カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだ

■人みな眠りて / カート・ヴォネガット

人みな眠りて
カート・ヴォネガットの没後10年だという。ヴォネガットの死に際してはこのブログに弔辞めいたものを書いたことがあるので(カート・ヴォネガット氏死去 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)、そうか、このブログ自体もう10年以上書いているのか、というヴォネガットと全然関係ない感慨まで抱いてしまった。
その没後10年に合わせたわけでもないだろうが、この度ヴォネガットの未発表短編集『人みな眠りて』が刊行された。ヴォネガットがまだ駆け出しの作家だった頃、タイプしたまま引き出しに仕舞いっぱなしだった没原稿集だという。実は2014年にも同じ初期没原稿集『はい、チーズ』が刊行されていたのだが、まだまだ残っていたということらしい。この『はい、チーズ』についてはこのブログでもこんな感想を書いた。

今は亡きヴォネガットのお蔵出し短編集『はい、チーズ』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

この『人みな眠りて』の帯には「これでお別れ。最後の短編集」といった惹句が書かれているが、訳者あとがきを読むと実はまだ訳出されていない落ち穂拾い的な書籍が幾つかあるのらしく、多分これもいつか刊行されるのだろう。
どちらにしても以前出た『はい、チーズ』にしろこの『人みな眠りて』にしろ作者の没後に発見されたお蔵入り原稿集ということなのだが、"お蔵入り"だったにも関わらず質の高い短編が並んでおり、"クオリティが低かったので今まで発表されなかった"というのとはわけが違う。多分ヴォネガット自身にとっては「生活費の為に書き飛ばした三文小説」とばかりに個人的な評価が低かったのだろうが、そもそもが高いテクニックを持った作家の作品だけに、どれも遜色なく"読ませる"作品なのだ。確かに生前発表されていた長編や短編集と比べるとシニカルさや批判の度合いがかなり薄められており、「ヴォネガットならでは」といった作品ではないにしろ、逆に「ヴォネガットだからこそ」高水準な作品だったりするのである。そういった癖のなさ、といった点では、ヴォネガット・ファンにもそうでない人にも十分楽しめる作品集となっている。
個々の作品をそれぞれ紹介することはしないが、なにしろ全体的にヴァラエティに溢れ、さらに短編ならではの軽妙で軽快な作品が多く並ぶ。若干オチの伝わりにくい作品もあるのだが、その辺は没原稿の愛嬌ということで良しとしよう。どの作品にも共通するのは、どこか問題があったり、人生の厳しい岐路に立たされたりする登場人物たちへの、ヴォネガットの暖かなまなざしを感じる部分だ。かつてヴォネガットは亡父に「おまえは小説の中で一度も悪人を書いたことがなかったな」と言われたというが、人はそれぞれに已むに已まれぬ理由と事情を持ち、時としてどうしようもない運命に直面しなければならなくなる存在である、というヴォネガットらしい人間への共感と同情がそこにあるからなのだろう。
もうひとつ感じたのは、これらの作品が書かれたアメリカ50年代の、その戦後景気に沸く輝かしい黄金時代の雰囲気が如実に伝わってくるという部分だ。ひょっとしたらアメリカの50年代は、その豊かさと楽観性において人類で最強の時代だったのかもしれない、とすら思わせる。もちろんこれは"アメリカ中流白人にとっての"という但し書きが付き、実際は冷戦の存在と激動の公民権運動が繰り広げられていたことは忘れてはならないけれども、こと"アメリカ中流白人"にとって、大量生産と大量消費、それを支える雇用と給与の充実による、最も成功した資本主義経済の恩恵を預かっていただろうということは間違いないと思う。
この『人みな眠りて』の原稿を書いていた時代のヴォネガットは、好景気を反映して高額の原稿料で高級紙にその短編を掲載していたというが、そういった読者層に合わせた作品であることを考えれば、「豊かで安定した国アメリカ」がまず前提にあったとしてもおかしくはない。ただ実際の当時のヴォネガットは個人的にも家庭的にもあれこれ問題を抱えていたらしく、そうした生活と「豊かで安定した国アメリカ」という世相の間に乖離があったであろうという想像もできる。そして第2次大戦における彼のドレスデン従軍体験は、これらの豊かさと楽観性を、単なる幻想にしか過ぎないと看過していたことだろう。
ヴォネガットはこうして「アメリカ黄金の50年代」の豊かさを描いた短編小説を家計の為に書き飛ばしながら、大量生産と大量消費の果てにある資本主義社会ディストピアを描いた処女長編『プレイヤーピアノ』を遂に書き上げるのだ。こうした作家史の一環を垣間見せるといった点でも、この作品集の存在はユニークと思えるのだ。

人みな眠りて

人みな眠りて

はい、チーズ

はい、チーズ