ラテンアメリカのポスト・モダニズム〜『夜、僕らは輪になって歩く』

■夜、僕らは輪になって歩く / ダニエル・アラルコン

夜、僕らは輪になって歩く (新潮クレスト・ブックス)

内戦終結後、出所した劇作家を迎えて十数年ぶりに再結成された小劇団は、山あいの町をまわる公演旅行に出発する。しかし、役者たちの胸にくすぶる失われた家族、叶わぬ夢、愛しい人をめぐる痛みの記憶は、小さな嘘をきっかけに波紋が広がるように彼らの人生を狂わせ、次第に追いつめていく―。鮮やかな語りと、息をのむ意外な展開。ペルー系の俊英がさらなる飛躍を見せる、渾身の長篇小説。

現代の南米を舞台に、地方を巡る小劇団が出遭う因果としか言いようのない事件を描いたのがこの『夜、僕らは輪になって歩く』だ。ペルー生まれのアメリカ人作家、ダニエル・アラルコンの長編第2作となる。

劇団「ディシェンブレ」の主催者ヘンリーはかつて『間抜けな大統領』という風刺劇で地方を回っていたが、その内容からテロ扇動教唆の嫌疑をかけられ投獄されてしまう。出所から15年後、彼は再び『間抜けな大統領』を演ずるため、昔の劇団仲間パタラルゴ、学生のネルソンの3人で南米の山々の町を巡業することになる。事件が起こったのは「T」とだけ呼ばれているある町を訪れた時だった。その町はヘンリーが獄中で友人となり、その後政府軍の攻撃により死亡したロヘリオという男の生まれた町だったのだ。過去の忌まわしい思い出が現在と絡みあい、3人の劇団員に暴力と死の影がひたひたと這い寄ってくる。

3人の劇団員の中で中心的に描かれるのは美術学生のネルソンだろう。彼の家族、とりわけアメリカに渡ったまま決して彼を呼び寄せなかった兄との確執、そして別れた恋人イクスタへの悲痛な未練。この彼を含め、劇団主催者ヘンリーにしろパタラルゴにしろ、なにがしか過去に囚われ、その囚われた過去の結果としての現在に生きている。彼らは痛恨の過去を経た現在に生きながらえているだけで、若者であるはずのネルソンですら未来へのビジョンが見えないでいる。そもそも彼らの公演旅行自体が、15年前に反政府的といういわくが付いた演目の再演なのだ。彼らの回る山々の町は、どれもが過去に取り残されたような人々の暮らすひなびた土地であり、彼らを襲う"事件"それ自体が過去の因縁に基づくものなのだ。

これらを描く作者アラルコンの筆致は訳者が「ジャーナリズム的」と呼ぶ情緒を廃した乾いた文体であり、そこに時折詩的な比喩が陰鬱に閃くといったものだ。文章は精緻に計算されており、物語内で起こる出来事は決して突飛なものではないが、人間心理の不確実性を巧みに描くことで、いつしか思いもよらぬ方向へと向かってゆく。だが見事に構築された物語を読み終わった時に、これはいったい何をテーマとした物語だったのだろう、と考えてしまう。そして物語の中である種の"仕掛け"として埋め込まれた、後半までいったい誰なのか判別できない「僕」という語り部の存在にどういった意味があったのかが謎なのだ。

アラルコンの長編第1作『ロスト・シティ・レディオ』は内戦状態にある架空の南米の国が舞台だった。主人公は内戦による行方不明者を探すラジオ番組の女性パーソナリティー。彼女が遭遇する悲痛な現実はまさに現在進行形であり、物語は悲劇のうちに幕を閉じる。一方この『夜、僕らは輪になって歩く』は『ロスト・シティ・レディオ』と物語的な関連は無いにせよ、「南米における内戦」といった点で繋がっている。いわば『夜、僕らは輪になって歩く』は『ロスト・シティ・レディオ』という過去を持つ"現在"なのだ。

これは即ちポスト・モダニズムということではないか。内戦という近代(モダン)が終わった後の次(ポスト)の時代。物語に描かれるポスト・モダニズムとしての現代は過去の悲惨さを通過し一応の平和を取り戻しているけれども、しかし未だその傷跡から立ち直れず、行き詰まったまま停滞している。物語に登場する「僕」の存在とは、その過去を検証し現在とはなんなのかを見つめ直すものだったのではないか。その検証は物語ラストにおいてもまだ未完なのだけれども、ポスト・モダニズムのその先の未来へ手を伸ばそうとした物語、それがこの作品だったのではないかと思うのだ。