ハートを持ったロボット〜ランビール・カプール、ディーピカー・パードゥコーン主演作品『Tamasha』

■Tamasha (監督:イムティヤーズ・アリー 2015年インド映画)


物語は舞台で演じられる寸劇から始まる。それはギクシャクと動くロボットとピエロとの掛け合いだ。ロボットは「僕はいったい誰なのだろう?」と自問し、それにピエロは「君は毎日働いて家に帰るだけの存在さ」と告げる。ロボットの胸には赤いハートが輝いている。ロボットは壊れ、停止してしまう。次に描かれるのはある少年の情景だ。彼はなによりも物語が好きで、街の片隅にいる物語師になけなしの小遣いをはたき、いつも胸躍る冒険の物語を聴いていた。だが彼の両親は、そんな息子を快くは思ってなかった。そしてまたしても舞台は変わり、そこは風光明媚なコルシカ島、そこで一組の男女が出会うのだ。

2015年公開のインド映画『Tamasha』はこんな奇妙なオープニングから始まる。多分ロボットとピエロの舞台は主人公の将来の姿なのだろう。そして子供時代の情景は主人公自身の過去なのだろう。そんな主人公が美しい女性と出会うコルシカ島では何が起こるのだろう。これら一見バラバラな要素がどう組み合わさり、どんな物語が綴られてゆくのか興味の尽きない秀逸なオープニングだ。主演はランビール・カプールディーピカー・パードゥコーン。監督は『Highway』(2014)、『Rockstar』(2011)、『Jab We Met』(2007)とどれもユニークなラブ・ストーリーを生み出してきたイムティヤーズ・アリー。そして音楽をA・R・ラフマーンが担当し、またしても変幻自在の美しい調べを聴かせる。

主人公の名はヴェード(ランビール)、女性の名はターラー(ディーピカー・パードゥコーン)。コルシカ島で意気投合した二人はお互いの素性を知らせず一週間だけ別人の人格で付き合いそして分かれることを約束した。ヴェードは自分を「ドン」と名乗り徹底的に素っ頓狂な人間を演じ、そんなヴェードにターラーは心惹かれるが否応なく分かれの時は来た。ターラーはそんなヴェードの姿を忘れられず、何年も彼の面影を追い求める。そんなある日遂にデリーで二人は再会する。だがそこで出会ったヴェードは生真面目なサラリーマンだった。二人は交際を重ねヴェードはターラーに求婚するが、ターラーは悩みながらもそれを退ける。何故ならターラーが恋していたのはコルシカ島で出会った素っ頓狂で魅力溢れる「ドン」だったからだ。失恋の苦悩の中ヴェードは自問する。自分が本当になりたかったものはなんだったのだろう、と。

旅先で出会った二人が演じたキャラクターは、それは互いが実際に抱える現実からかけ離れた、非現実的なものであったかもしれない。だがしかしそれは、各々の内面に眠る、もう一人の自分であったのだろう。そしてそれは、現実のしがらみにとらわれない時の、自由奔放な「自分」であったのだろう。ヴェードと再会したターラーは、ヴェードの現実に塗れた面白味の無さに失望する。随分と勝手な態度かもしれないが、実の所恋愛とはそういうものだ。コルシカ島でのヴェードには、心浮きたたせる「マジック」があったのだ。そして現実のヴェードには、その「マジック」が無かったのだ。そしてこの後に展開するヴェードの行動が面白いのだ。ヴェードはターラーの前で単にもう一度「ドン」を演じれば実は二人の仲は修復できたかもしれない。しかしヴェードはそうぜず、自分の中にあった「ドン」とはなんだったのかを自問し、掘り下げようとするのだ。

それはヴェードという男の生真面目さと真摯さの表れなのだろう。その場で調子を合わせて「ドン」をもう一度演じるのではなく、ターラーの愛した「もう一人の自分であるドン」の本質を探そうとするヴェードの態度は、即ちターラーを真に愛していたからであり、また真に愛されたかったからだったとは言えないだろうか。こうしてヴェードの、どうにも一筋縄ではいかない「自分探し」が始まる。そしてその探求の旅の向こうにあったのが、「物語の大好きだった自分」であり、その物語をあたかも「ドン」のように演じることのできる自分だったのだ。ここで冒頭のロボットの寸劇を思いだしてみよう。現実に塗れて生きるヴェードは機械でできたロボットでしかなかった。ロボットは「毎日働いて休む」だけの存在だ。だがそのロボットの胸には赤く輝くハートがあった。心を持つロボット、それは矛盾した存在だ。即ち現実に塗れたヴェードは矛盾した存在に過ぎなかったのだ。するとヴェードが探していたものが何だったのか分かる。それはロボットであるくびきから逃れ、赤く輝くハート=心の命ずるものに忠実である人間ということだったのだ。

こうして映画『Tamasha』は一見ロマンス作品の体裁を取りながら、その中に「自分はどうやって生きていきたいんだろう」という問い掛けを織り込んだ作品として完成している。作品の中で出会いと別れを体験するランビールとディーピカーは非常に複雑な感情を演じ彼らのベスト演技だったのではないか。かつて二人は交際していたという話だが、そのせいか演技における息の合い方が絶妙であり、そしてまた見せる表情がどれも自然で、だからこそ映画を観る者は二人の感情に自然に入って行ってしまう。ロケーションである冒頭のコルシカ島、クライマックスの東京、全てが美しい。それにしてもやはりインド映画は凄い、作品テーマの持つ複雑さと豊潤さ、生に対するあくまで前向きな態度、幸福へと帰結するための試練との対峙、そして画面に溢れる明るい色彩、この全てを包括する大いなる肯定性、これらは歌や踊りだけではないインド映画の大きな要素であり魅力だろうと思う。映画『Tamasha』もそうした魅力溢れる作品だと言っていいだろう。傑作である。

「Matargashti」

この開放感あふれる色彩とロケーション、力のいれ過ぎない踊りとA・R・ラフマーン素晴らしい音楽。ランビールはとても楽しくて、ディーピカーはどこまでも美しい。インド映画を観ていてよかったなあと思える素晴らしい1シーン。