積読していたSF小説をあれこれ読んでいた第2弾!

以前更新した『30年以上積読していた古いSF小説を中心にあれこれ読んでいた。 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ』の第2弾です。今回も30年モノの積読SFを読んでみました。ちなみに「積読シリーズ」はとりあえず今回まで!

ノーストリリア / コードウェイナー・スミス

ノーストリリア (ハヤカワ文庫SF)

ノーストリリア (ハヤカワ文庫SF)

時は“人間の再発見”の第一世紀。銀河随一の富める惑星ノーストリリアで、ひとりの少年が地球という惑星を買い取った。少年は地球へやってきて、なみはずれた冒険を重ねたすえに、本当にほしいものを手に入れて、無事に帰ることができた。お話はそれだけだ。さあ、これでもう読まなくていい!ただ、こまかいところは別。それは、この本のなかに書いてある。ひとりの少年が出会った真実の愛と、手に汗にぎる冒険の日々が…。人類補完機構の驚異の世界。

人類の辿る長大な未来史を描く「人類補完機構」シリーズの中心となる長編作品『ノーストリリア』、これも10代の頃に積読していた1作だ。コードウェイナー・スミスは「きらびやかな遠未来描写」などと評されることが多いが、これがどう「きらびやか」なのか少年時代のオレにはピンと来なかったのだ。まず初っ端の、舞台である惑星ノーストリリアの描写からからして単なる田舎惑星であり、主人公となる少年にもどこにも感情移入できなかったのが当時躓いた理由だ。しかしこれが今読んでみるとするすると読めてしまうのだから積読というのは面白い。なにしろ30年以上の積読となるが。そして読み終えて判ったのは、実はこの作品が、のどかで恵まれた酪農地帯である田舎から、殺伐とした都会へ飛び出してきた少年の至る精神的遍歴を、SF世界へと移し変えて描いたビルドゥングス・ロマンだった、ということだ。そして作者の描く世界における"下級民"は多分非西欧社会人を指しているのだろうし、それに対する共感を描くのは、作者が外交官というグローバルな視点を持っていたからだろう。ただしこの作品がそういった単純なアレゴリカルなドラマに終わらないのは、作者の"幻視"する世界が、異様であり奇妙に歪んでいる、といった点だ。特に顕著である肉体の変異、苦痛といった描写は、作者のなにがしかの身体的・内面的苦痛の発露だったのではないか。作者の視点にはどこか健常でないことによる苦痛と共感が存在しているように感じる。だからこそ作者は大いなる"幻視"でそれを乗り越えようとしていたのではないか。

鋼鉄都市 / アイザック・アシモフ

鋼鉄都市 (ハヤカワ文庫 SF 336)

鋼鉄都市 (ハヤカワ文庫 SF 336)

警視総監に呼びだされた刑事ベイリが知らされたのは、宇宙人惨殺という前代未聞の事件だった。地球人の子孫でありながら今や支配者となった宇宙人に対する反感、人間から職を奪ったロボットへの憎悪が渦まく鋼鉄都市へ、ベイリは乗り出すが……〈ロボット工学の三原則〉の盲点に挑んだSFミステリの金字塔!

SF界の3巨頭といえばアシモフ、クラーク、ハインラインだが、実はこのうちアシモフとクラークは殆ど読んでいなかった。特にアシモフに関してはこれまで読んだことがあるのは長編『停滞空間』ただ1冊である。この『鋼鉄都市』も、10代の頃購入してその筆致にどうにも乗れなくて頓挫した1冊だった。10代の頃、科学畑の人間は文章が下手だ、などという一つも根拠のないことを勝手に思っていたのである。だいたいSFなんざ殆ど科学畑の人間が書いていたのにも関わらずだ。まあ若さゆえの無知と無理解なので許して欲しい。という訳でやっと読み始めたこの『鋼鉄都市』、いやあちょっと待ってよこれなにメッチャ面白いじゃないですか!?「未来都市における人間とロボットの警官コンビによる殺人犯捜査の物語」なんていう設定以前に、閉塞感に満ちた未来社会がとても雰囲気があるし、人間の刑事のどことなく草臥れた様子も味わいがあり、それに対するロボット警官も独特の個性を持っている。そしてこの『鋼鉄都市』、"ロボット"を"レプリカント"に読み直すとあら不思議、『ブレードランナー』になるのだ。作中には「人間なのかロボットなのか?」という疑惑も描かれてこの辺も『ブレードランナー』を髣髴させる。さらに未来社会の在り方に対する科学的考察が実に知的であり、今読んでも充分に説得力がある。推理小説も書いていたアシモフだけあって文章の組み立て方も巧い。誰だ「文章が下手だ」なんてろくに読みもしないで言ってる奴は(オレでした)。これら全部をひっくるめてとても充実した内容で、もし10代の頃きちんとこの『鋼鉄都市』を読んでいたらオレはアシモフにはまりまくり、『ファウンデーション・シリーズ』なんかも全部読んでいただろうな、とすら思ってしまった。なにしろ時代を超えた傑作SFであることは間違いない。

百億の昼と千億の夜 / 光瀬龍

百億の昼と千億の夜 (ハヤカワ文庫JA)

百億の昼と千億の夜 (ハヤカワ文庫JA)

西方の辺境の村にて「アトランティス王国滅亡の原因はこの世の外にある」と知らされた哲学者プラトンは、いまだ一度も感じたことのなかった不思議な緊張と不安を覚えた…プラトン、悉達多、ナザレのイエス、そして阿修羅王は、世界が創世から滅亡へと向かう、万物の流転と悠久の時の流れの中でいかなる役割を果たしたのか?―壮大な時空間を舞台に、この宇宙を統べる「神」を追い求めた日本SFの金字塔。

10代の頃、光瀬龍小松左京筒井康隆と並んで好きな日本人SF作家だった。光瀬龍の描く宇宙SFの、その徹底的な「寂寥感」に魅せられた。特に『喪われた都市の記録』だ。なにしろ分厚い作品だったのだが、「分厚い作品を読んだ」というのが10代の頃誇らしかった。しかしその光瀬龍の、萩尾望都で漫画化までされたこの『百億の昼と千億の夜』だけは、なぜか読み進めることができなかた。プラトンブッダイエス・キリスト阿修羅王が主人公となるこの物語、それだけでも面白そうなものではあるが、逆に、「宇宙SFじゃない」といった部分で興味が湧かなかったのかもしれない(宇宙とか遙か遠い彼方の異星は出てくるが)。でまあ今回読んでみたのだが、例によって光瀬お得意の「永劫の時間の中に現れては消えてゆく生命のはかなさ」みたいのから始まり、例のプラトンやらブッダやらイエス・キリストが現れ、「宇宙を滅びの運命に導いてゆく謎の存在」について言及され、それと数億年に渡る戦いを続ける阿修羅王なんてのが出てきて、なにしろ大風呂敷広げまくるのだ。だが後半は「宇宙の滅びの運命」という茫漠として掴み所のないものとの戦いになってしまうがために、物語それ自体も茫漠として掴み所のないものになってしまい、最終的に「悠久の時の流れに全ては飲まれてゆくのだ」というやっぱり茫漠として掴み所のないクライマックスを迎え、なんかこう狐に摘まれたような気分で読み終わった、という按配である。物語のハイライトは超未来の滅亡した地球を舞台に、サイボーグ化されたブッダとキリストが熱線銃振り回しながら対決するところだな。光瀬さんこれが描きたかっただけなんじゃないのか?

■闇の左手 / アーシュラ・K・ル・グィン

ヒューゴー賞ネビュラ賞受賞〕両性具有人の惑星、雪と氷に閉ざされたゲセンとの外交関係を結ぶべく派遣されたゲンリー・アイは、理解を絶する住民の心理、風俗、習慣等様々な困難にぶつかる。やがて彼は奇怪な陰謀の渦中へと……エキゾチックで豊かなイメージを秀抜なストーリイテリングで展開する傑作長篇

アーシュラ・K・ル・グィンもまともに読んだことのない作家の一人だった。長編で読んだことがあるのはサンリオから出ていた『天のろくろ』ただ1冊だけである。ヒューゴー賞ネビュラ賞のダブルクラウンに輝き、ベストSFに必ずそのタイトルが出され、作者の代表作中の代表作と言われていたこの『闇の左手』も、結局積読していた。というわけで読み始めたのだが、…う〜んこれ、残念ながら今ひとつだったなあ。物語は重厚な描写と入り組んだ会話が中心となり、これらはおそろしくよく書けてはいるけれど、しかし全体を眺めると評判ほど物凄い作品とまでは思えなかったぞ。そもそもこの作品、SFに名を借りつつ、描かれているのは異世界ファンタジーでも通用してしまう物語じゃないか。相当緻密に作りこまれた異世界であるというのは伝わるんだけども、ざっくり乱暴に眺めるなら結局単なるヨーロッパ白人社会の写しにしか過ぎず、その社会もテクノロジーが未発達な中世然としたもので、まるでSF臭を感じさせないんだよな。そしてこの物語を最も特異なものとしている「両性具有の惑星住民」というアイディアも、設定止まりで物語にはまるで生かせていないじゃないか。オレはてっきり惑星に派遣された地球人と両性具有の惑星ゲセン人の間で禁じられた恋が盛り上がるのかとワクワクしていたのに全く無いとはどういうことだ。主人公である地球人にはまるで魅力がなく、むしろ彼と対するゲセン人のほうが感情の起伏が生々しく描かれていて、これは彼を主人公とするべき物語だとも思えたな。途中で挟まれる「伝説」とやらも設定を強固にするが、単にもったいぶっているだけのように感じたな。

■光の王 / ロジャー・ゼラズニイ

光の王 (ハヤカワ文庫SF)

光の王 (ハヤカワ文庫SF)

遙かな未来、人類は地球から遠く離れた惑星にインド神話さながらの世界を築いていた。地上の民衆は無知なまま原始的生活を送り、“天上都市”の不死となった“第一世代植民者”は科学技術を独占し、神として民衆を支配している。だが、シッダルタ、仏陀、サムなどの名で知られる男が、圧制下にある民衆を解放すべく、敢然として神々に戦いをいどんだ…たぐいまれな想像力で、SFと神話世界をみごとに融合した未来叙事詩ヒューゴー賞受賞。

ゼラズニイも、短編集『伝道の書に捧げる薔薇』こそ実に面白く読んだのだけれど、長編となるとなぜか取っ付き難く、この『光の王』も折角ハードカバーで買ったのにもかかわらず積読していた一冊だった。粗筋だけ読むと物凄く面白そうだったんだが、読み始めると期待してたようなSFぽくなかったのだ。という訳で今回再挑戦したのだが、そこそこ面白くは読んだのだけれども、やはりそれほど傑作と呼べるような作品には感じなかった。まずこの作品、SFとしての精度が低い。「超科学を持ち神の如き能力を備えた特権階級的な者たち」という設定は悪く無いものの、それにより単に「なんでもあり」になってしまっていて、「なんでもあり」に頼り過ぎた故にテクノロジー描写が省かれ過ぎ、それにより「なんだかファンタジーみたいなSFみたいなモニョッとした作品」になってしまっているのだ。同様な作品として超科学の賜物によるギリシャ神話の神々の如き眷属が闊歩するダン・シモンズの『イリアム』『オリュンポス』があったが、これなどは詳しいテクノロジーなど描かれなくとも十分にSFしていたことを考えると、ゼラズニイという作家はその描写においてちょっとズルしちゃってるんじゃないかと思えるのだ。そもそも、この『光の王』の感想でよく見かける「読み難い」「分かりづらい」といた言葉は、読者の読解力や訳文のせいではなく、もともとゼラズニイの文章における表現力に難があるせいなのではないかと思えてしまうのだ。まあしかし、うるさいことなど言わず少年漫画を読むような気分で読むのがこの作品の正しい読み方なのかもしれない。また、この作品における「インド神話」の世界を借りたキャラクター描写は、「インド神話」自体を掘り下げたものではまるでなく、単なる剽窃でしかないのだけれども、それ自体は悪いものには感じなかった。インドなSFを読みたければイアン・マクドナルドの『サイバラバード・デイズ』という傑作短編集があるのでこちらをお勧めする。