顔に火傷跡がある娘とそれを知らずに恋をしてしまった男との恐るべき顛末〜映画『Satyam Shivam Sundaram』【ラージ・カプール監督週間】

■Satyam Shivam Sundaram (監督:ラージ・カプール 1978年インド映画)

■顔に大きな火傷跡がある娘

顔に大きな火傷の跡がある娘と、それを知らず彼女に恋をしてしまった男。1978年ラージ・カプール監督作『Satyam Shivam Sundaram』は、そんな奇妙で困難な愛を発端としながら後半一転、狂気に満ちた展開と思いもよらぬ凄まじいパニック描写を見せてゆく恐るべき作品だ。タイトル『Satyam Shivam Sundaram』の意味は「真理、善と美」という意味になるらしい。いったいこんな粗筋を持つ物語でどんな真理と善と美とが語られてゆくというのだろうか。主演はシャシ・カプール、ヒロインにズィーナト・アマーン。今回は全体的にネタバレしているので「これからどうなっちゃうんだ!?」とハラハラしながら観たい方は(本当にハラハラしどうしです)読まない方が懸命かも。

《物語》インドの農村で暮らす娘ルパ(ズィーナト・アマーン)は子供の頃煮えた油を顔に浴び、右頬から首にかけて醜いケロイドを残していた。そんな彼女だが、その歌声は類稀な美しさを秘め、村にやってきたダム技術者のランジーヴ(シャシ・カプール)もそんな歌声に魅せられた一人だった。ランジーヴは歌声の主を求め、ルパを見つけ出すが、ルパは火傷跡を見られるのを恐れ、常に顔を隠しながらランジーヴに接し続けた。にもかかわらずランジーヴは遂にルパとの結婚を決め、周囲もそれを喜び、そして抗うルパの声を無視して結婚の日が訪れてしまうのだ。

■異様な物語性

異様な物語である。なにより顔に火傷のある娘が主人公であり、映画の間中主演女優の特殊メイクされた火傷跡を見せられる、というがまず異様だ。そして男が真実を知らないままその娘と逢瀬を重ね結婚までする、という部分がまた異様だ。こういったシチュエーションは、暖かくも冷たくも描けるが、この作品ではもっと異様な領域まで踏み込んで描かれる。それは結婚し、真相を知った男の狂気の様だ。さらにクライマックス、一組の男女の怨恨であったものが、なぜか天変地異まで呼び寄せて、特撮を駆使した大スペクタクルに生まれ変わってしまう、という信じられない展開が、またもや異様なのだ。

物語のそもそもの発端から、映画を観る者はまず「男はいつ娘の火傷跡を知るのか」という部分に関心が行くだろう。そして「知ることにより、この二人はどうなるのか」と思うだろう。しかしこれが、なかなか知られないのだ。娘は最初、ずっと男を避けていた。それは、醜い自分が男に愛されるはずがない、という悲観と、男が自分の火傷跡を知れば嫌うだろう、という恐怖からだ。しかもそれは、これまで幸薄い人生を歩んできた娘にとって、最初で最後の希望であるかもしれないのだ。しかし娘は男を次第に愛し始め、二人はいつしか逢瀬を重ねるようになるが、この間、終始娘はヴェールで顔半分を隠している。そんな娘の顔を、男は恥ずかしがり屋なのだろう、と無理に見ようとはしない。こうして映画は、「真相を知らない」という状況をずっと引っ張り続ける。この辺で「なんとも凄いシナリオだ」と唖然とさせられる(ただし半笑い)。

■作品に横溢する狂気

しかし結婚のその日という最悪のタイミングで男は真実を知ることになる。「こんな女と結婚なんかした覚えがない!」と男は絶叫するが、時既に遅く、インドの神聖な結婚の儀式が済んだばかりなのだ。この「結婚の儀式のあとは何人も別れることはできない」というインド独特の信仰が状況をさらに異様なものにしてゆく。男は取り乱し「僕の本当の妻はどこにいるんだ!」と喚きまわるが、この時、男の精神に現実との乖離が引き起こされる。なんと彼は「火傷跡のある現実の妻」を否定し、「火傷跡の無いどこかにいる筈の本当の妻」を探し求めるようになるのである。そしてかつて逢瀬を重ねた滝のある場所へ、「本当の妻」を求めて彷徨うのである。そしてこの中盤から、物語の狂気は加速し始めるのだ。

妻はこんな男を哀れに思い、また、愛しているこの男と再び以前のように睦みたいがばかりに、「火傷跡の無い本当の妻」として男の前に現れ(しかしやはり火傷跡は隠しているのだ!)、男もそれを喜び、二人は思い出の滝のある場所で幸福に包まれながら愛しあうようになるのである。愛しあう二人の情景は幻想的なセットの中で行われ、それが夢のようであればあるほど、現実との距離のあまりの隔たりに寒気を覚えさせる。しかし愛の行為が終わり、男が家に帰るとそこには「火傷跡のある現実の妻」がいて、男はまたもや彼女を汚物を見るかのように惨たらしく扱う。この、現実否定と現実逃避の恐るべき二重生活を続ける男の精神は、既に狂気に蝕まれているのだ。そんな生活に、「本当の妻」として愛されることで耐え続ける女の業にもまた、哀れであると同時に異様なものを感じる。

■遂に決壊する現実

だが、そんな異常な生活に破綻が訪れる。女が身籠ったのだ。身籠った妻を男は激しく折檻する。「寝たことも無いお前が俺の子供を身籠る筈が無い!お前はどこかの男と交わって不貞の子を宿したのだ!」だがそれは間違いなく男の子であり、今度こそ女は男に真実を知ってもらおうと泣き叫びながら懇願する。そんな女を男は足げにして行ってしまう。ここで遂に女の怒りが爆発する。女は「地は揺れ、天は裂けるだろう」と男に呪いの言葉を投げかける。するとどうだ、本当に凄まじい暴風雨がやってきて村を襲い、人々は逃げ惑い川上のダムは決壊の危機を迎えているではないか!?

異様な物語はここに来て、さらに異常な展開を迎えることになる。女の呪い通り天変地異が訪れてしまうのだ!これは女の父が僧侶であり、娘の妊娠を巡るいざこざの中で息絶えたという背景があることから、ある種の神意に関連したものであろうとは思われる。だが、それにしても本当に天変地異が訪れるとは、いったいどうなっているんだ、と観ているこちらはこの段階で既に白目を剥いている状態である。ここでは円谷プロもかくやと思わせる様な特撮とミニチュアを使い、暴風雨の中ダムが決壊し、それに飲み込まれる村の様子まで描かれてしまっているのだ。いったいなんなんだこの物語は…。

■真理と善と美

確かに、タイトルにある「真理と善と美」は、それは見た目ではなく、心の裡にあるものだ、ということをこの作品では訴えたかったのだろう。そしてその「真理と善と美」とは即ち【神性】のことであり、その【神性】をないがしろにしたばかりに、このような恐ろしいことが起こった、ということなのだろう。この作品では冒頭からビシュヌ神の神殿、シヴァ神のリンガ、ガネーシャ神など、溢れんばかりにヒンドゥー神の像が登場し、女の歌う歌はそれを讃えるものなのだろう。そしてそれは神の愛と人の愛とを重ね合わせた意味となるのだろう。

ただそれにしても、それを見せる為にここまでのものを描いてしまうという部分にインド映画の凄まじさを感じてしまう。そしてここまで描きながらも、やはり「愛」の物語として結末を迎える所がまたしてもインド映画らしい。こんな映画を作れるのはインド映画だけだろう、と思ったが、ちょっと待て、この映画、日本の『大魔神』と相当近いものがあるぞ…。なにしろ本当に凄い、そして濃い作品だった。カルト映画好きの方、とんでもない映画が観たい方に是非お勧めしたい作品だ。