"正義"の発見〜映画『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』

■皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ (監督:ガブリエーレ・マイネッティ 2015年イタリア映画)


永井豪原作のロボット・アニメ「鋼鉄ジーグのことは憶えている。資料によると1975年にTV放送されたということだが、当時「テレビマガジン」かなにかの子供向け漫画雑誌で連載を読んでいたような気がする。磁石で関節がくっついたり離れたりする玩具も持っていた。このギミックは楽しかった。ただしTVアニメは観たことが無い。当時オレの住んでいた田舎では放送されなかったのだ。田舎では民放が2局しかなくて、その枠の中に無かったのである。だから実は、マジンガーZもグレンダイザーもゲッター・ロボもTV放送されておらず、観たことが無い。機動戦士ガンダムはオレの田舎でも放送されたが、その頃にはロボット・アニメを楽しんで観るような年齢ではなかった。

そんな「鋼鉄ジーグ」の名を冠した映画が公開されるという。イタリア映画なのらしい。ヨーロッパでは日本製ロボット・アニメが大流行したことがあるというから、そんな流れの中にあるのだろう。内容はロボットが登場する訳ではなく、スーパーヒーロー映画なのだという。

物語は放射性廃液を浴びて超人となったチンピラ、エンツォが主人公となる。だがそもそもチンピラなので、超人となってもその力を活かして泥棒稼業に精を出すだけだ。だが、あるきっかけで知り合った「鋼鉄ジーグ」の熱狂的ファン、アレッシアを悪漢から助け出したことにより、彼女から「鋼鉄ジーグ」の如きスーパーヒーローだと目されてしまう。そんな折、エンツォの働きを快く思わない犯罪者組織のリーダー、ジンガロが死の罠を巡らそうとしていたのだ。

こんな粗筋だけからだと、あたかもアメリカのマーベルやDCコミックのようなスーパーヒーロー・ドラマが展開するように思われるかもしれないが、実はそんな一筋縄な物語ではない。主人公エンツォはなにしろ小汚いなりをした中年のコソ泥でしかなく、スーパーパワーがあるからといって正義を成そうなどとはちいとも思わない。中盤からちまちま善行を見せはするが、それもアレッシアにほだされてなんとなくやってみた程度だ。犯罪組織と戦いもするけれども、それも正義のためというよりも、連中が五月蠅く絡んできたからである。結局、あくまで個人主義的な男なのだ。スーパーヒーローということであれば、デッドプールあたりに近いかもしれない。

問題となるのは、ヒロインにあたるアレッシアだ。彼女は母親の死により精神を病み、アニメの世界に閉じこもり、現実とアニメの世界の区別がつかなくなっている女性なのだ。「鋼鉄ジーグ」を再生するポータブルDVDプレイヤーを取り上げられると暴れ、常に架空の登場人物と架空の世界の話ばかりしている。彼女はスーパーパワーを持つエンツォを彼女の愛する「鋼鉄ジーグ」と重ね合わせるが、それは彼女の知っているものであれば仮面ライダーでもスパイダーマンでもなんでも構わなかったのだ。どちらにしろ、彼女の「妄想」でしかなかった架空のスーパーヒーローが、エンツォという実際にスーパーパワーを持った男の出現によって「肉体化」されてしまう、というのがこの物語だ。ちなみにこのアレッシア、結構オッパイポロリするので眼福である。

そして、最初はスーパーパワーをコソ泥にしか使わなかったエンツォが、アレッシアの「妄想」により"ヒーローである"という人格を付加され、「自分が何者であるのか」を見出し、自らもその「妄想」の中の住人として、すなわちヒーローとして生き始める、という展開を見せるのだ。最初は「強大な力」でしかなかったものが、「鋼鉄ジーグ」というヒーローの名をつけられることにより、自らのアイデンティティを決定するのである。ここでは、アメコミ・スーパーヒーローのような、"善"や"悪"といった事柄が、アプリオリな、演繹的証明の必要のない自明的な事柄としてあらかじめ位置づけられていないのだ。即ち、正義なるものが、当為なのではなく、それを「発見」してゆくまでの過程、それを描いたものが映画『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』だったのだ。だからこそこの作品は、アメコミ・スーパーヒーロー映画と一味も二味も違う作品として完成しているのである。
http://www.youtube.com/watch?v=YZEn4k_cmVk:movie:W620