今は亡き母の面影を辿って〜映画『Zubeidaa』

■Zubeidaa (監督:シャーム・ベネガル 2001年インド映画)


2001年に公開された映画『Zubeidaa』は一人の青年が顔も知らぬ亡き母の足跡を辿るため様々な人々の証言を聞いてゆくという物語である。主演にカリシュマー・カプール、ラジャット・カプール。他にアムリーシュ・プリー、マノージ・バージペーイー、レカーの出演がある。監督は社会派で知られるシャーム・ベネガルだが、この作品自体は一般的なロマンス作品だ。また、音楽をA・R・ラフマーンが担当し、物語をロマンチックに盛り上げている。

物語は葬儀のシーンから始まる。出席していた少年リャズは、それが顔の知らぬ実の母の葬儀であることを知る。時が経ち、大人となったリャズ(ラジャット・カプール)は、亡き母ズヴェーダ(カリシュマー・カプール)の足跡を辿りはじめる。娘時代のズヴェーダは活発な女性だったが、支配的な父(アムリーシュ・プリー)との確執に悩んでいた。父の決めた結婚相手と嫌々結婚し息子リャズを産むも、その父によって今度は離婚に追い込まれた。その後ズヴェーダはファテープルのマハラジャ、ヴィジャエンドラ(マノージ・バージペーイー)と恋に落ち結婚を決意する。だがその条件は息子リャズを実家に置いておくことだった。さらにヴィジャエンドラには第一夫人マハラーニ(レーカ)がおり、ズヴェーダとの間に摩擦が生じ始めていた。

ヴェーダの思い出を辿る最初のシーンは映画スタジオで女優として踊る彼女の姿だ。だが父リャズは、自らが映画プロデューサーなのにもかかわらず、いや、だからこそだったのか、娘が映画女優になることを決して許さない。続いてが父の決めた結婚相手を拒むズヴェーダの姿だ。この辺の前半で、「ああこれは支配的な父の態度に抗おうとするその子供の姿を描いた典型的なインド映画展開の女性版なのかな」と思ったわけだ。考えてみれば父に抗う息子の姿を描くインド映画は多いが娘版は珍しいかもしれない。まあオレが観ていないだけなのだろうとも思うが、少なくともそんなに多くはないのではないか。

ところが中盤、マハラジャとの結婚を経てからなんだか様子がおかしくなる。お金持ちの有力者と結婚できたのだから十分幸せなのではないかと思ったらそうでもないらしい。なんとズヴェーダは第一夫人のマハラーニにメンチを切り出すのである。結婚する前から第一夫人がいたことは知っていたわけだし、納得づくなんじゃないかと思っていたのだが、やっぱり納得できなくなってしまったらしいのだ。マハラーニ自身は第二夫人のズヴェーダをきちんと尊重し、共によい関係を築きましょうという態度なのにもかかわらず、ズヴェーダのほうはやっぱり旦那には私のほうだけ向いて欲しい!とか言い出す始末なのだ。勝手な女である。

とはいえ、それは強烈な自意識と燃え上がるような情熱に支えられた一人の女の内面の発露、ととらえることもできる。そう考えると前半の父親との軋轢は、それは父親の強権的な態度によるものだけではなく、ズヴェーダがなんとしても己を押し通したいと願う我の強さを持ち合わせた女であることが軋轢のもう一つの原因だったのだろうと思う。その我の強さは、「納得づく」などという頭で判断することを押しのけ、「私だけに愛が欲しい」という押さえられない感情を徹底的に肯定する部分に現れる。もう一つ、父親に支配され続け、最初の結婚も失敗したズヴェーダが、この結婚こそは真の愛を得るものでありたい、と強烈に願ったからだというのもあるだろう。

こういった我が強く情緒だけが先走ってしまうキャラクターは個人的に苦手なのだが、逆にこれこそが女の情念の在り方だと見る向きもあるだろう。例えば『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラのように。だがオレはこれは『キャンディ・キャンディ』だな、と思った。マハラジャに玉の輿、なんて少女漫画みたいじゃないか。いや、少女漫画を貶しているわけではない、自分も大島弓子山岸涼子のコミックは大好きだったからな。『キャンディ・キャンディ』だって全巻読んでるぞ。妹が持ってたんだ。あの主人公のキャンディって、お茶目なドジっ子ように見えてなかなか我の強いキャラだったぞ。しかし女性が何かと自らを押し通せない社会でフィクションの中だけでも我を通し「私だけに愛が欲しい」と言い切るのはある意味必要なのかな、とも思えたな、この『Zubeidaa』を観て。そうなのかな、と思うだけで男のオレにはよく分かんなかったりするが。ううむ。