インドの前近代、近代、現代を内包する物語~映画『Dangal』

■Dangal (監督:ニテーシュ・ティワーリー  2016年インド映画)

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《目次》

 歴代ボリウッド映画興行成績を塗り替えた大ヒット作『Dangal』

インドのスポーツ映画はガチである。傑作が多いのだ。最近IFFJで公開された『M.S.ドーニー ~語られざる物語~』(クリケット)もよかったが、思い出すだけでも『ラガーン』(クリケット)『ミルカ』(長距離マラソン)『Chak De! India』(女子フィールドホッケー)『Brothers』(プロボクシング)と数限りない。そもそもスポーツをやりもしなければ観もしないオレが「インドのスポーツ映画面白い」と言っているのだからこれはもう映画としてのクオリティが高いからとしか言いようがない。

そんなインド・スポーツ映画の新たなる傑作がこの『Dangal』である。2016年暮れにインドで公開され、歴代ボリウッド映画興行成績を塗り替える大ヒットを飛ばし、さらに世界各国でもとんでもなくヒットしているという(でも日本公開がされないのは何故?)。主演が『きっと、うまくいく』『チェイス!』『pk』のアーミル・カーンとなればこれまた期待値は嫌でも高まるというもの。

その内容はというと、レスリング競技を巡る父と子の物語だ。これは実在するレスリング選手マハヴィール・シン・フォガートとその娘たちとのサクセスストーリーを題材にしているのらしい。そう、レスリングをするのは女性なのである。

娘に修羅の道を歩ませる父

舞台となるのは北インドハリヤーナー州。かつてレスリングチャンピオンを目指しながら遂に果たせなかった男マハヴィール(アーミル・カーン)は、自らの夢を継ぐ男児の誕生を渇望していたが、生まれて来る子供はどれも女児ばかりだった。しかしある日、成長した娘たちが男の子をぶちのめしたことを知ったマハヴィールは二人の娘にレスリングをやらせることを思いつく。嫌がる娘たちにスパルタ的ともいえる特訓を課し、そして遂に長女ギーター(ザイラー・ワーシム)は世界大会に出場できるほどの実力を兼ね備えるまでになる。しかしナショナルチームのコーチにとってマハヴィールのこれまでの訓練は時代遅れのものでしかなかった。

女子レスリングというとサルマーン・カーンが主演した『スルターン』があり、こちらは女子レスリングはあくまでサブテーマではあったけれども、それでも題材が被っているように思えて、大ヒットしたとは知りつつこの『Dangal』を観るのに結構二の足を踏んでいた。『スルターン』は個人的にもとても好きな作品だし、いくらアーミル・カーン主演とはいえ、期待が高すぎてがっかりしたくない、という不安があったのだ。世界的大ヒットという話題も、観るのに身構えてしまった理由だった。

しかし観終ってみると、『スルターン』とは別個のアプローチで女子レスリングを描いた作品であり、また外連味たっぷりの、そしていかにもサルマーン兄ィ出演作といった大衆娯楽作『スルターン』と比べると、実に正攻法のスポーツドラマとして完成していたと思う。そしてやはり、評判通り、目くるめくほどに面白い傑作であった。しかしこの作品を一般的に傑作たらめている要素、封建的な父親とその娘との葛藤と和睦、そして当然スポーツドラマとしての高揚感は確かに一般向けするものであると認めつつ、ここではもう少し違う観点でこの『Dangal』のことを考えてみたい。

インドの前近代、近代、現代を内包する物語

まずこの作品に底流するのはインドの前近代~近代~現代の流れのように思えたのだ。「自らの跡取りとして男児出生を希望する父親」というのは現実でもインドで問題になっていることだが、そういった封建的、あるいは「前近代的な存在」としての父マハヴィールがまず登場する。その生まれた娘に望みもしないのにレスリング訓練を強要することもまた前近代的な行為だ。

しかしここであるエピソードが挟まれる。それは長女ギーターと二女バビターの友達で、14歳で結婚させられることになるある少女の話だ。少女の結婚、というのもインドの前近代性だ。しかしこの少女はギーターとバビターに、「単なる女中扱いで結婚させられる自分と比べるなら、あなたたちの父はまだあなたたちを人間扱いしている」と告げるのだ。

確かに、望まぬこととはいえギーターとバビターへのレスリング特訓は、はからずして女性でありながら自らの道を切り開く切っ掛けとなるものと考えることもできるのだ。勿論それはマハヴィールの独善的な強要ではあったが、結果的に女性に道すらも無い世界に道を敷いたのである。ここで「父の敷いた道」を「自らの進む道」と認識したギーターとバビターは、父の過酷な特訓を受け入れるようになるのだ。ここには前近代から一歩進んだ近代性が孕まれているのだ。

さてナショナルリーグチームに編入されたギーターは、ここで科学的で合理的なメソッドに基づくトレーニング法を学び、同時に父のトレーニング法が時代遅れのものであることを知る。科学性と合理性を学び知る事、これは即ち「現代」性である。それにより、ギーターは「父親」という「近代」を克服するのである。多少その存在が弱まっているとはいえ、「絶対的な父親」像が未だ残るインドにおいて、「父親の克服」というのは実に現代的なテーマであるように思う。

合理性と人間の情

しかし、「現代的」なスポーツ科学の適用があるにもかかわらず、ギーターの成績は伸び悩む。そしてここで父親のアドバイスが復活する、というのがこの『Dangal』の流れとなる。つまり現代から前時代に揺れ戻ってしまうのである。揺れ戻ったその「前時代性」とは何か。それは父親との「愛」であり「信頼」である。スポーツ科学やスポ―ツ心理学ではその辺もケアしているような気もするのだが、物語ではここで「スポーツ協会への不信」という形でうまく説明されている。

こういった形で、『Dangal』の物語は「前近代~近代~現代」といったインドの精神史の中を揺れ動いてゆく。これは広大な国土と膨大な国民数、さらに悠久から続く歴史性により同時代に前近代〜現代まで内包しているインドならではのドラマ性だと思う。歴史はインドに現代的であれ、そして科学的で合理的であれ、と鼓舞するだろう。しかし人の心とはそう簡単に合理性のみに馴染むものではない。『Dangal』の物語はその中に差し込む「人間の情」についての物語だ。それは新しくも古くも無くあくまで普遍のものであるかのように。しかしその未来に何があるのかは、これはまた別の話なのだろう。

『Dangal』予告編


Dangal | Official Trailer | Aamir Khan | In Cinemas Dec 23, 2016

参考記事