橋本治最後の時評集『思いつきで世界は進む』を読んだ

■思いつきで世界は進む――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと / 橋本治

思いつきで世界は進む ──「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと (ちくま新書)

今年1月末に亡くなった橋本治の時評集『思いつきで世界は進む――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』はPR誌「ちくま」の2014年7月号から2018年8月号までの巻頭随筆をまとめたものだ。生前から準備されていたものの発行が2月6日、はからずも橋本さんの遺作みたいな形になっちゃた本である。オレもずいぶん前に予約していたから、橋本さんの死を知ったときは「あーこれが最後の本になるのかー」とちょっとしんみりした。

内容はここ数年の社会や政治の折々を、「遠い地平を俯瞰的に眺めて、想像力だけを地に下して現実を低く見る」ことを指針として書かれた、4ページほどの短いコラムが50編集められたものになっている。掲載は執筆時系列ではなく、「バカは忘れたころにやってくる」「いったい日本はどこへゆく」「誰もが話を聞かない時代」「思いつきで世界は進む」「世界は一つなんて誰がいった?」といった5章のテーマに分けて編集されている。

ざっくりどんなことが書かれてるかと言うと、それぞれの章タイトルを見れば判るように、橋本さんが昨今の訳の判らない社会や政治の状況に「なんなんだよこれは!」と苦言を呈し、「なんでこうなっちゃったんだろう?」と考察をして、「いったいどうするつもりなんだよ!」と喝を入れる、といういつもの感じになっている。

でまあ、読み始めたときは「頑固爺さんのお小言」ってヤツだな、てな印象だった。橋本さんを知らない若い人が読んだら「うるせーなこのジジイ」で終わっちゃうような内容のものも幾つかあったりする。しかしそこは橋本さん、もちろん爺さんの床屋談義みたいなもので終わっていない。舐めてかかっていたら4ページという短い文章の中でダダダッと物事を掘り下げて見せ、「だからこういうことじゃんかよ!」と言ってみせる。

この「世を憂う頑固ジジイ」の文章のあり方ってなにかに似てるなと思ったら、それはカート・ヴォネガットだった。晩年のヴォネガットのエッセイも、世を憂う爺さんの小言に満ちていて、ヴォネガットは大好きな作家だったが、ことエッセイに関しては「言いたいことは判るけど爺さんちょっとうるさい」と思いながら読んでいたものだ。爺さんのお小言が「うるさい」のはそれが「もっともなこと」だからだ。「もっとも」だとは思うけど、「現実はそうじゃないし」と言い訳したくなるのだ。

しかし、こんな橋本さんのスタンスが明快に示された一文があった。

「現実は現実、批評は批評」で、批評が「現実」なんかになる必要はないんだ。現実はいつでもいい加減で、だからこそ「非現実的な発言」である批評が意味を持つ。(中略)非力だから力を持つというのが、批評の力でしょう。だから私の言うことは、現実と関係がない。

「批評のポジション」p.93

ああ、橋本さんの批評の在り方ってそういうことだったのか、とちょっと思った。 「現実はそうじゃないし」なんていちいち修正を入れていたら結局は中途半端な、つまるところ何も言って無いような文言になってしまう。橋本さんは「正しさ」の人だなあ、と以前から思ってたけど、実は橋本さんは「正すべきだ!」とか「正したい!」とか言っているわけではない。ただ、「正しくあるべき形ってこうだよね?」と理想形を挙げておいて、「じゃあどうすればいい?」と問い掛けていた人だった。

現実や歴史が実際に「正しくあること」など、それが「いつでもいい加減」な諸相なのだから金輪際有りはしないだろう。けれども、何も変わらなくて良い訳ではない。そこに「非現実的な発言」を差し挟むことで、おかしな現実をあぶり出し「変だって気付こうよ」と橋本さんは言いたかったんだろう。橋本さんの文章がある種の「論壇」にそぐわなかったのはこういった側面があったからなのかな。