第1次世界大戦の惨禍により醜く歪んでしまった友情/映画『天国でまた会おう』

■天国でまた会おう (監督:アルベール・デュポンテル 2017年フランス映画)

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2017年にフランスで公開された映画『天国でまた会おう』は第1次世界大戦の惨禍により醜く歪んでしまった友情と、昏い狂気に冒された復讐を描く作品である。それはこんな物語だ。

第1世界大戦終結間際の西部戦線。戦場で友情を培ったエドゥアール(ナウエル・ペレーズビスカヤート)とアルベール(アルベール・デュポンテル)は、プラデル中尉(ローラン・ラフィット)から不条理な突撃命令を受ける。激しい砲弾の最中エドゥアールはアルベールの命を救うが、代わりに自らは顔半分を失う惨たらしい怪我を負う。そして終戦。アルベールは命の恩人エドゥアールの世話に尽力するが、貧困がアルベールを苛み、エドゥワールもまた心を病んでいた。ある日エドゥワールは詐欺計画を思いつくが、その矛先はいつしかエドゥワールが心の底から憎む父と終戦後財を成したプラデル中尉へと向けられてゆく。

原作は『その女アレックス』でも有名なピエール・ルメートルの同名小説。また、監督・脚本のアルベール・デュポンテルは同時に主演俳優としても登場している。

極めて心を揺さぶる作品だが、同時に、奇妙な味わいを持つ作品でもある。まずどういったジャンルの作品なのか、と伝えるのが難しい。愛と憎しみ、悲嘆と復讐の念とが渦巻く人間ドラマであり、詐欺事件を描く犯罪ドラマでもあるが、にもかかわらずどこか現実離れした、いびつなファンタジーの様相も呈しているのだ。それは顔半分を失った男エドゥワールにもともと芸術の才があり、彼が常に自らの作った様々な仮面を着けて登場するからである。顔と同時に声も失ったエドゥワールは、それら仮面を着けることでその時々の感情を訴えかけているとも言える。そして歪んだ表情を浮かべるそれら仮面の姿が、物語に現実から遊離しているかの如き幻想味を与えているのだ。

同時にこれは終戦を境に何もかもが変わってしまった社会と、そこから取り残されてしまった男の悲哀を描く物語でもある。エドゥワールは狂気に冒され犯罪を企てる。悪人プラデル中尉は詐欺まがいの事業で財を成し左団扇だ。エドゥワールの憎んでいた強権的な父は息子が死んだと思い込み始めて自らの愛に気付く。そんな中、終戦後職を失った主人公アルベールはサンドイッチマンとして糊口をしのぎ、明日をも知れぬ生活を続けている。登場人物誰もが良きにせよ悪きにせよ別の運命を選択する中で、アルベールだけが宙ぶらりんの人生の中で途方に暮れているのだ。

アルベールが不幸と悲嘆を抱え込むことになったのは、それは彼が小心者の善人であったせいでもあった。結果的にはエドゥワールの犯罪の片棒を担ぐことになるが、それも命の恩人であり惨めな傷痍兵であるエドゥワールを捨て置けないという止むに止まれぬ理由があったからだった。戦争は何もかもを醜く変えてしまい、そんな中力を持たぬ市井の男でしかないアルベールは善人であるがゆえに世の中から取り残されてしまう。そしてただ一人の友人は狂った犯罪者なのだ。

作品タイトル『天国でまた会おう』は冤罪で銃殺刑になったある兵士の妻にあてた手紙からとったという。これは真の幸福は既にこの世界には無いという絶望についての言葉だ。戦争の悲惨の中で後戻りできない運命を歩むことになってしまった者たちが、もはや手にすることの出来ない幸福だった世界を取り戻すことができるのは、それは天国、つまりは死後の世界にしかない。しかし、様々な陰惨な運命を描くこの物語で、アルベールがやっと見つけた「自らの運命」がささやかな恋だった、というのがこの作品に救いをもたらしている。それは、どんなに厳しくあろうともこの地上にしか幸福を求める場所は無いのだ、ということでもあったのだ。

 

天国でまた会おう(上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

天国でまた会おう(上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 
天国でまた会おう(下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

天国でまた会おう(下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)