【ネタバレあり】善悪という二元論的な観念への揺さぶり/映画『キャプテン・マーベル』

■キャプテン・マーベル (監督:アンナ・ボーデン & ライアン・フレック 2019年アメリカ映画)

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■要注意:今回は【ネタバレあり】です!

アベンジャーズ/インフィニティー・ウォー』ラストのあの惨劇から1年。今年5月に公開されるその続編『アベンジャーズ/エンドゲーム』への重要な架け橋となる作品『キャプテン・マーベル』が公開されました。オレも早速劇場に足を運びましたが、今回は【ネタバレあり】ってことで感想を書いてみます(『インフィニティー・ウォー』ラストも含む)。そんな訳なのでネタバレ回避されたい方はここでブラウザを閉じましょう!

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■強い!強すぎるぞキャプテン・マーベル!

『インフィニティー・ウォー』クライマックス、宇宙最凶のヴィラン・サノスの計略により「宇宙の全生命が半分にされる」という未曾有の大殺戮が実行されました。自らもまた消滅しつつあることを知ったニック・フューリーは、宇宙を救うであろう最後の頼みの綱となるある人物に助けを請います。その人の名は、キャプテン・マーベル。

まずなんといってもこのキャプテン・マーベル、『インフィニティー・ウォー』ラストのその最後の最後に突然名前が出され、「これっていったい誰のこと!?」と相当にゾワゾワしましたよね!?アメコミに詳しい方ならお馴染みなのでしょうが、オレには全くの白紙の存在だった。劇場を出てすぐさま検索したんですが、そこに登場したのは凛とした闘志を秘めた女性ヒーローの姿でした。

映画『キャプテン・マーベル』に対する期待と興味というのは、「そもそもどんなヒーローなのか?」「ヒーローたちがあれだけかかって倒せなかったサノスへの最後の切り札になるこのキャプテン・マーベルっていったいどれだけ強いのか?」そして「どうして今までMCU世界に登場しなかったのか?」ということになるんじゃないでしょうか。そういった部分で映画『キャプテン・マーベル』は期待と興味の尽きない作品として登場した訳なんですね。

そして映画はこれらの疑問全てに見事に応えてくれる作品でした。なんといってもねアナタ、このキャプテン・マーベルハンパなく強いです。「これもう殆どチートだろ!?」と思っちゃうぐらいの強さです!彼女なら「完膚無きヒーローの敗北」を喫した『インフィニティ・ウォー』の雪辱を果たし、『エンドゲーム』においてサノスへ壮絶な逆襲をかけるであろうことを大いに期待していいでしょう(まあ意外とアントマンがとんでもない活躍をする予感もあるが)!また、今のところ弱点の見当たらない最強カード、キャプテン・マーベルを、都合のいいデウスエクスマキナにしないためにどう描いてゆくのかも『エンドゲーム』の楽しみでもあります。

■善悪という単純で二元論的な観念への揺さぶり

とはいえこのマーベル姐さん、最初から最強状態で登場するわけではありません。彼女がどう自らの力に気付きその能力を最強のステージにまで発揮できるようになるのか?が映画『キャプテン・マーベル』の物語となります。

しかしそういった「気付き」と「学び」の物語(?)であると同時に、この作品には独特のストーリーテリングが存在しています。それは「善悪という単純で二元論的な観念への揺さぶり」です。

物語は冒頭、遠い銀河のどこかにおける惑星間戦争が描かれます。クリー人と呼ばれる人たちが、侵略者スクラス人と戦っていたのです。このとき、キャプテン・マーベルはまだヴァースという名のクリー人特殊部隊員です。クリー人対スクラス人の戦いは地球へと飛び火し、ヴァースはたった一人スクラス人の追っ手と戦うことになります。

実はこの冒頭、オレには相当退屈でした。描写が、ではなく設定が退屈だったのです。またぞろ「悪」の侵略者に抵抗する「正義」の軍団の戦いかー、これって世界の警察・覇権国家アメリカと政治的にテロ国家と名付けられた他の国とのパラノイアックな戦争行為をメタファー化したいつものアレじゃんかよーって思えちゃったんですよ。ここでどれだけ「正義」が振りかざれようと、結局はアメリカの自己正当化と自己満足の代替行為でしかなかったりするんですね。

なーんて心の中でブツブツ言いながら観てたら、なんと真相は逆だったことが判明します。実際はヴァースの属するクリー人が侵略者であり、スクラス人はその犠牲者でありさらにヴァースを追ってきたスクラス人はその戦争による難民だった、ということだったんですね。

■命というものに対する愛の力

ここで冒頭に提示された「善と悪」との「絶対的な二元論」が突然崩壊を見せるんです。この辺の描き方は実に今日的であると同時にスーパーヒーロー作品としても斬新です。例えば昨今の国家間政治状況において単純な「善悪」など存在しません。あるのはお互いの抱える政治的思惑であったり経済的背景であったりします。それは国家という大きな枠組みの間で行われますが、その構成要素であるひとつひとつの人々にとっては、戦争は惨禍でしかありません。その中で人々は死に、悲惨な難民が生み出されるのです。

映画に登場するスクラス人はその戦争による難民であり戦争被害者です。これを知ったヴァースは、己が惑星国家の一兵卒/国家権力の尖兵であることを止め、難民救助という「己自身の中にある正義」を遂行するために持てるだけの力を使おうとするのです。そしてそれはかつての仲間や上司との戦いをも意味するものだったのです。

ここで映画のクライマックス、キャプテン・マーベルとなったヴァースがなぜかつての特殊部隊リーダー、ヨンの命を奪わなかったのか、敵艦隊を全滅させなかったのかが理解できます。キャプテン・マーベルの戦いにおける第一義は難民救済であり、敵殲滅という戦闘行為にはなかった、ということです。そしてキャプテン・マーベルはスクラス人の安寧のために自らも付き添い、宇宙の彼方へと旅立つのです。これにより『キャプテン・マーベル』の物語が単純な「正義対悪の戦い」を描くものではなく、「虐げられた者を救い出来るだけ寄り添おう」とするヒーローのものであることが提示されるわけです。

スーパーヒーローの物語はとかく「善に仇なす悪を成敗する」ものとして描かれますが、「その大きな戦闘の中で虐げられた者の救済」は忘れられがちです。そしてキャプテン・マーベルはそれら「虐げられた者」を救うため力を振るいます。それは命というものに対する愛の力でもあります。映画『キャプテン・マーベル』は主人公の痛快極まりない強大な力をとことん楽しむことのできる作品ですが、同時に、主人公の持つ強大な愛の在り処をも描いた作品だったともいえるのではないでしょうか。


「キャプテン・マーベル」日本版本予告