異質な思想背景を持つ社会集団同士の対立〜ヴィゴ・モーテンセン主演映画『はじまりへの旅』

■はじまりへの旅 (監督:マット・ロス 2016年アメリカ映画)


映画『はじまりへの旅』はアメリカ北西部の森林地帯で社会を拒絶しながら生活するある一家が、家族の死をきっかけに町へ出ることにより騒動に巻き込まれる、といった物語だ。主演はヴィゴ・モーテンセン

ヴィゴ演じる父親ベンは6人の息子・娘と共に森の中で自給自足の生活を営んでいた。ベンの厳格な教育により、子供たちはずば抜けた体力と知力を兼ね備え、さらに父親譲りの自由な考えを持つ人間に育っていた。しかし都市部に入院していた母の死を知り、一家は都会に出ることを余儀なくされる。だが資本主義社会と束縛に満ちた社会通念を真っ向から否定する彼らは行く先々で騒動を起こす。そして、仏教式の火葬を望んでいた母がキリスト教式の埋葬をされると知った時、彼らの怒りは頂点に達する。

映画を観ながら最初に思ったのは「ヒッピーコミューンの現代版かいな」という事だった。「伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とし、また、文明以前の自然で野生生活への回帰を提唱する人々*1」を指すヒッピーは、60年代後半に巻き起こった若者たちのカルチャー・ムーブメントだった。それは大まかにいうならベトナム戦争とそれを引き起こしたアメリカ社会へのアンチテーゼという意味合いもあった。

ただ『はじまりへの旅』の登場するベン一家とヒッピームーブメントが違うのは、そこにカルトの匂いがしない事と、薬物と(なにしろ家族だから)フリーセックスが存在しないことだろうか。原始的な自給自足体制の中で生活する彼らはどこかアーミッシュ社会と通じるものもあるが、アーミッシュがその根幹にキリスト教教義があるのに対し、ベン一家の信条とするのは「社会と資本からの自由」ということであったのだろう。ベン一家は強靭な肉体と強烈な理論武装でもって社会の個人への思想的拘束を全否定していた。

しかし映画が始まってしばらく経つと、主人公ベンの信条がどこか矛盾を孕んでいることに気付かされる。原始的な生活を営んでいるとはいえ、彼らの使うサバイバルナイフも、ロッククライミングに使う登山道具も、彼らが乗り込むバスも、さらには様々な知識と思想の書かれた本も、それら全ては豊かな資本が生み出したものだからだ。資本とは搾取であり貨幣とは悪習であるという思考から万引きするというのも、結局は生産者からの搾取行為ということになってしまう。要するにちぐはぐであり、言ってしまえばこじらせたインテリのニューエイジごっこにしか思えなくなってしまうのだ。

さらに言ってしまえば、人間社会から隔絶した世界で高邁な理想だけを子供たちに叩き込んだところで、子供たちの生きていける世界はその隔絶した世界だけでしかなくなってしまう。社会性の皆無なオレが言ってもなんの説得力もないが、人間は一応社会的な生き物でもあるわけで、そこを教えないのなら実践の存在しない理論だけを頭に貯め込んでしまうだけではないか。

……などということをブチブチ思いがら観ていたのだが、この物語においてベン一家が争点とする重要ポイントが「妻(母)の埋葬」の在り方である、という部分で、「あ、これはネオヒッピーのニューエイジ物語とちょっと違うな」ということにようやく気付いた。埋葬の在り方、というのは信教の在り方、ということである。しかし、死んだベンの妻は仏教徒だから、という説明はあるが、ベン一家仏教徒であることも他の信教があることも特に説明されない(またはオレの見過ごしかもしれない)。

ここで、宗教を特定しないのなら、それは信教の形で抽象化された「別の何か」なのであり、さらにはネオヒッピー的な生活描写すら、実は通念的な社会とは異質な「別の何か」を象徴化したものなのだと言えないだろうか。その「別の何か」とは異質な思想背景を持つ社会集団のことであり、その社会集団と通念的な社会との衝突を描こうとしたのがこの物語ではないかということだ。

これは例えば、欧米キリスト教社会とイスラーム教社会であり、社会共産主義国家と資本主義国家であり、その他人種や性差、社会階級を含むあらゆる対立項にある社会集団を暗喩したものがこの物語だったのではないかと思うのだ。大風呂敷を広げたように思われるかもしれないが、この作品はアメリカ映画であり、即ちこれは、もうひとつの「アメリカ現代社会の縮図」を描こうとしたものではないのだろうか。そしてその縮図の中で、「それぞれが自由でいられること」を模索しようとしたのがこの作品だったのではないか。

それともう一つ、この映画の原題は『Captain Fantastic』となっているが、これは、英国のポップ・スター、エルトン・ジョンが1975年にリリースした名作中の名作アルバム『キャプテン・ファンタスティック(Captain Fantastic and the Brown Dirt Cowboy)』の同名曲から採られているのではないだろうか。この曲はエルトン・ジョンをなぞられた"キャプテン・ファンタスティック"と彼の盟友である作詞家のバーニー・トーピンをなぞらえた"ブラウン・ダート・カウボーイ"が、いかにショウビズの世界で悪戦苦闘しながら彼らの居場所を築こうとしたかが歌われるが、これは映画の主人公ベンこと"キャプテン・ファンタスティック"と、彼の家族である"ブラウン・ダート・カウボーイ(ズ)"が、いかにこの社会で悪戦苦闘しながら彼らの居場所を築こうとしたかに重ね合わせられているような気がするのだが、これは牽強付会だろうか。とはいえ、邦題の『はじまりへの旅』って、映画を観終っても何のことかよく分からなかったが。


はじまりへの旅  【サントラ盤】

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キャプテン・ファンタスティック+3

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