

ある島の可能性ミシェル・ウエルベック

ある島の可能性 (河出文庫)

物語は世界の終わりから始まる。喜びも、恐れも、快楽も失った人類は、ネオ・ヒューマンと呼ばれる永遠に生まれ変われる肉体を得た。過去への手がかりは祖先たちが残した人生記。ここに一人の男のそれがある。成功を手にしながら、老いに震え、女たちのなかに仔犬のように身をすくめ、愛を求めつづけたダニエル。その心の軌跡を、彼の末裔たちは辿り、夢見る。あらたな未来の到来を。命が解き放たれる日を。

2005年に刊行された『ある島の可能性』はミシェル・ウエルベックの第5長編となる。そしてそれは「SFテーマ作品」だ。

「SFテーマ作品」といえばウエルベックの『素粒子』のラストを思い出すが、実はこの『ある島の可能性』は”『素粒子』のラスト”を引き継いでいるかのような物語なのだ。それは人類を超越した新人類の物語だからである。物語は現代に生きる青年ダニエルの生涯を、2000年後の未来に生きる彼の24/25世代後のクローンが振り返る、という形で描かれる。

ダニエルは売れっ子コメディアンだ。彼は冷感症のガールフレンド・イザベルと別れ、今は売れない女優エステルと熱烈な交際の最中だ。そんな彼に新興宗教団体エロヒム教が接触する。エロヒム教は地球外生命エロヒムを信仰し、現世の欲望、特にセックスの充足を追求する。さらに「永遠の生命」を確立するため、秘密裏に人間のクローン「ネオ・ヒューマン」を創造しようとしていた。この「現代」の章ではダニエルのエステルに対する狂おしいばかりの執着と煩悶、エロヒム教が遂に世界を席巻し「ネオ・ヒューマン」創造に着手する様が描かれる。

「2000年後の未来」ではダニエルの24/25世代後のクローン「ネオ・ヒューマン」が「現代」で語られるダニエルの人生を振り返り、過去、「人間」なるものが何に希望を見出し、何に絶望に堕とされたのかを観察してゆく。未来人類「ネオ・ヒューマン」は遺伝子操作により食物を摂取する必要も生殖行為をする必要もなく、その心理は常に平穏の中にあり、いわば仏教的な「解脱」の状態にある「完璧な人類」であった。しかし、にもかかわらず彼らは「生の実感の乏しさ」に苛まれていた。

これまで読んだウエルベックの物語は常に二人の登場人物が対となって登場した。片方は強烈なルサンチマンに蝕まれ、もう片方はルサンチマンから遥か遠くに生きながらも「生の実感の乏しさ」に苛まれる。これは対立項のように見えて実は一つのものなのだろうと思う。一方に欲望にまみれた自身がおり、一方にそれを冷めた目で観察する自身がいる。相反する二つの感情がないまぜになり、アンビバレンツを引き起こした存在、それがウエルベックの提示するものであり、同時にウエルベック自身の心象なのではないか。

そしてまた、この『ある島の可能性』における「SFテーマ」は、人の持つ【性(せい/さが)】、大きく言うなら人類というものが持つ【性】への、【絶望】を描いたものである気がしてならない。畢竟、人は、人である限り、己の【性】からは逃れられない。【性】がある限り人は「存在する苦しみ」から決して逃れることはできない。物語はそこに「存在する苦しみ」から解放された「ネオ・ヒューマン」を持ち込むが、実のところそれは「人間」ではなく、さらに言えば「絵空事」に過ぎない。「存在する苦しみ」から解放された「人間ではない存在」という「絵空事」の物語、それは現存人類にはなーんにもカンケー無いことでしかない。それが【絶望】ということなのだ。

もうひとつ、この作品はエロヒム教を通し「宗教の持つ虚無」をも描き出す。西欧社会の経済的勃興は旧弊の宗教を完膚なきまでに放逐したが、しかしその空洞に代替されるべきものは存在せず、ただ「虚無」だけが残された。しかしエロヒム教は、「資本主義が重宝した若さと、それに伴う快楽の、永遠の持続を約束し」、それにより人類規模で受け入れられてしまう。だがエロヒム教の最終目的は「資本主義の消滅」と「人類の間引き」であり、それによる「人の苦しみから解放されたネオ・ヒューマン」の創造であった。つまり救われるのは「ネオ・ヒューマン」のみであり、それは即ち「人間/人類」は誰一人として救わない/救われないということなのだ。

「存在する苦しみ」から決して逃れられない人間存在と、そうして生きざるを得ない事への絶望、それを救うものさえない虚無。しかし、その懊悩に塗れた生の中に、決して「喜び」が無かったわけではない。その「喜び」は、容易く消え去ってしまう幻の如きものではあっても、それでも、人はその「喜び」にすがり、また出会えることを懇願してしまう。それが【可能性】ということである。ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』は、苦痛に満ちた生を描きながら、それでもなおその最後に、【可能性】の可否を追い求めようとする。それが発見できるのかどうかは分からない。しかし、それでも生は実存するのだ。

ええええッ!?なんとオレがライターデビュー、なのかッ!?/『ジョージ・A・ロメロの世界 映画史を変えたゾンビという発明』

ジョージ・A・ロメロの世界 映画史を変えたゾンビという発明

ジョージ・A・ロメロの世界 映画史を変えたゾンビという発明 (ele-king books)

映画の歴史を変えた男、ジョージ・A・ロメロとは何者だったのか 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)、『ゾンビ』(1978年)、『死霊のえじき』(1985年)の「ゾンビ」三部作により、映画の世界に「ゾンビ映画」という映画史に残る大発明をした男、ジョージ・A・ロメロ。 このたび、お蔵入りとなっていた幻の非ゾンビ映画アミューズメント・パーク』が発掘され、一般公開されることに。デビュー作『ナイト~』とブレイク作『ゾンビ』の間をつなぐ時期にあたる1973年に撮影された本作を基点に、改めてロメロという映画作家の本質に迫ります!

ホラー映画『ゾンビ』で映画史に名を残す監督ジョージ・A・ロメロ。そのロメロのお蔵入りになっていた映画、『アミューズメント・パーク』が発掘され、遂に公開の運びとなったんですね。そして公開を記念し、ロメロのこれまでの功績を振り返るムック、ジョージ・A・ロメロの世界 映画史を変えたゾンビという発明』が10月6日に発売されることになりました。

そしてなんと!このムックに、オレの書いた原稿が掲載されているんです!

タイトルは「ロメロのアンビバレンツを内包した映画『ダーク・ハーフ』」。ちなみに「フモ」でも「暗黒皇帝」でもなく本名で投稿してありますので、適当に探してみてください。いや~それにしても……

オレ、遂にライターデビュー、なのか~~ッ!!??

このブログも18年続けてきましたが、まさかきちんとした商業誌に原稿を書くことになるとは思いませんでした。だいたいこのブログを読めば分かると思いますが、オレは悪文だし、どんな事にも中途半端な知識しかありません。自分でもそれは十分分かってるので、プロのライターになりたいだなんて、ブログを始めてから一度も思った事はありません。気楽に好き勝手にダラダラ適当なことを書くのを趣味にしているだけのオッサンなんですよ。

しかしそんなオレのブログが出版元であるPヴァインの編集者さんの目になぜか留まったらしく、突然の原稿依頼が来てしまったんですね!人生何があるかわかったもんじゃないっすね!

とはいえ、これも何かの縁だし、一生に一度あるかないかの経験なので、お受けすることになったのですよ。もとより出版元がPヴァイン、音楽CDやEle-kingのweb記事には馴染みがあったので、それが嬉しかったというのもありますね。編集者さんによると、「ロメロといえば書き手がいつもの顔ぶれ(映画秘宝方面)で 固まりがちなので、 あまりそっち方面じゃない人にも書いてほしかった」ということでしたので、最も映画秘宝的じゃないオレのところに話が来たということなのでしょう。

そしてなんとかシコシコ書き上げて編集者さんにお渡しし、いよいよ出版日も近付き、編集者さんから完成版の詳しい内容を教えてもらうことになったんですよ。そしたらアナタ、その執筆陣の豪華さに頭がクラクラしてしまったんですよ!

《執筆者》伊東美和、稲継美保、ノーマン・イングランド、氏家譲寿(ナマニク)、宇波拓、恵木大(ヒロシニコフ)、上條葉月、木津毅、キヒト、児嶋都、児玉美月、後藤護、高橋ヨシキ、てらさわホーク、とみさわ昭仁真魚八重子、森本在臣、山崎圭司、山崎朋

どの方も誰もが知るプロ中のプロ、泣く子も黙るボスキャラ級の鬼ライターの方ばかりじゃないっすか!?そんな有名ライターさんたちの中にスライム並みにザコなオレがいていいのか……ッ!?

いや~なにこの壮絶なアウェー感。

最初は「オレの書いた原稿が世に出る!嬉しいのう!嬉しいのう!」と思ってたんですが、このメンツを見て「誰も……オレの原稿読まないでください……たいしたもんじゃないんで……」と布団の中で小さくなってシクシク泣いていたほどでした……。だいたい「執筆者プロフィール」の欄を読むとどのライターの方も華々しい活動履歴が書かれているところを、オレのプロフィールなんて「ブログとツイッターやってまっす!」だもんなあ!アホかっつーの!まあオレらしいと言えばオレらしいけどな(開き直り)!

とまあ、「オレ、遂にライターデビュー!?」などとふざけて書きましたが、ホントのところは「賑やかし」程度のものです。デビューもしてないしライターでもありません。今回のムックでも、本職ライターの方は知識も文章力も当然ハンパなく、「原稿料を貰ってきちんとした内容のものを書き、読者に広い知見を与えるというのはどういうことなのか」を思い知らされました。同じ土俵に立ってみると、それがいかに高い訓練を積み切磋琢磨して為されたものなのかが痛いほどに分かりました。

今回はたまたまだっただけで、今後このような形で商業誌に何かを書くなんてことも無いでしょう。でも原稿を書くのは楽しかったし、商業誌に自分の名前が載るというのはちょっぴり誇らしかったし、とてもいい思い出になりました。60も近くになり、こんな体験ができるとは思いませんでした。未熟で不遜極まりないオレですが、そのオレに素晴らしい機会を与えてくれたPヴァイン編集の大久保潤さん、本当にありがとうございました。

そんなわけで、素晴らしい執筆陣によって書かれた究極のロメロ本、コンパクトですが内容はギュッと詰まっていて、ロメロの事を網羅的に追求したこのムックが、なんとたったの1800円+税で発売です!オレの原稿に関しては見るべきものはないとは思いますが、この世界に数少ない『メモリの藻屑』ファンと「暗黒皇帝」ファンの方が(いるのか!?)オレ目当てだけに買ってくれても売り上げに貢献できるので嬉しいです!皆さまにあらせられましてはこぞって購入いたしましょう!

007的なるものとの決別/映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ (監督:キャリー・ジョージ・フクナガ 2021年イギリス・アメリカ映画)

f:id:globalhead:20211002140637j:plain

ジェームズ・ボンドが(ようやく)帰ってきた。2020年2月に公開を予定されながら、コロナ禍による数度の公開延期を繰り返し、この10月1日にやっと全世界公開を果たしたジェームズ・ボンド映画新作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ(以下NTTD)』である。

実はオレはダニエル・クレイグ主演による「新生ボンド・シリーズ」があまり好きではなかった。これまでのボンド映画よりもリアル寄りな作りにノレなかったのである。しかし今回の『NTTD』は公開を楽しみにしていた。公開を伸ばし伸ばしにされていたこともあるが、コロナ禍の前に製作された「最後のお祭り映画」だったせいもあるだろう。世界がコロナの災厄に見舞われる前の最後の能天気さを味わいたかったのだ。そんなわけで、今回はわざわざあまり観ることのないIMAX版で観たほどだ。

現役を退きジャマイカで穏やかな生活を送っていたボンドのもとに、CIA出身の旧友フェリックス・ライターが助けを求めにやってきたことから、平穏な日常は終わりを告げる。誘拐された科学者を救出するという任務に就いたボンドは、その過酷なミッションの中で、世界に脅威をもたらす最新技術を有した黒幕を追うことになるが……。

007 ノー・タイム・トゥ・ダイ : 作品情報 - 映画.com

今作のボンドは、いつも通りのボンド映画のように見せかけながら、これまでと全く違うボンド映画だった。これには驚いた。そしてそれは十分成功し、なおかつ優れた作品に仕上がっていた。これは、2006年の『007/カジノ・ロワイヤル』から足掛け15年間、5作に渡ってボンド役を務めてきたダニエル・クレイグ最後のボンド映画という面が相当に大きいだろう。

いつも通りのボンド映画、というのは、不死身の英国特殊情報部エージェント、ジェームズ・ボンドが、組織の仲間たちの力を借りながら、世界を股にかけてド派手なアクションを展開し、恐るべき巨悪を撃退するという通俗アクション映画としてのボンド映画である。今回も世界を滅ぼそうとするおっかないテロリスト集団が登場するが、狂った思想の中身とやり口が異なるだけでいつも通りの金太郎飴的な「恐るべき敵」ではある。

これまでとは全く違うというのは、今作が、前作『007/スペクター』で出会ったヒロイン、マドレーヌ・スワンとの愛をどう成就させどう結末に持ち込んでゆくのか、という点を中心的に描こうとしている部分である。ここに来てボンド映画は、遂に「愛に生きる男ボンド」を描き出そうとしたのである。確かにこれまでもボンド映画はロマンス展開を描いてはきたが、今回は2作連続でヒロインとのロマンスを掘り下げようとするのだ。

別に「愛に生きる男ボンド」だから素晴らしいなどと持ち上げたいわけではない。これまでの旧作ボンドは、言ってしまえば「飲む打つ買う」のマッチョなヒーローが主役だった。しかし60年代から始まったこのシリーズの、そういった男性原理中心の世界観が次第に顧みられなくなった現代において、今更「マチズモに彩られてきた007的なもの」を拡大再生産するわけにもいかなくなってしまった。さらに言うなら、既にもう、「007的なもの」など単なる懐古趣味的な骨董品でしかなくなってしまっている。新生クレイグ・ボンド・シリーズが、どこか懐古趣味的だったのもそこにある。

そんな中で「007フランチャイズ」をどうするのかとなれば、もはやこの路線でしかないではないか。ないのだけれども、それではもう、「007」である必要もなくなってしまう。つまりこの『NTTD』は、「007フランチャイズ」に自ら引導を渡してしまった恐るべき作品であるということができるのだ。ではクレイグ引退後のこの先はどうするのか?となると、それは知らない。「女性ボンド登場」なんて噂が立ったのも「マチズモに彩られてきた007的なもの」の再考なのだろう。

「007フランチャイズ」というビジネスはこの先も続くのだろうが、それはルーカス引退後の『スターウォーズ』シリーズのような白々しいものになるのかもしれない。そもそも、新生クレイグ・ボンド・シリーズにしても当初は白々しいものだったと思っている。とはいえ、「今考えられる最適解の007像」をきちんと描き出した今作は、新生クレイグ・ボンド・シリーズの白眉にして有終の美を飾る作品として完成していたと思う。