ローランド・エメリッヒが描く熾烈なる日米大海戦/映画『ミッドウェイ』

■ミッドウェイ (監督:ローランド・エメリッヒ 2019年アメリカ・中国・香港・カナダ映画

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1941年12月8日、ハワイのアメリカ軍事拠点である真珠湾を日本軍が奇襲攻撃し、これに併せ日本軍は連合軍に宣戦布告、太平洋戦争が開戦されることとなる。緒戦に敗退を喫したアメリカ軍は劣勢となり、この機に乗じて日本軍は軍事拠点を拡充するため多数の戦艦をアメリカの牙城へと送り込んだ。それは太平洋戦争の雌雄を決することになる戦い、ミッドウェイ海戦であった。

映画『ミッドウェイ』はこのミッドウェイ海戦を描く戦争映画だ。しかし、『ミッドウェイ』といえば、おっさんのオレからするとチャールトン・ヘストン三船敏郎らが出演した1976年公開の戦争映画をどうしても思い出してしまう、そのミッドウェイ海戦をテーマにした映画がそのまま『ミッドウェイ』のタイトルで再度制作され公開されるというから「なんで今しかもミッドウェイ?」と思ったのだ。だが、監督がなんとあのローランド・エメリッヒ。『インデペンデンス・デイ』や『2012』のディザスター・ムービーがお得意な監督ではないか。いやこりゃいったどんなことになるの?と思いオレは劇場に駆け込んだのである。

エメリッヒ映画『ミッドウェイ』は真珠湾攻撃から始まりミッドウェイ海戦へと至る日米軍の戦況の行方を、正確な戦時記録をもとにあくまで正攻法に描いた戦争映画となる。どっかの監督みたいに米兵同士の三角関係を持ち込んだ映画とは訳が違うのである(とか言って観てないんだけどね『パール・ハーバー』)(おい)(今度観ときます……)。登場する軍人たちも全て実名であり、その日米軍人たちをエド・スクラインパトリック・ウィルソンルーク・エヴァンスアーロン・エッカート、日本からは豊川悦司浅野忠信、國村準らが演じることになる。

このように配役はそうそうたるメンツだが、主要人物が多い分、ドラマ展開は大変慌ただしい。なにしろ上映時間138分の中で、太平洋戦争開戦前夜から真珠湾攻撃アメリカ初の日本本土攻撃であるドーリットル空襲、米諜報機関による日本軍暗号解読作戦、1942年6月5日のミッドウェイ海戦までみっちりと描くことになるからだ。しかも史実を並べるだけではなく、迫力に満ちた戦闘シーンを余すところなく描き、エンターテインメント作品としても申し分ない。これがアクション映画なら「全篇クライマックス!」ということになるが、史実を元にした作品でよくもここまで詰め込んだものだと思う(ただちょっと分からなくなった場面もあるのでもう一度観たい)。

徹底的に詰め込まれた膨大な史実と、リアリティを増す為の細かなエピソードの数々と、エンタメ作品としての説得力のあるアクションの全てを盛り込むため、その編集の様は鬼気迫るものになっている。情報量が多くカット割りも目まぐるしく、凄まじい戦闘シーンが海に空にドカンドカンと炸裂する。さらに人間ドラマも御座なりになることなくきちんと描かれているのだ。にもかかわらず映画を観ていても置いてけぼりにさせることなく、何かのダイジェストを見せられている気にもさせない。全てのものが過不足なく見せるべきものは徹底的に見せ集中力を持って描かれる。この驚くべき編集と製作ぶりはローランド・エメリッヒ監督の職人技が炸裂したものなのではないか。

あれこれ書いたがやはり注目すべきなのは迫真の戦闘シーンだろう。爆発、爆炎、死の弾幕、燃え盛る炎、もうもうと立ち上る黒煙、吹き飛ばされる兵士、墜落する戦闘機、沈んでゆく戦艦。これらの熾烈な描写の数々は破壊神ローランド・エメリッヒの面目躍如と言っていいだろう。特に恐るべき弾幕をかいくぐりながら日本軍空母に急降下爆撃をしかける米戦闘機のシーンの迫力は特筆すべきだ(なぜか『スター・ウォーズEP4』クライマックスにおける反乱軍によるデススター強襲シーンをちょっと思い浮かべてしまった)。

それにしても、歴史に疎いオレは真珠湾攻撃によってここまでアメリカが兵力を失い逼迫し、日本の攻撃に戦慄していたのだとは思わなかった。真珠湾の後は豊富な兵力で反撃していたと思っていたのである。しかし現実では日本の電撃攻撃によりアメリカは敗戦の瀬戸際まで追い込まれていたのだ。その雌雄を決する戦いがミッドウェイ海戦だったのだ。こうした太平洋戦争の真実と併せ、日米海戦の様をドイツ人監督が映画として撮ったというのもポイントだろう。この作品では日本を「敵役」ではなく公平な視点で描くこととなる(そういった部分で日本人としてちょっと面映ゆく感じた部分もあるが)。なんとなれば、本当に憎むべきものは「戦争」そのものであるのだから。

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僕らはもう負け犬なんかじゃない / 映画『きっと、またあえる』

■きっと、またあえる (監督:ニテーシュ・ティワーリー 2019年インド映画)

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■人生にとって本当に大事なもの

「人生にとって本当に大事なものってなんなのだろう」。あるショッキングな事件に見舞われた別居中の夫婦の元に、二人の学生時代の友人たちが集まります。楽しかったこと、悔しかったこと、彼らは学生時代の様々なエピソードを振り返りながら、この今、失くしてしまったものをもう一度手に入れようとするのです。インド映画『きっと、またあえる』は過去と現在を行き来しながら、笑いと涙の一大ロマンを描く作品です。監督は『ダンガル きっと、つよくなる』で世界的大ヒットを飛ばしたニテーシュ・ティワーリー。主演は『pk』のスシャント・シン・ラージプート、『サーホー』のシュラッダー・カプール

【物語】アニ(スシャント・シン・ラージプート)は妻マヤ(シュラッダー・カプール)と現在別居中、息子のラーガヴ(ムハンマド・サマド)を引き取り父子二人きりで生活していました。しかしそのラーガヴが生死にかかわる怪我で病院に担ぎ込まれ、アニの心は千々に乱れます。アニはラーガヴに生きる気力を与えるため、妻マヤと共に、懐かしい大学時代の旧友たちを呼び寄せます。そして彼らはラーガヴに輝きに満ちた青春時代の思い出を語り始めるのです。そこは1992年のボンベイ工科大学。エリートばかりのはずのその大学に、「負け犬」と呼ばれた連中がいたのでした。

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■現在と過去の二つの時間軸

物語は、現在と過去の二つの時間軸を行き来しながら描かれてゆきます。それは、エリートコースの人生を生き、悠々自適の生活を送っていたはずなのに、愛し合っていた妻とは別居し、息子にも思いやりのある父として接してあげられず、悔恨の中に沈む主人公アニの現在。そして、夢と希望を抱いて難関大学に入学し、変り者ながら気さくな連中と友情を育み、校内一の美女に心ときめかせていた学生時代の過去のアニです。お気楽な学生生活を送っていたアニと友人たちでしたが、彼らは校内で「負け犬」と呼ばれていました。それは、彼らが寮対抗で行われる競技大会で万年ビリッケツだったからでした。

まずこの、二つの時間軸を行き来しながら描かれる展開が非常に巧みであり、そしてスムースであることに驚かされる物語です。アニは病床のラーガヴに青春時代の物語を語りますが、そこで登場人物が一人増えるたびに、その本人が現在の姿で病床に現れ、青春時代の姿とオッサンになった現在の姿のギャップでいちいち笑わせてくれるんです(全然変わんないヤツもいるけどそれはそれでまた可笑しい)。でも彼らが一人また一人と現れるその様子は、なんだか『七人の侍』で猛者たちが一人一人登場してくるみたいで、とてもワクワクさせられるんですよ!

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■手に汗握る(そして笑わせる)ゼネラル・チャンピオンシップ

大学時代の彼らの楽しくお気楽な毎日は、いかにも青春ドラマしていて非常に和ませ、また笑わせます。あまりに下らないバカばっかりやっているもんですから、「名門大学の学生のくせしていったいいつ勉強してんだよ!」と突っ込みたくなるほどです。物語は彼らが寄宿する大学寮を中心として描かれますが、ここで思い出すのは同じく名門大学寮を舞台にしたインド映画の大名作『きっと、うまくいく』でしょう。しかし一見似通って見えるこの二つの作品は、『きっと、うまくいく』がランチョーという名の謎めいたカリスマの本質に迫る物語であったのに対し、『きっと、またあえる』ではイーブンな関係にある者同士の気の置けない友情ぶりが描かれてゆくことになるんです。

物語の核心となるのは寮対抗の競技大会、ゼネラル・チャンピオンシップです。「負け犬」とそしられる主人公たちが、この汚名をどう返上しチャンピオンと返り咲くことが出来るのかが描かれるんです。ここからは重いコンダラを曳く主人公たちのスポコン展開が……と思っていたら、おーいなんじゃその作戦はーーッ!?とズッコケさせられまくること必至です。ここからは笑いも加速し、同時にラストスパートへの緊張感もいや増してゆくんです。オチャラケも交えながらここまで緊張感を高められたのは、『ダンガル きっと、つよくなる』において手に汗握るレスリング試合の攻防を描いたニテーシュ・ティワーリー監督ならではの手腕でしょう。試合の駆け引きの巧みな描写と併せ、緩急自在な物語の駆け引きにも巧みなものを感じました。

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■”負け犬”たちの再生の物語

エリート校に入学し将来を約束された主人公らが、たかだか寮対抗試合ごときで「負け犬」だなどと気に病み憤慨するのはお門違いかもしれません。しかし、人にはそれぞれの「生きてゆく場所」があり、その定められた場所で「どう生きてゆくか」を選択してゆくしかないのだと思います。そしてその「どう生きてゆくか」がその場所で生きる人間の価値を左右するのではないでしょうか。エリートでありながら家庭の瓦解したアニは「どう生きてゆくか」を見失っていたのだと思います。あまつさえ、息子にすら「どう生きてゆくか」を伝える事ができませんでした。しかし物語ラストにおいて、過去と現在両方にその再生と赦免が描かれることになるのです。これは驚くべきシナリオ構成と言えるでしょう。

こうして物語は過去から現在に連綿として続く篤い友情を描きながら、その友情の物語を通して病床のラーガヴに生きることの大切さ、生きることの楽しさを伝えてゆくんです。それは同時に、エリートコースの中でアニが忘れかけていた、人生において本当に大事なものを思い出させる物語でもあったのでした。次々と語られるエピソードはどれもたおやかなほどに繊細かつエモーショナルであり、あるいは突拍子もない程とぼけていて、憎たらしくなるぐらい盛り上げ方と泣かせ方が巧みです。観ている間中、あたかも温かく心地よい感情の波のまにまを漂っているかのように心が豊かな気持ちになってゆく作品でした。この瑞々しい情感の在り方は、ある意味インド映画ならではなのではないでしょうか。映画『きっと、またあえる』は、長く記憶に残り語られ続けるだろう作品であることは間違いないでしょう。


映画『きっと、またあえる』予告編 

浅き夢見し

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Photo by Matheus Vinicius on Unsplash

誰も何も求めてもいないというのに「体調悪い!」とわめいていた昨日の続きを書くのである。いや、実のところ養生している効果が出て来たのか夏の暑さが引いてきたからなのか、今現在は以前よりは調子悪くない。絶好調では全然ないし好調とも言えないのであるが、なんとなく「嵐が過ぎ去ったのか……?」と辺りをキョロキョロうかがっている状態である。嵐が過ぎ去ったとは言っても周りはいろんなものが吹き飛ばされてたりなぎ倒されてたり冠水してたりしてるがな!

体調不良の理由はいろいろあろうが、まずひとつはやっぱりお酒の飲み過ぎだろうなあ。調子悪いとか言いながら毎晩酒盛りしてんじゃないよオレ!?一日DVD1枚観ながらビール1.5リットル飲むのを日課にしていたもんなあ。だいたい調子乗ってこんな記事みたいなことしてるからダメなんだよッ!ま、記事はちょっと盛ってたけどな!

反省して月曜からもう4日間お酒抜いてみたけどなんだか効果は出ているような気がする。酒を止めるつもりはないんだが、ウィークデイは抜いとくぐらいのほうがいいかもしれん。それはつまり週末は飲んでやるぜ!という意味だがな!(本当に反省してるのか?)

夏の暑さでやられたかなあ、という事も書いたが、実はオレの職業は現場作業員で、屋根こそあるが屋外の、夏も冬も外気と同じ気温の現場で仕事しているのだ。直射日光を浴びないだけまだマシだが、今年の夏も毎日30℃超えの気温の中で毎日仕事しておった。こんなに暑くても安全のためヘルメット・安全靴(爪先に鉄板が入っている)着用、作業着は長袖が義務付けられている。仕事で歩く距離は一日ほぼ2万歩です。ええもう毎日パンツまでずぶ濡れですよ……。毎年夏になると胃の調子が悪くなるのはこの暑さのストレスなのかもしれん(酒は春夏秋冬余すところなく飲んでるし)。今年は年齢的にいよいよこの暑さが耐えられなくなってきたのかなあという気がしてきている。だから自律神経やられたかなあと思ったのだ。

ところでこんな暑さの中で仕事をする時の秘密兵器があってだな。それは「空調服」と呼ばれるものなんだよ。作業着の後ろにバッテリー駆動の小さな送風機が二つ付けられているんだ。どこかで見たことがある人もいるかもしれないな。これが夏の暑さに結構役に立ってくれている。

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しかし上の写真で並べられている職種、「電工」「工事」「配達員」というのは分かるとして、「労働者」って、随分大雑把過ぎやしないか!?いったいなんの労働者なんだよ!?

ちなみにこの「空調服」は、見た目から想像してしまうような「間近で扇風機の風を浴びているような涼しさ」が得られるようなものでは全く無くて、「汗を若干早く気化させる」程度の役割しかないので、万能ではないし、着ていたってまだまだ全然暑い。無いよりはマシ、といった程度のものではある。

不調だった原因でもうひとつ考えられるのは、数か月前から眠りが浅かった、というのがあったな。オレは夜更かしはしないことにしていて、どんなに遅くても12時前には寝ることにしているんだが、それでも夜中の3時過ぎから1時間おきぐらいに目が覚めていたんだよ。そして朝も目覚まし時計よりも早く目が覚めていたんだ。調べると、これら「中途覚醒」「早朝覚醒」は、実は不眠症の症状だったのらしい。寝つきはいいもんだから自分が不眠症だとは思わなかったのだが、どうもそうなのらしい。これも深酒が原因だと思われるのだが、眠りが浅い分疲れが取れていなかったんだろうな。また逆に、疲れているとかえって眠れない、ということもあるらしい。つまりはそもそも疲れていたのかもしれず、その疲労が蓄積して不調だったのかとも思われる。

とはいえ、最近やっとこの症状から抜け出して、今は割とよく眠れるようになってきた。よく眠れるどころか、寝足りないぐらいで、ここ2、3日なんだか頭がホゲーッとしている。だからね、またぞろこんな時間にタラタラとブログなんか書いていちゃダメなんだよ!早く寝るんだよ!ってかもう眠いんだよオレは!だからこの辺で唐突に止めるんだよ!おやすみ!

58の夏、あるいは生きながらはてなに葬られ

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Photo by Edward Howell on Unsplash

今日9月9日はオレの誕生日だった。なんと58歳である。「ほぼ60歳」であり「お爺ちゃん」ないし「ジジイ」であり還暦のチャンチャンコの赤い色がうっすら透けて見えて来る年である。ちなみにアラサー、アラフィフなどという言葉があるが、「60近い」という言葉は何かと調べたら「アラカン」と言うのだそうな。「アラウンド還暦」という意味だが、アラカンと言えば嵐寛寿郎だろ、と思うオレはそもそもアラカンなのかもしれない。

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ついでに60歳について調べていたら「60 歳からの輝くセカンドライフ」などというネット記事に行き当たったが、60近くで輝くってなんだよ、もうどんより鉛色だよ、それとも蝋燭が燃え尽きる瞬間にひときわ明るく輝くというアレかよ、縁起でもねえッ!!誰が輝いてなんかやるもんかよッ!?と軽く激昂したのは言うまでもない。

ところで、今日が誕生日ではあったが、なんとなく、忘れていた。9月に入り「そろそろ誕生日かなあ」とは思っていたが、実際今日になってみると「あれ?今日だったんだっけ?」と、なんだかぼんやりと思い出した程度だった。こんな「誕生日エントリ」も以前は前々から用意して誕生日に更新していたもんだが、それ自体書くのを忘れていた。アラカンともなると、誕生日なんてその程度のものなのだ。まあ、これが毎日ループでもした日にゃあ、否が応でも「今日が(も)誕生日!」と思い出せるんだが!(全然嬉しくない)

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そんな訳で今日も押し迫ったこんな時間にヤッツケ仕事よろしくキーボードを叩いているのだが、今日中に更新間に合うのか?とも思うし、なにを無理してこんなことやってんだ、とも思うが、例年恒例にしている上、そもそも何のネタも無いブログなので、こういう時くらい何か書かないと面目が立たないのだ。誰に対するなんの面目なのかはよく分からないのだが、とりあえず16年もブログを続けてきた身としては、やることやっとかないと気持ちが悪いのである。

さてこうして58になったオレな訳だが、なにしろ、調子が悪い。毎年この「誕生日エントリ」には「年々頭も体も衰えていくばかりですよーエヘヘ」などとお気楽に書き連ねていたものだが、今回に限ってはもう、「58になったんだが、マジ調子悪いわ!」とウォーボーイズの如く雄叫びを上げてしまいたくなるほど絶不調である。

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特に今年の夏はヤバかった。抜歯のエントリを以前書いたことがあるが、あれからも歯と歯茎がどうにもヤバい状況であるのと、夏恒例の胃痛が今年はどうにも長引き3回も内科に通ったのと、さらに暑さにやられて今まで以上にバテ気味で、ちょっと自律神経やっちゃったかなあという症状が出ている。これらが波状攻撃を成し、実は6月あたりからあれこれと体調が優れない日々が続いていた。まあしかし、これらの不調は最近暑さが引いてきたのと同時に収まりつつあることはある。それと、そろそろ人間ドックの時期なので、真面目な話、そこで一回きっちり診てもらうつもりではある。

こんな体調なもんだからメンタルもHALO降下する『ミッション・インポッシブル』のトムクル並みに落ち続け、すっきりしない毎日が続いていたりする。

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ブログやらTwitterでは元気なふりをしていたがあれは全部虚勢である。毎週幾つかの記事を必ず上げるようにしているが、あれも幾つかは頭グラグラしている状態で書き上げた(アホちゃうかオレ)。特に「デヴィッド・リーン特集」をやってた時はゲロゲロだったなあ。「何でオレ、体調悪いのに無理してブログなんか書いてんの?」と涙目だった。「オレ、はてなブログに殺されるかもなあ、まあ自分で好き好んでやってることだけど、テヘペロ!」とちょっとお茶目に笑ってみせたりもした。それにしても、全く、なぜそこまで無理して、こんな誰も読まん零細ブログを書き続けているのか、オレにも分からない。分からないが、でもやるんだよっ!お前ら、オレのイキザマ見とけ!(見ないっつーの)

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とまあ、こんな具合の泣き言をこの間オレの相方にしていたのである。「相方たん、ボクチン調子悪いんだよおお。イイコイイコしておくれよおお」とかなんとか気色悪いことをほざいていたわけだ。すると相方、「辛気くせえことばっか言ってんでねえ!毎日毎日酒かっくらっといて調子悪いもクソもあっか!ご飯は栄養バランスの良いものをよく噛んで食べましょう!水分はマメに取るように!十分な睡眠が健康の源です!あととりあえず鬱陶しいから腕ひしぎ逆十字!」とオレに強烈なプロレス技をかけ、さらにその後キャメルクラッチからジャーマン・スープレックスへと華麗なる連続技を仕掛けてきたのである。

……気絶から目が覚めると、相方はいつものようにふんふんふ~んと鼻歌歌いながらスマホでエゾタヌキ動画を眺めており、さっきまでの激烈振りが嘘のようであった。嗚呼……心配してくれてんだなあ……愛されてんなあオレ……オレはそんな相方に涙ながらに感謝し、これからは養生することを心の中で誓ったのであった。やはり持つべきものは相方である。そんなことを思う58歳の誕生日であった。いや、ちょっと体には気を付けておきます。でわでわ。 

生きながらブルースに葬られ

生きながらブルースに葬られ

  • 発売日: 2014/09/10
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 

今頃ではあるが小松左京の『日本沈没』を読んだ。

日本沈没小松左京

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鳥島の南東にある無人島が、一夜にして海中に沈んだ。深海潜水艇の操艇責任者の小野寺は、地球物理学の田所博士とともに、近辺の海溝を調査し、海底の異変に気づく。以降、日本各地で地震や火山の噴火が頻発。自殺した友人を京都で弔っていた小野寺も、大地震に巻き込まれ、消息不明になるが、ある日突然、ナポリの消印がある辞表が会社に届いた。どうやら田所の個人研究所と関係があるようで…。日本SF史に輝くベストセラー。

今頃ではあるが、初めて小松左京の『日本沈没』を読んだ。オレは昔結構な小松左京好きだったのだが、この大ベストセラー小説だけは読んでいなかったのである。そしてこれが、なにしろ物凄かった。

改めて書くと、『日本沈没』は1973年、書き下ろし小説として発表され、上下巻380万部、その後も年月を経て460万部を超える大ベストセラーとなったSF小説である。物語はなにしろ、「日本列島が沈没してしまう」というものだ。テーマこそ荒唐無稽だが、物語は膨大な科学データと想像力を駆使し、「本当に」日本を太平洋へと沈めてしまうのだ。地震大国に生きる数多の日本人はこの物語を「もしかしたら……」と固唾を呑んで読み進めたことだろう。

初刊行時はオレは小学生だったが、超話題作だということはTVや雑誌を見てよく知っていた。映画化作品も何度も観た。TV版や、さいとうたかおによる漫画化作品にも触れていた。それだけ大ブームだったのだ。しかし、その後そこそこのSF小説ファンとなり、小松左京ファンとなったにもかかわらず、原作小説である『日本沈没』を読む事は無かった。映画等で物語をすっかり知っていたというのと、政治や国際社会も含めたシミュレーション小説のように思えて、ガキンチョのオレにはとっつき難く感じていたのだ。

そんなオレがなぜ今頃『日本沈没』なのかといえば、サブスクのアニメ化作品がいろいろな意味で話題になり、「そういや読んでないなあ」ということを思い出し、そろそろ読んどくかと数十年を経た重い腰を上げることになったという訳である。しかし、すっかり知ったつもりで読み始めた『日本沈没』は、それどころではない、とんでもなく重量級の物語だったのだ。

ここには、日本が沈没する、消えてなくなってしまうことに付随する、政治、経済、社会、世界情勢、さらにここに生きる日本人たちの、ありとあらゆるドラマが展開する。そして破滅に瀕すればこそ、「日本」という国の自然、文化、歴史が鮮やかに浮き上がり、「日本とはなんだったのか」「日本人とはなんだったのか」という文明論が展開することになるのだ。これらを作者は、膨大な情報量と圧倒的な知識、透徹した思想と文明史観でもって、微に入り細を穿ち、徹底的に描きまくるのだ。ここで描かれるのは沈みゆく日本だけではなく、世界全てなのだ。

こんな物語をたった一人の人間の想像力と筆力と情報収集力だけで生み出したとは、俄かには信じられないぐらいに凄まじい構成力がこの物語にはある。確かに最初想像していたようなシミュレーション小説的側面は大きいけれども、それよりも「なんとしてでも日本を沈める」という壮大な力技、実際には有り得る筈の無い超巨大地殻変動を有り得るもののように思わせる虚構の創出のしかた、その科学的ウルトラCの部分に、この物語のSF小説たる所以がある。

中盤の第二次関東大震災、さらに富士山噴火から先、否応無く沈んでゆく日本の運命が冷徹な筆致で描かれてゆくが、読みながら、オレは恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。そして最終的な科学データが、「あと8ヶ月で日本が沈む」と宣言した時に恐怖で打ち震えた。怖くて読み進めるのに躊躇した程だった。日本の1億1千万の人口(当時)を8ヶ月で退避させるなど不可能に決まっている。結果的に、沈没までに退避できた人口は8千万人、それでも膨大なものだが、逆に言うなら3千万人の日本人が物語の中で死ぬことになるのだ。

後半、日本のありとあらゆる土地が沈んでゆき、引き裂かれ、まるで生き物のように断末魔を上げてゆく。普段は「なーにがニホンだよ」とかスカしたことを思ってたくせに、「日本がずたずたに引き裂かれてゆく」という情景にここまで自分の胸が苦しくなるとは思わなかった。自分にとって日本ってなんなのだろう、とつい考えてしまった。ナショナリズムとかそういうのとは関係なく、日本で生きる事、日本人である事、そういったことに思いを馳せてしまう、そんな物語だった。

日本沈没』は小松左京の戦争体験から書かれたのだという。「一億総玉砕」の戦争スローガンの元、甚大な被害と犠牲者を出し焼け跡となった日本は、その後奇跡的な経済成長を遂げることになる。だがその繁栄もオイルショックによって不安の影が差す。この安寧と平和は結局見せかけのものに過ぎないのではないか。ここで小松は焦土と化した戦後日本に立ち返り、「国土を失うとはどういう事なのだろう」と思い書かれたのが『日本沈没』であったのらしい。そんな小松が『日本沈没:第2部』に着手しながらなかなか書くことができなかったのは、これ以上日本人に茨の道を歩ませることができなかったからなのだという。それはやはり、小松なりの、日本と日本人への愛だったのだろうと思えた。

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