アイツは無口なラーメン屋

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(※写真のラーメンは本文とは関係ありません)

■上京したての頃、魚とラーメンが不味くて食えなかった

オレが北海道のド田舎から東京に上京してきたのは18の時だから、今からもう38年も前のことになる。あの頃、実家ではよく食べていたのに、東京に住むようになってから食べられなくなったものが2つある。それは魚とラーメンだ。ざっくりした理由を言うなら、不味かったからである。

まず魚だ。実家にいた頃は、なにしろ北海道の漁港の町に住んでいたせいで、水産物はいつでも豊富に食卓に上っていた。市場が近いので安く手に入るというのもあったが、親戚や身の周りに水産関係の仕事をしている人間が多く、ほぼタダ同然で手に入ったのだ。だからまず、上京してから「水産物をお金を出して買う」という気にまるでなれなかった。

そして東京の魚屋でよく見かける魚は美味そうではなかった。もちろん日本の中心部である東京には、ありとあらゆる種類の新鮮な水産物が水揚げされていて、それが北海道に劣ることなど決して有り得ない。そうではなく、いわゆる関東の近海モノの魚、特に小魚系というのが、どうにも貧弱に見えて、食べる気がしなかった。試しに食べてみても、やはり満足感に乏しいものだったのだ。

それとは別に、北海道でさんざん魚ばかり食べさせられていたので、飽き飽きしていたというのも大きい。好きだったら多少値段が張ったって買って食べていただろう。だからお寿司はあの頃も普通に好物で食べていたし、サンマやサバは、これも好物だったのでたまに思い出した時に買っては焼いて食べてはいた。とはいえなにしろ、東京に来てから魚を食べる量はがっつりと減ったことは確かだった。

■縮れの無い細麺がオレにはダメだった

そしてラーメンである。今はラーメンと言えば、家系がどうとかとんこつ醤油がこうとか魚介系スープがアレで麺の太さがコレだとか、様々バラエティ豊かに行列までできるほどのブームになっていたりするようだが、オレが上京した38年も前というのは、そういったものは存在していなかった。

別にラーメン文化史というものがどういうことになっているのかは知らないのだが、当時はラーメンといえば塩・醤油・味噌・豚骨といったスープと、ワンタン麺かチャーシュー麺かタンメンかあんかけ風かといったぐらいのトッピングの差しか選択肢はなかったのではないだろうか。そもそも、豚骨スープの店自体、東京ではほとんど見かけなかった。

当時東京では、一般的に醤油ラーメンが多かったのではないかと思う(まああの頃のオレの狭い観測範囲内の話なので違ってたらゴメン)。今なら「昔ながらの」とよく表現されるあの醤油ラーメンだ。で、オレにはこの東京の醤油ラーメンというのが、まるで口に合わなかったのである。あっさり目の醤油スープが物足りなかったし、なにしろあの、微妙に細くて縮れの無い真っ直ぐな麺というのが、オレには全くダメだった。

なぜならオレが北海道で子供の頃から食べていたラーメンというのは縮れ麺オンリーだったからだ。スープは味噌味が鉄板だったし、それが醤油だったとしてもラードでギラギラに輝いていた。要するに東京で食うラーメンは、オレの食い慣れたラーメンとは別物だったということなのだ。だからここで注意してほしいのは「自分には食べ慣れたものと違っていたから不味かった」ということであって、当時の東京のラーメンを食べ物として全否定する意図は全くない(今ではこんな「昔ながらの」醤油ラーメンをうめえうめえと言って食ってる位である)。

とはいえ、そんな東京のラーメンでも、「お、これは」と頷ける美味いラーメンが無かったわけでもない。1つは昔住んでいたアパートの近くにあったラーメン屋だった。他のラーメン屋と何がどう違う、ということを30年以上経った今思いだすことは困難なのだが、なにしろ当時はこのラーメン屋ならイケるな、と思ったことは間違いない。しかもそのラーメン屋で出されるのは醤油ラーメンだった。醤油ラーメンでもあれほど気にいったのだからよっぽどだったのだろう。そんなラーメン屋だったが、程なくして店を畳んでしまい、オレはまたしてもラーメン難民となってしまうのだが。

そしてもう一つが、今回話題にしたかった、「無口なラーメン屋」である。ラーメン屋、というかそれはラーメン屋台だった。

■ラーメン屋台のアイツは無口な男だった

上京したての頃、オレは新聞配達をしながら専門学校に通っていた。新聞奨学制度というヤツである。そしてその新聞屋の3階建てほどのアパートに下宿していた。その新聞屋にはやはり新聞配達をしながら学校に通う何人かの先輩がいて、あれやこれやと世話になっていた。酒やつまみや牛丼を買う使いっ走りもやらされたが、そんな時は全て先輩のおごりでオレの分も買ってもらっていた。

そんな先輩の一人にある晩、「今日はラーメン食いに行こっか」と誘われたのだ。当時住んでいた町には小さな大学があり、その学生寮の近くに美味いラーメン屋台がいつも出ているのだという。

くだんのラーメン屋台に辿り着くと、寮生と思われる若いお兄ちゃんが既に何人かたむろして、ラーメンができるのを待っていた。ラーメン屋台を取り仕切るのは、これもどう見ても若い、20代かせいぜい30台に手が届くかといった風情の男だった。体型は細身で中くらいの身長、仕事のせいか顔はいつもうつむき加減で顎はしゃくれ気味、髪は縮れたパーマで服装は普段着のまま、まあどこにでもいるような地味な外見だった記憶がある。

しかし、この男の動作と仕草が、独特だったのである。そしてこの男、一切喋らないのだ。メニューは醤油ラーメンただひとつ。連れていってくれた先輩が「ラーメン2つね」と告げると男は無言で腕を上げ人差し指と中指で「2」の数字を作って確認する。それから麺を湯がくわけだが、この時の動きというのが、なにか舞いでも舞っているかのような奇妙な動きを見せるのだ。それは上半身全てを使ったリズミカルなもので、この一連の動きの流れの中に、麺を絶妙のタイミングで茹で上げる過程全てが詰まってことなのだと後で思えた。

踊るように素早くラーメンを湯がき、スープの用意された丼にそれを入れ、さらにチャーシューを乗せる。このチャーシューを乗せる仕草すらも彼のダンスの一連の動きの中のひとつだった。そして出来上がり、出されたラーメンを割った割りばしで手繰り上げハフハフすすってみると、これが、美味い。これも何がどう、と今現在説明できはしないのだけれど、とにかくあの時、「こりゃ美味いラーメンだな」とびっくりしながら食った覚えがある。

そんなラーメン屋に、後から来た客が、「チャーシュー倍にできる?」と聞いた。すると男は、やはり無言で、ダメダメ、と手で仕草をする。そしてその後小声で至極面倒くさそうに、「スープの量と同じ数しかチャーシューは用意していないから」といった内容の事をぼそぼそと告げる。まるで喋ることができない訳でもないらしい。ただ、喋るのが億劫というのではなく、美味いラーメンを作る、ただそれだけのことに全ての神経を集中したい、そしてそれ以外のことは興味が無い、といった男の内実がなんとなく透けて見えた。要するに、芯から職人風情の男なのだ。そして、職人たろうと切磋琢磨したその成果に、あの美味いラーメンがあったのだろう。

ラーメンの味をたっぷり堪能し、スープまで全部飲み干して、先輩とオレはラーメン屋台を後にする。「ごちそうさま」と声をかけると、男は顔をあげることもなく、やはり小さなぼそぼそした声で「あざす」とかなんとか言った。そしてまた、次の客のために、クルクルと舞うかのごとく麺を湯がき始めるのだった。

下宿していた新聞屋は、店主と衝突して、3ヶ月ぐらいで別の店に行かされることになってしまった。若気の至りってやつなんだろう。あのラーメン屋台にはそれまで一二度行ったような気もするが、その後どうなったのかは知るすべもない。あれから39年、東京のラーメン屋もいろんなバラエティが増え、好みによって様々なラーメンを楽しむことができるようになってきた。オレも今は週1ぐらいにはどこかのラーメン屋でラーメンを食ってたりするのだが、それでも時々、あのラーメン屋台のことを思い出す。そして「あそこのラーメン、ホントに美味かったなあ」と想いを馳せてしまうのだ。

(おわり)