引き続きデヴィッド・リーン監督作『ライアンの娘』『インドへの道』を観た【デヴィッド・リーン特集その4】

■ライアンの娘 (監督:デヴィッド・リーン 1970年イギリス・アメリカ映画)

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映画『ライアンの娘』は20世紀初頭のアイルランドの寒村が舞台となる。当時イギリス領であったアイルランドはイギリスに対して独立運動を繰り広げていた。物語の主人公は若き人妻ロージー(サラ・マイルズ)、彼女は赴任してきたばかりのイギリス人将校ランドルフ(クリストファー・ジョーンズ)と恋に落ちてしまう。そこにパルチザンによる武器搬入が発覚し村は大きく揺れ動く。

例によってリーン監督お得意の不倫ドラマだが、不倫であると同時に本来であればイデオロギー的に対立するもの同士の密会という事実がクライマックスに大いなる波乱を呼び込むことになる。つまり二重の意味で道義か愛かを突きつける物語なのだ。スパイ疑惑の掛かったロージーを裏切る父、吊るし上げる村民といった中で、不貞を働かれた夫だけは彼女を守り通そうとする。夫チャールズ(ロバート・ミッチャム)は妻の裏切りに苦しみながらも、人として彼女を守るのだ。ここにも愛と道義の確執を見て取ることが出来る。

こうして物語は人の心の醜さと尊さを同時に描き切り、強烈な印象を残して幕を閉じる。この物語における「異文化とのコミュニケーション」はイギリス人将校とアイルランド人の娘ということになるだろう。許されない恋ではあるけれども、二人は強烈な欠落感を胸裏に持ち(ロージーは結婚への失望を、ランドルフは戦争のトラウマを)、それを埋め合わせるために求め合ってしまう。二人のこの欠落感が道ならぬ恋をなおさら遣る瀬無いものにする。

今作ではアイルランドの寒々しく荒々しく、しかしどこまでも澄み切った美しい自然の描写がとことん描きつくされることになる。特に嵐のシーンでは、これはいったいどうやって撮影したのかと驚嘆した。195分。

■インドへの道(監督:デヴィッド・リーン 1984年イギリス・アメリカ映画)

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『インドへの道』は第一次世界大戦後の時代を背景に、当時英国植民地だったインドへ英国人の娘アデラ(ジュディ・デイヴィス)とその婚約者がやってくることから始まる。インド滞在の英国人たちはインド人に侮蔑的だったが、アデラは対等に接しようと心掛け、インド人医師アジズ一行と洞窟見学旅行に出る。しかし洞窟の中で「何かを見た」アデラは錯乱し、アジズはレイプ疑惑をかけられ裁判となるが、それはインド人差別だとして街は巨大な騒乱となる。

ここでの「異文化とのコミュニケーション」はイギリスとインド、宗主国と植民地との困難な対話を描くこととなる。物語では双方が歩み寄りを見せつつまた破綻し、英国とインドの一筋縄ではいかない関係を伺わせる。

そしてもう一つ、作品内では明瞭に描かれない「アデラが洞窟で見たものは何か」ということだ。これは物語を注意深く観てゆくと分かるのだが、婚約者との間で積もり積もったアデラの性的欲望/欲求不満が異邦の男アジズとの行動により発露し、しかしそれがなんなのか理解できない為に心理的に破綻を起こしたと言う事なのだろう。つまりアデラが洞窟で見たものは己の性的幻影だったのだ。

実はデヴィッド・リーン作品の多くには「人間は性的存在である」というテーマが隠されているように感じる。人はそもそもが性的存在であるが往々にしてそれを無視してしまう。それによる軋轢もまたリーン作品に描かれる事が多いと思う。さて今作においてはインドがその舞台となるが、インド映画好きのオレが観てもその描写の在り方は的確だったのように思う。ちなみにこの作品は『ライアンの娘』から14年ぶりに製作された作品であり、そしてデヴィッド・リーンの遺作となった作品でもある。

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戦争という名の虚無/映画『戦場にかける橋』【デヴィッド・リーン特集その3】

 ■戦場にかける橋 (監督:デヴィッド・リーン 1957年イギリス・アメリカ映画)

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デヴィッド・リーン監督作『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』は観ていなくともこの『戦場にかける橋』を観たことのある方は多いのではないか。なぜならオレもその一人だからだ(全部自分基準かよ)(ロレンスとジバゴはこないだやっと観た)。 と言ってもオレが観たのは大昔、正月の晩か何かにTV放送していたものだった。そんな『戦場にかける橋』を最近のデヴィッド・リーン・ブーム(オレの中で)の一環として数十年ぶりにブルーレイで観直してみたのだが、いやーどうやら殆ど内容を忘れていたことが発覚、逆に新たな気持ちで鑑賞することが出来た。

『戦場にかける橋』は第二次世界大戦中、タイ/ビルマの国境地帯に置かれた日本軍管轄の捕虜収容所が舞台となる。この捕虜収容所にはイギリス兵らが収容され、強制労働によってクワイ川を渡る鉄道橋を建造させられていた。しかし新たに捕虜となったイギリス軍大佐ニコルソンと捕虜収容所長・斎藤との間に対立が起き、ニコルソンのサポタージュにより橋建設は暗礁に乗り上げる。斎藤はニコルソンを懐柔し建設は順調に進むかに見えたが、そこに連合軍による橋爆破計画が進行していた。

『戦場にかける橋』は戦争を題材にした映画ではあるが、戦闘シーンのスペクタクルを描くのではなくメインとなるのは捕虜と収容所側との対立である。こういった題材は映画『大脱走』をはじめあれこれあるとは思うのだが、『戦場にかける橋』は一種独特だと思ったのは、捕虜と収容所側とに「交渉の余地」が持ち込まれるといった部分だ(他にもそういった戦争映画があるのかもしれないけど知らないんだ、ゴメン)。

もうひとつ独特だったのはある意味敵役である日本軍を血も涙もない殺戮機械としては描いていないという部分だ。交渉する同士の立場がある意味同等に描かれるのである。日本軍大佐斎藤は喜怒哀楽を持ったキャラとして肉付けされ、冷徹ではあってもどこか人間臭い。例えば他の戦争映画であれば、これがドイツ軍だったらもっと冷酷無比な悪鬼の如きキャラとして描かれはしないか。またこれがベトナム軍だったら十把一絡げの有象無象として描かれないか。それは相手が一方的な「悪」だったり「敵」だったりするからだ。しかしこの作品では双方のコミュニケーションの在り方を描こうとする。ここでもデヴィッド・リーンらしい「異文化とのコミュニケーション」といったテーマが発露しているのだ。

逆に言うなら、融通が効かないとはいえ、この作品における日本軍は随分物分かりがいい描かれ方をしていて、実際の戦争ではこんなものだったろうか?という疑問も湧いたりはする。大日本帝国軍はもっと狂気に満ちた存在として描かれないとどうも納得いかない、というのは自虐史観か?とはいえ、なにしろ主題が「異文化とのコミュニケーション」なのだからこういった体裁になるのは当然なのかもしれない。映画というフィクションである以上、リアリズムそれ自体はまた別の話となるのだ。それと、この作品を観て思い出したのは『戦場のメリークリスマス』だが、テーマ的には似て非なるものがあるような気がする。

そしてやはり、あまりにアイロニカルなあのクライマックスだろう。「異文化とのコミュニケーション」をひとつのテーマとしながらもその最期に徹底的な死と破壊を持ち込むことでこの作品は戦争映画として一級の輝きに満ちている。それは戦争という名の虚無である。これはキューブリックフルメタル・ジャケット』でもコッポラ『地獄の黙示録』でも成し得なかった透徹した物語性なのではないのか。少なくともオレの中で「戦争映画」というジャンルの見方が刷新された作品であった。 

 

砂漠を愛し、アラブの民を愛した男/映画『アラビアのロレンス』【デヴィッド・リーン特集その2】

 ■アラビアのロレンス (監督:デヴィッド・リーン 1962年イギリス・アメリカ映画)

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デヴィッド・リーン監督作『アラビアのロレンス』。やっと観た。やっと観た、というのは要するに生まれて初めてやっと全篇通して最後まで観た、ということである。子供の頃TV放送していたのを最初だけ観た記憶があるが、なにしろ全部観てない。とりあえずロレンスがバイクで事故死することだけは分かった。

その後いい歳のオッサンとなり「やはりこの作品だけは観ておかないとまずいか」と思いソフトを買ったのが2012年10月(アマゾンに履歴があった)。その時買ったのが「アラビアのロレンス 製作50周年記念 HDデジタル・リマスター版 ブルーレイ・コレクターズ・エディション」というヤツで、これはオリジナル207分より長い227分の「完全版」だった。観始めると、雄大な砂漠と広大な砂漠と遠大な砂漠がどこまでもどこまでも……。気が遠くなったオレはディスクをバカ映画に替えて気持ちを取り直し、それ以降観る事は無かった。ただ、とりあえずロレンスがバイクで事故死することだけは分かった。

そんな『アラビアのロレンス』をソフト購入後8年経ってようやく観終ったという訳なのである。感想?面白かったに決まってるじゃないか!しかしロレンスが最後バイクで事故死するなんてショック!……それにしても、この作品くらい有名で不動の評価を得ている名作中の名作について、今更何か書くのって無意味なような気さえするのだが、とりあえずなんか思いついたことを書いておこうと思う。

この映画、なにしろビックリさせられるのは本当にどこまでもどこまでも続く砂漠のロングショットなのだ。地の果てまで続くかと思わせるその砂漠の地平線の彼方に、なにか豆粒みたいなものがゆっくりゆっくり動いている……と思ったらそれはラクダに乗った人影なのだ。画面全体が巨大な窓の様になり、その向こうに実際の砂漠が広がっていて、そこに本物の人がいるようにすら見えるのだ。その圧倒的な臨場感がこの作品のひとつのキモとなるのだ。こんなの見せられると、「劇場の、なるたけ巨大なスクリーンで観たい!」と思うに決まってるじゃないか。こんなにTV画面で観るのがもどかしい作品は他にない。

この遠景ショットは一つの人影から小隊へ、さらに何百というラクダ騎乗部隊へと描かれるたびに増えてゆき、今度は画面を埋め尽くすそのモブの数に驚嘆させられる。画面いっぱいに写し出される雄大な砂漠の次は画面いっぱいの、見渡す限りの人、人、人!特にロレンス軍のアカバ奇襲作戦シーンは、膨大なラクダ兵の群れが砂漠の彼方から大津波の如く町に押し寄せ町を飲み込んでゆくという様子を遠景から写し、その凄まじい臨場感にTVの前で「あ・あ・あ!!」と変な声を出してしまったぐらいである。

大昔の超大作はエキストラの数で驚かされることがあるが、この『アラビアのロレンス』もまた迫真の撮影法も相まってその圧倒的な量に兎に角驚かされる。昨今の映画は砂漠もモブもCGでなんとかしてしまうのだろうが、やはりホンモノは歴然と違う。映画監督クリストファー・ノーランはホンモノを使った撮影にこだわることで有名だが、『アラビアのロレンス』を観れば分かる、ホンモノは違う、だからホンモノで写すんだ!少なくとも映画を志し『アラビアのロレンス』に感銘したことのある者ならば、誰もが皆そう思うのではないか。スピルバーグやスコセッシを始めとする有名監督がなぜデヴィッド・リーンを支持し尊敬するのか、この『アラビアのロレンス』を観れば理解できる。

この作品における「異文化とのコミュニケーション」は言うまでもなく英国人であるロレンスとアラブの砂漠の民とのコミュニケーションである。『ドクトル・ジバゴ』を観た時も思ったが、リーン監督は画面に現れる異文化、異邦人をあくまで対等の相手として、歪みや曇りの無い目で映し出そうとする。それ自体がリーン監督の物を見る目、他者に対するポリシーであるかのようだ。当時アラブの民をこの作品の様に人間性溢れた者として描くことの出来た欧米映画はあったのだろうか。

さて主人公であるロレンスだ。ロレンスは軍隊でも変わり者として描かれる。砂漠を愛し、砂漠の民を愛しているのらしい。彼の稚気に溢れ公平で屈託の無い態度はアラブの民の心を容易く開き友愛の念すら抱かせる。こんなロレンスのをピーター・オトゥールが演じるが、それにしてもなんてイイ男なんだ。オレはちょっと惚れそうになったぞ。しかし映画の中におけるロレンスは、風変わりが過ぎるのか、あまりに屈託が無く陰影に乏しく感じて、オレにはどこか理解しがたいものを感じた。なんだか人間離れしているというか、愛すべき人物の様には思えても、なにか血肉を持った人間の様に感じなかったのだ。

そのロレンスは後半捕虜となり虐待を受けることでダークサイドに入ってしまい、自傷を繰り返し遂にはオスマン帝国軍の虐殺まで指揮してしまう。しかしこのスイッチのオンオフみたいな機械的な変節の在り方は演出不足・説得力不足に感じてしまった。ラストは失意の中にあるロレンスが描かれることになるが、ある程度史実をなぞっていたのだとしても、前半の華やかなまでの瞬発力と躍動感が失われどこか尻すぼみになって終わるような印象になってしまい、この部分で不満が残るんだよなあ。なんかこう、カタルシスがさあ。とはいえこうしたアンチクライマックスの形をとることで、T・E・ロレンスという人物を神格化したヒーローではなく、アラブとの対話に最終的に失敗した軍人として描き、その後のアラブ外交の困難さまでうかがわせようとしたのだろう。

 

時代に翻弄され数奇な運命を辿る男女の愛を描いた歴史ロマン/映画『ドクトル・ジバゴ』【デヴィッド・リーン特集その1】

ドクトル・ジバゴ (監督:デヴィッド・リーン 1965年アメリカ・イタリア映画)

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ロシア革命を背景に、時代に翻弄され数奇な運命を辿る男女の、許されぬ愛とその行方を描いた作品である。197分。物語は帝政ロシア時代から始まり、第一次世界大戦を経て、ロシア革命、その後の暗い全体主義国家体制へと変遷しつつ、主人公ジバゴの流転する人生と、美しい娘ラーラとの秘められた恋とが、溢れ返るようなロマンで描かれてゆくのだ。

今回いろいろデヴィッド・リーン監督作を観たけれど、実はオレはこの作品が一番好きだ。『ロレンス』でも『橋』でもなく『ジバゴ』が好きなのだ。なぜかって、この作品にはロマンスがあるじゃないか。それと「ロシア革命」ってのがいい。革命前夜の異様な熱気と、革命が成就してもやっぱり嫌な社会にしかならなかったというアイロニーがいい。それとロシアの寒々しい雪の情景がまたいい。オレは北海道生まれだから雪原や雪に覆われた街並みを見ると妙に落ち着くんだ。これら雪の情景はデヴィッド・リーン印のロングショットでたっぷりと描かれ、あたかもその場所に居合わせたかのような臨場感を覚えさせるんだ。これがまたうっとりさせられるんだよ。素晴らしいよ。

この作品において主人公ジバゴは能動的な行動を殆ど起こさず、ただ流されてゆくだけのように見えてしまうが、それはジバゴもまたこの時代に生きた大勢の人々とまるで変わらない、巨大な時代の変換点の中で成す術もなく生きざるを得なかった人間だ、ということじゃないのか。「そんな運命だった」と言うしかない物寂しさ、悲哀がこの物語なんだと思うんだ。そしてラーラとの恋は、それは確かに不倫ではあるのだけれども、でもそれは医療班として前線に残された二人の、ぎりぎりの不安と孤独を払拭するために身を寄せ合った結果じゃないか。それは正しくはないのかもしれないけれど、でも、とても人間臭いことではないかとオレは思うんだ。

そしてロシアを舞台にしたロシア人が主人公のこの物語がどう「異文化とのコミュニケーション」なのか。それはこんな作品を、イギリス人監督がハリウッドで撮った、ということだ。米ソ冷戦下の時代に西側諸国の人間がロシア人の人生を美しくもまた高らかなロマンの薫りを込めて描き、それを西側諸国の観客が絶賛をもって受け入れたのだ。つまり映画自体がロシアという異文化とのコミュニケーションを促したということはできないだろうか。

そして時代は流れ、ジバゴの名も、ラーラの名も歴史の中から消えてゆき、また慌ただしく新しい時代と、新しい人々が生まれてゆく。映画は冒頭とラストにおいてそんな無常観と共に、彼らが育み橋渡しした新世代の胎動とを描く。生々流転する人生、運命、誰にも止められないそんな大きな流れの中で、ささやかな愛を語り合った二人の姿、それはこの世界で生きた、あるいは生きている誰もと同じ姿である、とオレには思えてしかたなかったんだよ。いい作品だよ!素敵だよ!オレは大好きだ!ちなみにあのキャスリーン・ケネディがこの映画が好き過ぎて25回だか観ているらしい!

デヴィッド・リーンにハマってしまった【デヴィッド・リーン特集:序章】

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ついこの間まで家で積みDVDばかり消化していた。見栄を張って買ったはいいがまるで観ていなかった名作系の映画ばかり観ていたのである。その時に観た映画はこちらのエントリで紹介した。

とはいえ、観ていない積みDVDはまだまだ残っていて、「いやもうそろそろ観念してこれも観た方がいいんじゃ……」とDVDジャケットとしばし睨めっこした作品があった。それは映画史に燦然と輝くデヴィッド・リーン監督作品『アラビアのロレンス』、さらに『ドクトル・ジバコ』であった。『アラビア~』にしろ『ドクトル~』にしろ、冒頭をチョイと観て「おお、重厚だ、確かにこりゃ名作だ」と確認はしたのだが、なにしろ冒頭チョイのままずっと棚に仕舞われていたのである。だってさあ……長いんだもん……そして雄大な自然描写がさあ……ちょっとダルくなってくるんだもん……。

とかなんとかグズグズ言いつつ意を決して最後まで鑑賞したところ、これが、もう、半端なく面白かった。掛け値なく、これこそ名作だ、と思った。同時に、オレは実は、こんな映画をずっと観たかったんじゃないのか、オレが映画に求めていたのは、本当はこれだったんじゃないのか、とすら思った(熱くなりすぎ)。思い込みの激しいオレはすぐさま他のデヴィッド・リーン監督作のDVDやらブルーレイを買い揃え、いまやデヴィッド・リーン映画漬けである。

ところでデヴィッド・リーン作品に目覚めちゃったオレではあるが、これら過去の名作だけが真の映画だと言いたいわけではない。これら50~60年代に作られた映画の、そのテンポや話法やフィルムの質感が、子供の頃食い入るようにして観た「〇〇映画劇場」みたいなTVの映画番組を思い起こさせて、和むものを感じるということなのだ。ある意味年寄りの郷愁が混じっているのだ。だから若い人は過去の名作になんか拘らず、もっと現代的でビビッドな映画、それに限らずなにしろ自分の観たい映画を観ればいいんだと思う。「〇〇〇を観てないの!?」とか言う連中は単なるマウント廚だから当然全無視だ。

ちょっと脱線したが、明日から5日に渡ってグダグダとデヴィッド・リーン作品全7作を紹介してみようかと思う。なにしろ世界的巨匠による有名作品ばかりなので、オレごときが今更何か付け加えることも無いのだが、ひとつ気付いたのは、デヴィッド・リーンの監督作というのは、どれも「異文化とのコミュニケーション」を描こうとしたものだということだった。その辺も絡め、お暇な方はお付き合いください。