もうアメコミヒーロー映画はデッドプールだけでいいと思う〜映画『デッドプール』

デッドプール (監督ティム・ミラー 2016年アメリカ映画)


実は随分前からアメコミヒーロー映画に興味を無くしている。面白くない。観ていて飽きる。理由は以下のことによる。

・正義正義うるさい。……頭血ィのぼりやすいタイプばっかなのか?
・世界の平和とかどうでもいい。……だいたい殆どアメリカの平和だしな。
・みんなつるみすぎ。……ゴチャゴチャしすぎてかなわん。
・深刻ぶりすぎ。……観ていて具合悪くなる。
・また今日も人類滅亡の危機かよ。……大風呂敷拡げ過ぎなんだよ。

そんなオレだったが、マーベルコミックヒーロー、デッドプールが映画化されると聞いた時は「おお、これはアリかも!?」と思った。以前原作コミックを数冊読んだのだが、お馴染み過ぎてすっかり見飽きた某や某みたいなヒーローの顔ぶれに比べると、十分に新鮮で吹っ切れていて楽しかったのだ。そしてようやく劇場で観ることのできた映画『デッドプール』……いやあメッチャおもろかったですわ!!

映画『デッドプール』はオレがすっかり食傷していたアメコミヒーロー映画の難点を全て克服していた。

デッドプールは正義を語らない。……あいつの行動は殆ど個人的な事情である。
デッドプールは世界平和を語らない。……なにしろ個人的な事情だし。
デッドプールはつるまない。……まあエックスなんちゃらいう連中も出ていたがあれは利用しただけだろ。
デッドプールは深刻ぶらない。……いや、その誕生は深刻であり苦痛に満ちたものだった。ただ、それを今更グダグダグダグダグダ引っ張らないのだ。どっかの誰かみたいにいい大人になっても相変わらず「幼少時のトラウマがー」とか言ってる性格の暗い野郎とは天と地ほども違う前向きさだ。
デッドプールは人類なんてどうでもいい。……危機になったら自分と恋人だけでどっかに逃げる。

これら全てはすっかりインフレーションを起こしまくっている従来的なアメコミヒーロー映画の批評ともなっているのだ。

今回の映画『デッドプール』、特に粗筋は紹介しない。どっか探せばいくらでも読めるだろ。それに、今作の魅力はストーリーにあるのではない。個人的な復讐と個人的な憤怒に燃えるデッドプールがR15指定のゴアばっちりなウルトラバイオレンスアクションを決め、その合間にバカアホマヌケ満開でサイテード下品な戯言を延々とくっちゃべっている。それが映画『デッドプール』の全てだ。そしてそれが、イイのだ。絶対の危機の状況にありながら、なんの緊張感もなく、ケツやチンコやスター・ウォーズの話をしている、その有り得ないコントラストが楽しいのだ。カッコよくキメる場面でハズし、ロマンチックに盛り上がる部分でハズす。この「ハズシ芸」が堪らないのだ。

その徹底的な周到さは、逆にインテリジェンスさえ感じさせてしまう。その戯言の奔流は膨大な映画ネタオタクネタに溢れ、よく拾ってきたなあ、と思わせるのと同時に、ホンットどうでもいいことばっかりくっちゃべってんなあ、と思わせる。このどうでもよさにオレは感銘した。映画を観ながら原文のセリフ全てにあたってみたい、とすら思わせた。こんなふうに思えた映画も初めてだ。

そして、この映画は、サイテーであるからこそ、そこで展開するロマンス要素に泣かせられる。最強の傭兵とはいえ所詮人の道を外れたつま弾き者が、場末のストリッパーに恋をする。例え社会の底辺に住んでいようとも、そこで得られる真摯な愛は世界最高のものだった。例によってロマンスシーンでも徹底的にハズしまくる今作だが、逆にハズせばハズすほど、二人のささやかな愛がひたすらキュートなものとして胸に迫ってくる。オレは映画『デッドプール』を観て涙が出るほど笑わされたが、その涙の一部は、実はこの二人のささやかな愛に心奪われたからでもあったのだ。


デッドプール:マーク・ウィズ・ア・マウス (ShoPro Books)

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