出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人情〜映画『Do Bigha Zamin』

■Do Bigha Zamin (監督:ビマール・ロイ 1953年インド映画)


映画『Do Bigha Zamin』は困窮のためカルカッタ(現コルカタ)に出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人間関係を描くドラマである。インド公開は1953年、モノクロ作品。タイトルの意味は『2エーカーの土地』。監督はベンガル語映画監督であるビマール・ロイ、主演はバルラージ・サーヘニー、ニルパ・ロイ(『Deewar(1975)』でアミターブの母親役)。この作品はイタリアのネオリアリズモ運動に触発された社会派作品であり、1954年に第7回カンヌ国際映画祭の国際賞を受賞している。

物語はベンガルの農村から始まる。農夫のシャンブー(バルラージ・サーヘニー)は病弱な父と妻パロ(ニルパ・ロイ)、息子のカンヘイヤ(ラタン・クマール)の4人暮らしだったが、地主からの悪辣な借金取り立てで農地を失う瀬戸際だった。シャンブーは借金を返すため大都会であるカルカッタへ出稼ぎに行くが、この時息子カンヘイヤがこっそりと列車に同乗してシャンブーを慌てさせた。カルカッタに付くも仕事も住むところもなく、あまつさえ荷物さえ盗まれ困り果てていたシャンブー親子だったが、彼らを救ったのが靴磨きの少年ラルと長屋の女将ラニだった。ラニから部屋を借りたシャンブーは人力車の仕事を、カンヘイヤは靴磨きの仕事を始め、少しずつ金を貯めて行った。しかしある日シャンブーは事故を起こし仕事に出られなくなってしまう。

映画『Do Bigha Zamin』は1953年の公開作品となる。ざっと時代背景を調べてみるなら、まず舞台となるカルカッタは1947年のインド独立後に西ベンガル州の州都となった都市だ。だが「この分離独立の際、イスラム教徒の多い東パキスタンからヒンドゥー教徒の難民が多数カルカッタへと流れ込み、600万人ともいわれるベンガル難民の多くがカルカッタ郊外や空地へと定住した*1」のだという。当時のカルカッタにはこの映画の主人公のように困窮した地方農民で溢れかえっていたのに違いない。カルカッタ自体もこの難民問題と社会不安、分離独立による地勢的な支障から経済的な衰退状況にあったのらしい。いわんや農地の窮状はそれどころではなかっただろう。

そんな困難な状況から始まる物語ではあるけれども、都会に出たシャンブー親子を迎えるのは決して辛苦ばかりではない。置き引きに荷物を奪われ困り果てた二人を助けたのは浮浪児の少年だし、金の無い二人に後払いでいいからと住居を提供するのもスラム街の女将なのだ。そして二人にそれぞれの仕事を世話するのもやはりスラムの人たちだ。ここには貧しい者同士のネットワークと互助精神があり、日本で言うなら「世話焼き長屋の人情話」といったところだろう。また、父親恋しさにこっそりついてきた少年も、最初は足手まといと思わせながら、実は彼がいるからこそ父親が助けられるといった展開を見せる。観ているこちらも最初はこの親子、どうなってしまうんだろうとはらはらしていたが、次第にほっこりさせられるのだ。

こんな感じで「貧しさの中の助け合い」を描き人の情けの美しさを謳い上げるこの作品、このまま理想主義的なお話で終わるのだろうか、となんとなく安心でもあり物足りなくもありつつ観ていたら、なんと最後の最後で大波乱が訪れる。そもそもこんな不幸な状況は当時でも幾らでも転がっていたんだろうとは思うが、ここまで理想主義的に進んできた物語のクライマックスに、こんなとって付けたようなリアリズムを持ってこられるので少々面喰ったのは確かだ。ただこう考えてはどうだろう。ラストに用意された悲惨なリアリズムは、遅かれ早かれ彼ら家族を襲ったのだろう。そして残念ながらこれが当時の現実だったのだろう。ただ、それでも、その過程で彼らは貧しさの中の人情を体験したのだと。あの一見過酷なラストの後でも、この家族は再び希望を見出し石に齧り付いても生き抜こうとするだろうと。

余談。この作品はラージ・カプール監督主演によるインド映画の歴史的名作『Awaara』のすぐ後に観た作品だったのだが、作中、少年たちが当時大流行していたのであろう『Awaara』の歌を歌い始めたのにはちょっとしたシンクロニシティーを感じてしまった。『Awaara』は1951年作なのでこの作品とはそれほど公開年数が離れていないのだ。