大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】

■Shree 420 (監督:ラージ・カプール 1955年インド映画)


大都会ボンベイ(現ムンバイ)への長い道のりをトコトコと歩く男がいた。彼の名は身なりは貧しいが表情はどこか明るく輝いている。きっと田舎から夢と仕事を求めてやってきたのだろう。彼は自分の心の様を描いたような歌を歌いだす。「おいらの靴は日本製 履いてるズボンはイギリス製 頭の赤帽ロシア製 それでも心はインド製(「mera joota hai japani」)」。ラージ・カプール主演・監督により1955年公開された映画『Shree 420』はこんな具合に始まる。共演となるヒロインはラージ・カプールと16作の映画で共演したというナルギス。自分もこの間二人の共演作『Awaara』(1951)を観たがとても素晴らしかった。また、この作品はシャー・ルク・カーン主演『ラジュー出世する(Raju Ban Gaya Gentleman)』(1992)のオリジナル作品となっている。

主人公の名はラージ(ラージ・カプール)。夢と希望に燃えボンベイに辿り着くも、どこにも職は無いわ持ち金は掏られるわ、路上で寝ようにも金を要求されるわで早速都会の厳しさを思い知らされる。そんな彼だったが質屋で出会った娘ヴィディヤー(ナルギス)と恋に落ちてしまう。ヴィディヤーは下町で教員を営むが、彼女もまた貧しい暮らしをしていた。ラージはようやくクリーニング屋の仕事を見つけるが、洗い物の届け先に住む踊り子の女マーヤー(ナディラー)にトランプの腕を見込まれ、いかさま賭博の片棒を担がされるようになる。みるみるうちに大金をせしめるようになったラージは、正直者の顔を失い、あぶく銭に奔走する詐欺師と化してしまう。だがそんな汚れきったラージを、ヴィディヤーは決して快く思わなかった。

タイトルの「Shree 420」とはインド刑法の詐欺・不正行為を罰する法律セクション420に由来し、「詐欺師」とか「いかさま野郎」とかの意味になるのだろう。これは物語の最初で真っ正直な男として登場した主人公が都会の汚濁に染まりいかさま野郎と化してしまう様子を表したものなのだろう。物語で象徴的に描写されるのは、ムンバイに着いたばかりの主人公が質屋で「正直者コンテスト優勝メダル」を質入れしてしまう部分だ(もともと住んでいた村で獲得したものらしい)。いわば魂を大都会という名の悪魔に売り渡したというところだろうか。こういった象徴性も含め、物語は半ば寓話的な構成を成しているように思えた。物語では常に単純な対立項が描かれる。金持ち/貧乏人、正直者/よこしまな者、利己的な者/他者を思い遣る者、といった具合だ。これらは即ちモラリズムについての言及であり、さらには当時のインドの理想主義を体現したものだということなのだろう。

こうして主人公ラージの魂はムンバイという魔都を彷徨いながら善悪の狭間で揺れ動く。それはメフィストフェレスに魅入られたファウストであり、煉獄を道行くダンテである。ではグレートヒェンでありベアトリーチェであるものが誰なのかというとそれがヴィディヤーなのだ。彼女は罪悪に染まったラージの魂を照らす【善良さ】として登場する。これは同じラージ・カプール監督作品『Awaara』において、悪に染まった主人公ラジをヒロインであるリタが【希望】の象徴となって救済するのと似ている。これらはまた貧困からの救済を意味し、それが『Shree 420』においては【善良さ】という部分で説かれているのだ。確かに善良であるだけでは貧困から逃れることはできないかもしれない。それではこの【善良さ】とはなんなのかというと、冒頭で高らかに歌われる「心はインド人」であるということ、即ち「善良であろうとするインド人のプライド」ということになるのではないだろうか。

こうした役を演じる主演者二人が素晴らしい。ラージ・カプールは冒頭では無邪気で朴訥な田舎者の顔で登場しながら、中盤からはタキシードで身を包む涼しげな目つきの伊達男へと様変わりする。この鮮やかな変化に演者の力を見た。主人公キャラクターはチャップリン映画『小さな浮浪者』に影響を受けたものらしく、この『Shree 420』自体は純然としたコメディではないにせよ、弱者への同情や悲哀といった点で共通するものがあるだろう。一方ナルギスは清廉潔白すぎる役柄というきらいがあるにせよ、主人公ラージを時に鼓舞し時に叱咤し、主人公の心を大いに揺り動かすファム・ファタールとして神通力はこの作品でも如何なく発揮されていたように感じた。この二人がベンチでチャイを飲むシーンでのやりとり、そして雨の中傘を差しつつ歌うシーンは圧巻だった。